第1章 あばずれ娘、見出される 3-4
3
牧場の仕事は、基本激しい肉体労働で、同時に全て汚れ仕事だ。
牛の糞にまみれながら寝わらを掃除し、整え、腐りかけた餌をバケツにあけて餌箱を水で流し、新しいエサと水を補充する。井戸から水を汲んで牛の体をブラシでこすってやる時も、油断するとすぐに汚水を浴びせられるし、草を刈ったりエサのビーツを収穫する時期には、体中汗まみれになる。
けれど、汗と泥――そして動物たちの糞尿――にまみれて働くことは、あまり苦にならない。私がきたなくなった分、動物たちの表情が穏やかになり、行動に喜びが満ちてくることを、実感できるからだ。
動物はいい。気持ちがまっすぐで、わかりやすい。こちらが世話をしてやればしてやった分だけ、素直に感謝し、喜んでくれる。
それにひきかえ、人間は――特に男たちは――どうしてあんなに分からず屋なのだろう。
自慢ではないが、私は牧童としては有能な方だ。
少なくとも、朝はなかなか起きてこず、昼間はだらだらとだらけてばかりで、夕方になればすぐにビールを飲み始める、この牧場の男たちに比べれば、数段ましな働きをしていると思う。
なのに、なぜ牧童頭は私を「怠け者」と呼び、ことあるごとに怒鳴りつけるのか、さっぱり訳が分からない。
今日も、雌牛の乳を一通り絞ってから放牧場へと出してやり、寝床を掃除して、新しい寝わらをしくまでを――ほとんど私一人で!――やり終えたところへ、私の数倍不機嫌そうな顔でようやくやってきたかと思うと、
「まだ終わってねえのか、この怠け者が!馬の世話はどうした、さっさとしねえか!」
いきなり怒鳴りつけやがった。
これには私もさすがにムカついた。なので、
「そんなにさっさと終わらせたきゃ、牧童小屋でぼやぼやしてやがる男どもに、言ってやりな!」
相手をにらみつけながら、でかい声で言い返してやる。
と、牧童頭のヤツ、ますますいきり立った。
「新米のくせに、えらそうな口叩くな!奴らには奴らの仕事があるんだ!」
「へえ。あたしら牧童に、動物の世話以外のどんな仕事があるってのさ」
「だから、牛以外に、馬やら羊やら豚やら……」
「馬に羊に豚?笑わせるんじゃないって。あたしが来るまで、ここの動物たちは皆、ろくに世話されてなかったじゃねえか!かわいそうに、馬は痩せて、羊はドロドロ、豚ときたら、糞まみれで……」
「うるせえ!とにかくお前は、おとなしくおれの言うことさえ聞いてりゃいいんだ!」
かぶっていたハットを地面にたたきつけ、すさまじい剣幕で怒鳴り声を上げると、牧童頭は突き出た腹をぶよぶよ揺らしながら、大股で去って行った。
形勢が悪くなると、いつもこうだ。自分の非を決して認めようとせず、ハゲ散らかした頭のてっぺんまで赤黒くして、クソでかい声を上げる。そうすれば、相手は皆納得すると思ってやがるのだ。
そんなふざけた真似をされりゃ、普通、腹が立つものではないかと思う。えばりくさった野郎の言うことなんか、絶対おとなしく聞いてやるものかと、余計反抗的な態度を取るのが通常の反応じゃないかと思うのだけれど、その点において、私以外の牧童たちは、どうやら違う意見を持っているらしい。
トマスは、牧童頭を怒らせたあたしに剣呑な一瞥をくれると、投げ捨てたカウボーイハットを拾い上げ、砂をはたきながら、。大慌てでその後を追っていく。マートは、やはりあたしに非難がましい目を向けた後で、「頭!待ってくだせえ~!」となよなよした声を出しつつ、その後を追いかける。
そして、最後の一人――ガスは、でかい体を無理に縮めたような格好で、私の斜め後ろに立ち、
「なあ、パット。あれはまずいって。あいつに逆らうと、後が怖いんだから……」
私の耳に口を寄せ、おろおろと情けない声で、ささやきかけてくる。
(なんだってこいつらときたら、こう情けないんだろう……)
私はため息を一つつき、言いつけられた仕事をこなしに、無言で馬小屋へと向かう。
私はただ、きちんと動物の世話をしてやりたい、そう思っているだけだ。なのに、どうして一日に何度も男たちとやり合い――そのたび、憎らしげな目を向けられなければならないのか。これ見よがしに働きやがって、と文句をつけるのなら、負けずに自分も働けばいい。なのに、なぜかヤツらは、ありとあらゆる嫌がらせ、悪口、罵声については勤勉にこなすのに、真面目に働くことだけは、どんな手段を使っても避けようとする。
そのくせ、私がヤツらの分も働こうとすると、ぶうぶう文句をつけるのだ。
本当に、怠け者というヤツは、訳が分からない。
4
男たちとの激しい言い争いと、その合間の過酷な肉体労働、わずかな食事にありついた後は、ろくに体も拭かず爆睡し――そして明け方には忍び寄るガスの魔の手を振り払って、昨日と代わり映えのしない今日を、また無言で生きる。5年間ずっと続けてきた――そして、この先ひたすら続いていくと思っていた――希望のかけらもない、厳しく険しい生活。
夢の中で正体不明の「奥方」に出会ったのは、確かに目新しい出来事だったけど、しょせん、夢は夢だ。時折ふっと思い出すこともあるにはあったけど、日々のシビアな現実と格闘しているうち、その記憶は、あっという間に薄れ、かすれてしまう。
そんなこんなで、もはや奥方の姿形どころか、出会ったことすら、どこか遠い海の彼方へと消え去ってしまっていた頃。
それは起こった。
なんとも珍しいことに、牧場主のヤツが、いきなり牛小屋にその姿を現したのである。
牧場主は通常、施設の維持と家畜の管理に、神経をとがらすものだ。というのも、家畜が心地よく毎日を過ごしているかどうかがそのまま収入に直結するからで、だからこそ、毎朝誰よりも早く牧場に足を運び、自ら体を動かしつつ、牧童たちにさまざまな指示を出し、動物たちの機嫌をそこねることのないよう、あれこれ心をくだく。
父様も生前はそうして毎日を過ごしていたし、周囲の牧場のオーナーも、皆それが普通だった。
けれど、その当時私が働いていた牧場のオーナーときたら、施設管理は牧童頭に、牛馬の世話は牧童たち――主に私に任せっきりで、ひたすら「監視官」の仕事に夢中になっているような男だったのである。
監視官といっても、王様や、この地方を領する貴族から、きちんと任命されたわけじゃない。
深い森や山で隣国と国境を接するこの「西辺境地方」では、中央からの目が行き届かないことをいいことに、山賊やら強盗団やらが、やたらと出没する。そいつらを駆逐する、とはいかないまでも、どうにかこうにか撃退し、牧場や農場を守るために、近所の住人が寄り集まって、自警団みたいなものを作っているのだけど、ここの牧場主は、その自警団の団長みたいな扱いをされており、いつの間にか自分で「監視官」を名乗るようになった(と、いつぞや、ガスが聞いてもいないのに教えてくれた)。
牧場主のくせに作業着を一切身につけず、代わりに着ているものといえば、ピカピカの濃紺のスーツ、黒の蝶ネクタイにダービーハット、おまけにキズ一つ付いてない黒の短靴とくる(一体あんた、どこの都会からわいて出てきたんだっていう格好だろ?)。その上、腰にはピカピカのサーベルを吊り下げ、仕上げに、胸にはこれまたピカピカの「監視官」バッジ(わざわざ腕利きの飾り職人に注文して、作らせたんだそうだ)。こんな頓狂な格好で、見かけだけは立派な愛馬にまたがり、「巡回」と称して、あっちの牧場からこっちの農場へと、日がな一日ぱかぱかとお散歩してる……そんなおめでたいヤツだ(ちなみに、ヤツの奥さんである牧場主夫人も浮世離れしてて、牧場の仕事には一切手を出さず、屋敷にこもって日がな一日「パイセン」だか「マメセン」だかいう名前のティーカップを磨いているという話だった。ヘンな男にはヘンな女がくっつくものなのだろうか)。
そんな男が、馬にも乗らず、普段は寄り付きもしない牛小屋にやってきた上、「パットブルはいるか?」なんて、名指しであたしを呼びつけたもんだから、私はびっくりを通り越して、ひたすら困惑した。
でも、まあ、いくら困惑してたって、呼びつけられたら、返事をしないわけにはいかない。
「パットブルは、あたしだけど……?」
手近な柵にかかってたぼろ布でウンコと干し草まみれの手を拭きながら――私だって、一応雇い主にはそれなりの礼儀を払う――奥まった暗がりからゆっくり牛小屋の中央へと出て行く。
「ああ、そうか。貴様がパットか。ふむ……」
牧場主のヤツ、大きく開け放した扉を背に、仁王立ちしたまま、動かない。扉越しに、外から明るい光が入ってくるせいで、ヤツの顔形や表情は影に沈んでよく分からないけど、どうやら顎のあたりに手を当てたまま、私を観察しているようだ――それも、牧童たちのような、男の欲望にまみれたいやらしい目で、じゃなくて、どこかに憎悪の念を宿した、とびきり冷たい目でもって。
その姿が、なんだか不気味に大きく感じられて、心が、だんだんざわついてきた。
「あの……なんでしょう?」
腰に手を当てて胸をはり、精一杯虚勢を張った姿で、私は牧場主をにらみつける(内心は不安でいっぱいで、その証拠に、いらいらと指先を動かさないではいられなかったけれど)。
「なにか、私の仕事ぶりに問題でも?」
せっかくありついた仕事を首になれば、また食うや食わずのまま、辺境のあちらこちらに散在する牧場を訪ね歩く生活に――夜はオオカミや熊、野盗や山賊におびえながら森の木のうろで眠り、時にはわずかな食料のために、こそこそと盗みを働く生活に――戻らなければならない。それだけは、なんとしても避けたい。
(なんだろう?今晩は牛小屋の屋根裏じゃなくて、自分のベッドにやってきて「奉仕」しろ、とか言われるのか?それぐらいなら喜んで――いや、別に嬉しくはないけど――やってやるけど、どうもそういうことでもないみたいだし……)
気詰まりな沈黙が延々と続き、私の指先の動きは、より速くなっていく。とうとう、不安のあまり、相手を悲鳴交じりの声で怒鳴りつけそうになったところで、牧場主は、ようやく口を開いた。
「どうしてだ?」。
「……はあ?」
私は、思わずマヌケな声を出してしまった。相手が何を言いたいのか、何を言っているのか、全く理解できなかったからだ。
だが、相手の牧場主様は、そんな私の様子に一切お構いなしで、意味不明な言葉をどんどん投げかけてくる。
「だから、なぜだ?」
「えと、だから、一体なんのことだか……」
「金か?」
「はああ?」
「それとも、正義感か?」
牧場主は、「正義感」という言葉を、いかにも馬鹿げたくだらない、無価値なものであるかのように、鼻でせせら笑いながら口にした。それだけで、この男のどうしようもない下劣さが透けて見え、私は――すり切れてきているとはいえ、まだ「正義感」という言葉に多少の希望を見いだしたいと願っている「世間知らずの小娘」は――反射的にヤツの鼻柱を思い切り、グーで殴りそうになった。
が、そんな真似をしたら、面倒なことに――少なくとも、この農場から追い出されることになるのはわかりきっている。なので、ぐっと右手を握りしめただけでどうにか自分をなだめ、険しいしかめっ面になりそうな顔面を、どうにか「困った笑顔」に見えなくもない表情へと変形させる。
「あの、本当に私、話が見えなくて……私の仕事ぶりに落ち度があったら、あの、謝りますんで……」
「ふざけるな!」
いきなりの大声に、私は思わず身をすくめた。
そんな私に、じっとりと険しい目線を送りながら、牧場主は私の周囲に半円を描くようにして牛小屋の奥へと向かい、そこで改めて、じっと私を「見上げた」。
普通こういう場合、上司はやり玉に挙げている部下を「見下げる」ものだと思う。けれど、よんどころない事情から、ヤツにはそれが不可能だった。というと、鋭い人ならもう分かるだろうが、この牧場主――かかとの高いブーツなんぞ履いて、必死にごまかそうとはしていたけれど――かなりのチビだったのである。私は、女にしてはそこそこ背が高い方なんで、やつはどうしたって見上げることしかできない。それは、必死で威厳を保とうとしてるヤツからすれば、すごい屈辱的なことらしく――私の真正面に立っているだけで、ヤツのイライラがますますつのっていくのが、手に取るように分かる。けれど、足を斧でたたき切って短くするわけにもいかないし、今さら奴の足の下に踏み台を置いたりすれば、余計にいきり立つこと請け合いだ。
ということで、私は奴の怒りが理不尽に膨れ上がっていくのを、ただ手をこまねいて見ているしかなかったのである。
とはいえ、それはある意味、とても戯画的な、いかにも「笑ってください」といわんばかりに愉快な構図でもあり……叱責されている当人であるはずの私も、この愉快な状況に気がついてから、すっと気が楽になったのも事実だった。
悪いことに、この牧場主、見た目よりはかなり敏感で、私の緊張が抜けたこと、そしてそれが、自分の「どうしても滑稽に見えてしまう」哀れな姿が原因であることを、素早く感じ取ったらしい。
「……いつまでとぼけていられると思ってるんだ?」
私の真後ろに立ったところで立ち止まり、ぐっと大きく胸を反らして、これまでとは比べものにならないほどの憎しみが刻み込まれた顔で、私を「にらみあげる」(しかもその上、なんとも間の悪いことに、牧場主の背後の房にいる数頭の雌牛たちが、え、なに?ちっちゃいのが咆えてるけど、お腹でもすいてるの?とでもいわんばかりののんびりした表情でこちらを眺めているのが目に入ってしまい、私はあやうく吹き出しそうになった)。
本当ならば神妙な顔をしなきゃいけないのに、どうにもこうにも緊張が高まらず、かえってどんどん気持ちがくつろいでくる。そんな私の様子を見て、牧場主のボルテージは、ついに最大に達した。
「白状しろ!どこまで知ってるんだ?」
「しらばっくれても、こっちはちゃんと分かってるんだ!いい加減、覚悟を決めろ!」
「素直に洗いざらい吐けば、こっちも多少は考えてやる」
「さもないと……どうなるか、分かってるだろうな!」
次から次へと、どこかできいたような脅し文句を並べ立てる牧場主。だが、いったん落ち着いてしまった上、今いる状況が「お笑い的」としか思えなくなっている以上、どれだけ怖ろしい言葉を吐かれようと、ちっとも胸にこたえない。
私は、ぐっと目に力を入れて、相手を強くにらみ返した。
「ねえ。さっきから何を言ってるんです?なんのことだかさっぱりわからないって、何度言ったらわかってもらえるんですか!」
叩きつけるように言葉をぶつける。と、牧場主は大きく目を見開いて、わざとらしくのけぞってみせた。
「これは驚いた。なんとまあ、これほど言っても、まだとぼけようとするとは!」
「だから、とぼけてなんか……」
「全く、ふてぶてしいとしか言いようがないな!だが、その態度がなによりはっきり告げてている。思ったとおり、どこかの回し者だったわけだ!」
「……は?」
「どこの手の者だ?誰に命じられて、この牧場に来た?」
「いや、あの……」
ますます話が見えなくなって、私はひたすら混乱するばかりだった。が、牧場主はそんなふうにまごついている私を完全においてけぼりにし、大げさに肩をすくめて両手を空に向けると、「どうしようもない」といわんばかりに天を仰いでみせた(本当に、どうしてこの男は、わざわざとってつけたような、思わず吹きだしたくなるような仕草をしたがるんだろう?安っぽい小説の主人公を演じている自分に酔ってでもいるんだろうか?)
「……といったところで、素直に吐くわけがないか。仕方がない。手荒な方法は私の生き方にそぐわないと常々思っているんだが、必要とあればな。……おい!」
牧場主が私の背後をすかし見るようにしてあごをあげる。と、いきなり背後から、強い力でがっちり両腕を押さえられていた。
しまった!油断した!
牧場主の猿芝居に付き合わされているうちに、誰かが背後からそっと忍び寄っていたのだ。
「ちきしょ、離せ!」
体をねじり、思い切り手足を動かして、なんとか振りほどこうとするが、相手はびくともしない。むしろ、太い両腕に力を込め、逆にギリギリと締め付けてくる。
「無駄だよ、パットブル。静かにしな」
その声と、うなじのあたりから漂ってきた葉巻とウイスキー混じりの腐ったような口臭とで、背後にいるのが牧童頭だと分かった(でっぷり太った腹を突き出して、いつものろのろ動いてばかりなくせに、こいつ、力だけはアホほど強いのだ)。
無駄と言われたって、抵抗しなきゃどんな目に遭わされるか分からない。が、牧場主が一切手加減なしで力を込めているせいで腹が圧迫され、その苦しさでどんどん力が抜けていく。
くそ……こんな、ヤツらに……!
額に脂汗を浮かべながら、必死で両腕に――牧童頭の腕と比べると、泣きたくなるほど細くて非力な腕だ――力を込め、少しでも腹にかかる圧力を減らそうと悪戦苦闘する。そこへ、必要以上にもったいぶった態度で、牧場主がゆっくり近づいてきた。
「さて、これでようやく、腹を割って話せるというものだ」
言いながら、腰のベルトからナイフを抜き出し、私の鼻先に突きつける。
鈍い光を発する金属片が鼻の頭に触れたのを感じ、私は反射的に腰のナイフを――肌身離さず身につけている父さんの形見のナイフを抜こうとした。が……かろうじて握りに手は届いたものの、牧童頭の怪力に阻まれ、鞘から抜き放つことすらできない。
くそ……!くそっくそっくそっ!
眼力だけで相手を殺せるなら、牧場主はきっと即死していたに違いない。それぐらいすさまじい顔つきでにらみつけたのだが……ヤツはもちろん、私の憎しみなど毛ほども気にかけず、勝ち誇った目で私をにらみつけ、
「……誰の差し金だ?」
と、今度は私の右の頬へ、切っ先を強く押しつけた。
弾力に富んだ頬の肉は、刃を跳ね返そうと必死で頑張っていたが……やがて圧力に負け、冷たいものが、頬骨のすぐ下にぶつりと入り込んでくる。
牧場主が素早く腕を引くと、冷たさは顎のあたりまで届く一筋の細く熱い衝撃となり、次いで、その細い筋から熱い液体があふれ出てきた。
こいつ……!本当に切りやがった!
刃先からしたたる私の血を、真っ白なハンカチでゆっくり拭い取ると、牧場主は、再びそれを、私の頬に――ねっとりとした液体がしみ出し、膨れ上がって深紅のしたたりとなって流れ下っている、そのすぐ横に――再び突きつける。
「遊びは終わりだ。いいか、よく聞け。これから俺は、お前にいくつかの質問をする。お前は、よく考えた上でその質問に答えろ。お前が質問に答えなかったり、俺の気に入らない答えを返したりすれば、俺は、お前の頬に突き立てたナイフを引く。大声はなし、言い訳もなしだ。そして、またお前の頬の違うところにナイフを押し当てて、質問をする。答えが気に入らなければ、またナイフを引く。お前も知っての通り、ナイフの切り傷は、一筋だけならなんてことない。一週間もすれば、きれいに治る。だが、何本も平行に並んだ傷はやっかいだ。たいがい、傷口と傷口に挟まれた肉がただれ、後々まで醜い傷跡になって残る。まして、平行に切った上、ぶっ違いに傷つけてやると、さらに悲惨なことになる。傷に囲まれた部分の皮がぴらぴらめくれ落ち、赤黒く変色した肉から、じくじく血がにじむようになるのさ。お前のそのつるつるした頬が、腐ったボンレスハムのようになるのが嫌なら、俺の質問を黙ってよく聞け。そして、どう答えれば俺が気に入るのか、よく考えて答えを口にしろ。分かったか?」
牧場主は、決して声を荒げたりしなかった。ひたすら冷静で、淡々としていて……むしろ、どこかけだるげにさえ見えた。それがかえって、ヤツの「本気」をひしひしと感じさせ……私は、大きく見開いた目で、瞳孔の縮まった瞳で相手をじっと見つめ、小さくうなずくことしかできなくなっていた。
「よし。分かったようだな。では、聞く。誰に雇われた?」
焦りのあまり、頭が空転する。なんて答えればいいのか、まるで分からない。どこからか聞こえてくる、ネコのにゃごにゃごのんきそうな鳴き声だけが、うつろな頭に反響する。
「私は……私は……!」
突きつけられたナイフの切っ先に、ぐっと力が込められるのが分かり……私は、思わず目をつぶった。
が……いつまでたっても熱く冷たく鋭い感触がやってこない。
代わりに、足もとからしゅるしゅると何かが這い上がり、体に巻きついてくる。
その予想外の、とてつもなく気色悪い感覚に驚愕し、あわてて目を見開くと、牧場主のあわて、混乱し、恐怖に怯えた表情が大写しになった。
「な、なんだ、これは!」
足もとから、そして背後から伸びた植物の蔓のようなものに体中巻きつかれ、自由を奪われた上、ものすごい力で後ろに引っ張られているのか、ナイフを手にした腕がぎりぎりと上に巻き上げられていく。
「オ、オーナー!こりゃ一体……!」
気がつけば、私の腹を締め付けていたはずの太い腕もゆるみ、体から離れていっている。今の狼狽した声からして、きっと背後の牧童頭も、体中を絡め取られているに違いない。
思い切り空気を吸い込めることに無上の喜びを感じつつ、すーはーすーはーとせわしく呼吸をくり返しているところへ、
「間に合ったようですね」
と、聞き慣れない声が響いた。
はっとそちらを振り向こうとしたのだが、私の体にも巻きついていたツタが、いつの間にか全身を覆うようにびっしりと這い上がっており、徐々に締めつけてきているせいで、首を回すことすらできない。仕方なく、必死で目だけをうごかし、声の主の方をみやると、指先にかかげた、なにやら模様のある羊皮紙と、純白でふわふわの、高価そうな袖の包まれた片腕だけが目に入る。
その羊皮紙と片腕がずい、と近づいてきたかと思うと、目の前に大写しになった。
「あなたが、パトリ――パトリシアさんで間違いありませんね?」
ツタの力がますます強くなり、さっき牧童頭に羽交い締めにされてた時よりもさらに容赦なく体全体を締め付けてきているせいで、私はかろうじて小さくうなずくことしかできない。
が、相手はその反応で満足だったのか、こちらの様子に一切注意を払っていないかのように、平然と言葉を続ける。
「よかった。主の命は、あなたを無事に屋敷までお連れするように、というもの。少々頬に傷をつけられてしまいましたが、最小限の瑕疵で指令を全うできそうです」
ツタの締め付けはどんどん強まり、もはや息さえできず、どんどん頭に血がのぼって、額に汗がにじみ出てくる。
おい、ちょっと!このままじゃ、無事もなにも、水を絞り出したスポンジみたくくしゃくしゃになった残骸を連れて行くことになるよ、と叫びたかったのだが………一度口を開こうものなら、肺の空気が一気に絞り出され、ついでに肋骨が数本べきべきといってしまいそうで、息を吐くことすらためらわれる。
そして、声の主は相変わらずマイペースに話し続ける。
「それにしても、こんな僻地にまで私を派遣して捜索させるなど、特例中の特例ですよ?見た限り、ただの庶民――それも、こういってはなんですが、かなり逼迫した生活を送る、無学な貧民階層に属するとしか思えぬ風体。そのあなたを、なぜ私を直々に迎えにこさせたのでしょう?一体あなたは何者……」
偉い人の話を遮っていけないかと、必死で耐えてはいたのだけれど、ここでついに私は力尽きた。
「ぐえ……」
つぶされたカエルのような声を上げつつ悶絶すると、ようやく相手は私がどれほど切羽詰まった状態にあるか悟ったらしい。
「あ、まずい。あなた早く、そのナイフでツタを切って、彼女を助け出して!あ、いや、バカ!効果範囲に立ち入ったら、あなたまで襲われるじゃないですか!腕だけ伸ばして、ツタの根元をなぎ払うんですよ!あ、気をつけて!くれぐれも彼女を傷つけないように……」
声の主とガスたち牧童が大騒ぎしながらばたばた駆け回っているのをうっすら意識しながら、私は白目をむき、失神したのだった。




