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あばずれ娘、救国の英雄になる  作者: 柴野独楽


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第1章 あばずれ娘、見出される 1-2 

     1

 一日中飼い葉を刈り、馬たちを一頭一頭ブラッシングし、牛の乳を搾って寝わらを整えと、あくせく働き続け――どういうわけか、このさびれた牧場では、私以外誰一人、ろくに動物の世話をしようとしないのだ――深夜にようやく、疲れ切った体を粗末なベッドに投げ出した私は、寝付くと同時に、いつものように「魂の牧場」へとやってきていた。


 13歳で再び自分を取り戻した私は、それ以外できることもないからと、そのまま目の前にあった牧場の門をくぐり、そこで下卑た男たちにバカにされ、からかわれながら、見習い牧童としての修行をはじめた。

 以来、5年。

 必死で働いているうち、どうやら一人前となり、汚れたワークシャツ姿もすっかり板について、私はあちこちの牧場を渡り歩いて仕事する流れ者の牧童となっていた。

 本当は、どこか居心地のいいところに落ち着き、腰をすえて仕事に精を出したかったのだが、残念ながら、そうはいかなかった。

 牧場の力仕事のせいか、肩幅は広いが胸はほとんどふくらまず、尻も硬くて小さいという、女子として実に残念な体に成長してしまったというのに、そんな私に言い寄る男たちが後を絶たず……ある程度の期間ひとところにいると、必ずといっていいほど、その手の男たちとトラブルが起きるのである。

 そりゃ、私も10代の女子で、そういったことに興味がない訳ではなかったし――いや、正直に白状すると、かなりの興味を持っていたし、その好奇心のまま、それなりの経験だって積み重ねてはいた。けれど、風呂どころか、ろくに水浴びさえしない、酒浸りのロクデナシの相手をするほど「安い女」にはなりたくなかったし、かといってすげなく断ると、この種のロクデナシに限って変にプライドが高いのか、激昂し襲いかかってくるしで、おちおち寝てもいられなくなる。

 だから、そうなる前、牧童のだれかれの私を眺める目がねっとりと狂気を帯びてくる前に、こっそり姿を消しては、遠く離れた別の牧場に雇ってもらう、ということをくり返していたのである。

 幸い、牧場はどこも人手不足だったし、私には父様譲りの「動物扱い」の腕があった。なので、仕事を見つけるのにさして苦労することはなかったのだが、それでも、あちこちの牧場を短期間にさまよい歩いているせいで、よい仕事先にはなかなか恵まれない。自然、牧童はなまけ者揃い、牧場主はけち臭い金の亡者というような、どうしようもない場末の牧場ばかりを渡り歩く羽目になり、自然私はすっかり心を閉じ、毎日ひたすら重労働に明け暮れ、なまけ者どもが私によからぬ心を起こすまでの間、ただ食事と寝場所を確保するためだけ、と割り切って働くようになっていたのである。

 そんな中、唯一の私の楽しみが、夢で時折訪れることができる、この「魂の牧場」だったのだ。


 普段私の見る夢といえば、手足がだらりと長く伸び、変わり果てた容貌となった母様に追いかけられ、捕まえられ、どうして私を見捨てたのか、どうして助けてくれなかったのかとなじられるという、この上なく恐ろしい悪夢だ。

 だが、一日中泥まみれになってあくせく働き、ぐったりと疲れ切った日、運がよければ、昔――8歳までの間、私が過ごした父様の牧場にそっくりの、この場所を訪れることができる。

 どうせ夢なら、父様も母様も牧童さんも動物たちも、あの頃と同じように登場させてくれればいいのに、なぜかそれは叶わない。牧場はいつも無人だ。

 けれど、いつでも春の心地よい風が静かに吹き、ぽかぽかと暖かい日差しが降り注いで、優しく私を包んでくれる。

 私は牧場の中央にある、お気に入りだったニレの木の下に座り、背中をがっしりとした幹に預けて、しばし、思い出の中に遊ぶ。

 ああ、そうだ、運動場を囲むあの柵に登っては、その上を歩いたっけ。その後をネコやカラスたちがついて歩いて、牧童さんたちはその行列を見て大笑いしてたものだった……。

 こうして木の下に座っていると、必ず手の空いた犬が何頭か、様子を見に来てくれた。寄り添って座る彼らの首に腕を回して抱き寄せると、ペロリと顔をなめて、膝の上に頭をのせて……私はそれがうれしくて、くすくす笑ってた……。

 牛さんの、のんびりと尾を引く、満足げな鳴き声。馬さんの、虫にでも驚いたのか、たたらを踏んでブルルルと鼻を鳴らす声。かすかに響いてくる、豚さんのぶいぶいと挨拶を交わす声。それよりさらにかすかな羊さんのつぶやき。あの頃は、毎日が騒がしい音に包まれていた。こんなに静まりかえっていなかった。みんな、どこに行ったの?なぜここに来てくれないの?寂しいよ……。

 そんなことを思いながら、立てた膝の上に額を当て、目をつぶり、身も心も子どもに戻って、一人静かに泣きじゃくる。そうすることで、ほんの少し気分がすっきりし、次の日も、朝からつらい肉体労働にどうにか立ち向かえるだけの気力をかき立てることができる。

 が……その日は、そうはならなかったのだ。


 「あら!まあああ、これは……ここはなんて素晴らしい……!」

 後もう少しで涙が出てきそうになっていた時、いきなりどこかから、聞き覚えのない声が落ちてきて、私ははっと顔を上げた。

 それは、風の音以外一切の物音がしないこの場所で、初めて耳にした意味のある言葉だった。しかも、聞き覚えはないが、固く澄んで美しいその声は、妙に懐かしい気持ちをかき立て、否応なく私をひきつける。

 あわてて声のした方に顔を向けると、太陽を背に、シンプルなドレスを着たやけに背の高い女性が、さく、さく、と軽やかな足どりで、ゆっくりこちらに近づいてきた。

「ごきげんよう。ここは、とても気持ちがいいところね」

逆光の光の輪をまとったまま、女性は私の上に少しかがみ込み、静かにそう話しかけてくる。

 思いのほか丁寧な、堅苦しい口調にどぎまぎしながらも、その顔に笑みが浮かんでいるのをかろうじて見分けたところで、私もおそるおそる口を開く。

「あ……ありがとうございます。ここは、私の思い出の牧場なの……なんです。時折、夢の中で来ることができるんです」

「牧場!?ああ、確かに牧場ですね。私たちの庭園とは違う。そうか、牧場なのですね」

 話し方といい、身につけている上等な衣服といい、立ち居振る舞いの優雅さといい、どうやら相手の女性は、かなり身分の高い――街の大きな商家か、あるいは、信じられないが、貴族階級の奥方であるらしい。

 失礼があってはいけないと、つっかえながら必死で話す私とは対照的に、奥方はあくまでゆったりとくつろいだ様子だ。

「こんなところ、初めてです。広くて、あたたかくて、とても心地よい。これなら、たくさんの動物たちがいても不思議はない。なのに、ここはとても静かなのですね」

「……昔は、たくさん動物さんたちがいたんです。もっと賑やかで、騒がしくて。でも、どうしてだか、皆いなくなっちゃって……」

「そう。それは、寂しいですね」

「はい……」

 うつむいて、立てた膝の中にもぐり込むように顔を伏せる。そこへ、ふわりと日差しがかげる気配がしたかと思うと、私のすぐ横に寄り添う形で奥方は腰を下ろし、そっと私に覆い被さるように身を寄せてきた(その時、初めて気がついた。これまで比べるものがないので分からなかったが、奥方の背が高いのではなく、「私が」現実より小さくなっているのだと。どうやらこの「魂の牧場」において、私は、あの忌まわしい事件が起きた当時と同じくらいの背丈、年格好――つまりは8歳の幼女に――なってしまっているらしい)。

「お嬢さん。動物さんたちに、また会いたいですか?」

 驚いてはっと顔を上げると、すぐ目の前に奥方の、優しく、そしてなぜか少し悲しく見える笑顔がある。

 その笑顔に向かって、私は大きくうなずいていた。

「会いたい!皆に会いたいです!」

「会うには、かなりの覚悟が必要ですよ?あなたは、一生続く義務を引き受けなければならなくなります」

「それでも、会いたい!パットはね、私の兄で、相棒なの!それに、アニーもベンもドリーもクリスもエルもフジマルも、それに猫さんたちや他の動物さんも、みんなみんな、私の仲間だったの!皆に会えるなら、あたし、どんなことだって……」

 胸に湧き上がる思いをなんとか伝えようとするが、幼女化しているせいか、それとももともと出来が悪いせいなのか、頭にうまく言葉が思い浮かばない。もどかしいまま、必死で身振り手振りを交えて奮闘し、なんとか言葉を絞り出していく。

 そんな私を、奥方は相変わらずの優しく悲しい目で見つめながら、ゆっくりとうなずいた。

「あなた、お名前は?」

「はい、あの、パトリシアです。皆は、パットって呼びます」

「では、パトリシア。あなたの気持ちは、そしてその熱意も、よく分かりました。ならば、チャンスを与えましょう」

「本当ですか?」

「ええ。近いうち、現実の世界の方で迎えを寄越します。詳しいことはその時、使いの者から聞いてください」

「あ、でも、一体私はどうすれば……」

「大丈夫。その時がくれば分かります。本当ならば、もう少し詳しく話してあげたいのですが、残念なことに、現実の方であなたに危機が迫っているようですから」

「え?危機、ですか?」

 いわれてみれば、なんだか体がむずむずして、変に気持ちが悪い……気がする。

「ごきげんよう、パトリシア。近いうちに、また会いましょう……」

 その声と同時に、奥方の姿は徐々に薄れ――同時に私の「魂の牧場」も現実味を失っていき――気がつけば、私はうっすら開いた両目で、屋根裏部屋の低い天井を眺めていたのである。



     2

 壁板の隙間から、うっすらと光が入ってきている。もう夜明けが近いらしい。

 階下からは、牛たちの規則正しい寝息に混じり、ぎしぎしと床を踏みならす音が聞こえてくる。もうすでに何頭かが起き出し、夜の間にぱんぱんに張った乳を搾ってもらいたがっているらしい。

 ……さっさと支度して、搾乳にかからないと。

 まだうすぼんやりと霞のかかった頭でそう思いながら、ゆっくり上体を持ち上げようとしたのだが……どういうわけか、体をベッドから起こすことができない。

 あれ、どうしたんだ?なんだかやけに体が重いんだけど……。

 そう感じたところで、毛布の下、腰のあたりから下が大きく盛り上がり、ついでにそのあたりからふがふがと荒い鼻息が聞こえてきていることに気がついて、私は一気に覚醒した。

 あわててつぎはぎの毛布をめくると、私の両脚の間にうずくまり、目を皿のように見開いて、一心に私のズボンのボタンを外している男の姿が目に入った。

 毛布を剥がされ、いきなり周囲が明るくなったにもかかわらず、それでもなおふがふがと鼻息荒くボタンに指をかけていられるのは、抜きん出た集中力の証しなのか、それとも、ただ単に欲望に忠実なだけのアホなのか。

 決まってる。絶対アホの方だ。やれやれ……。

 ごつい両腕をたたみ込むようにして私のボタンをいじくっている男の名は、ガス。

 数ヶ月前、私がこの牧場に流れてきてから「そういう仲」になりかけている――と思わせている――男だ。

 先ほどもいったが、牧場の仕事は厳しい。早朝から夜遅くまで、そして出産シーズンともなれば、幾日も夜を徹して、激しい肉体労働が続く。だから、唯一といってもいい休息時間である睡眠は、本当に貴重だ。せめてなにもない夜ぐらいは、一人でゆっくり羽を伸ばして昼間の疲れを取り、そして、「魂の牧場」で心ゆくまで感傷と郷愁にひたっていたい。それが、掛け値なしの本音だ。

 けれど、牧童で、しかも10代の若い女である私には、そんなちょっとした望みを持つことすら、許されない。なにしろここは牧場で、牧場というからには私の他にも牧童がおり、その牧童のほとんどは若い男なうえ、あまつさえ、「自分はものすげえカッコイイナイスガイだ」と勘違いしているようなヤツばかりなのである。

 そういう状況なので、誰も決まったオトコを作らないまま一人で寝床にもぐり込めば、必ずといっていいほど、夜中に男が一人――時には二人のこともある――ふがふが言いながら、そっともぐり込んでくる。

 当然私はそいつらを撃退するのだが、これがまあ、ものすごく面倒くさいのだ。

 なにしろうぬぼれが強い勘違い野郎ばかりな上、白目が血走るほど興奮しきっているから、なにを言っても無駄。疲れているからといっても、オンナノコの日だからといっても全く意に介さず、無理矢理私の服をひっぺがし、欲望を満足させようとする。しかも、そういうヤツに限って無駄にタフで、ひっかいたり、殴ったりした程度では、全然ひるまない。本気で噛みつき、金玉を蹴り上げ、それでもダメならナイフをちらつかせ、その顔に何本か血の色をしたヒゲをかいてやって……それでようやく、相手は私が本気で嫌がっていると悟り、すごすご退散していくのだが……その頃には、決まって夜が明けかかってしまっている。

 結局その日は、寝不足でふらふらしながら仕事をしなきゃならない。しかも、撃退したヤツはたいがい私を恨み、なにかというと嫌がらせをしてくるようになる(どうして男ってのは、ケツの穴が小さいヤツばかりなんだろう?)。そして、その日の晩になると、また違う男がベッドに忍んできやがるのだ。

 こんなことを毎晩繰り返していれば、いくら私が「パットブル」だからって、さすがに体が保たない(このあだ名、数年前に当時の牧童頭だった男が、一度怒り出すと手がつけられず、相手が誰であろうと噛みついて離れない性格が、勇猛果敢で獰猛な闘犬「ピットブル」そっくりだ、というので、あたしの名前「パトリシア・ブルフィンチ」に引っかけてつけたものだ。なんだかすごく強そうでいかしてて、私は結構気に入っている。あ、ついでに言っておくと、そいつ――当時の牧童頭の金玉が片方しかなくなってしまったのは、別にあたしのせいじゃない。その「パットブル」にうかうかと手を出した結果そうなったのだから、まさしく自業自得ってやつだ)。

 安眠する時間を確保するには、とっとと誰か、適当な男と「そういう仲」になってしまうのが、一番手っ取り早いのだ(毛むくじゃらでごつくて臭くてむさ苦しいだけの男と本当にそういう仲になるのは絶対イヤだから、実際は、「そういう仲」になりかけていると男に思わせるだけだけど)。

 ガスは、その点まさに「条件にぴったりな男」だ。

 少々頭が弱く、怠け者だが、嫉妬深くて腕っ節が強く、他のヤツが私に色目を使おうものなら、本気でぶち切れて殴り倒す。

 気のあるようなふりをして思わせぶりな態度を取り、、月に1、2回、どうしてもかわせない時に、それなりの相手をしてやれば、基本それでおとなしく満足している、よくしつけられたでかい飼い犬のような男なのである。

 おかげで私は、夜のほとんどの時間、ぐっすり眠ることができる。

 とはいえ、どれだけ尻尾を振って、嬉しげな様子であるとはいえ、こっそり主人のズボンのボタンを外し、睡眠の、仕事の仕事の邪魔をするようでは、番犬失格だ。そのあたり、厳しくしつけておかないと、どんどん増長し、手に負えないほど性格が腐ってくる。

 というわけで。

 ようやくのことでボタンを全て外し終わり、狂喜の笑みを浮かべ、尻尾をぶんぶん振りながら私のズボンを足首まで下ろし、一気に抱きついてこようとしたそのガスの目の前に、私はいきなり、ナイフを突き立ててやった。

 父様が肌身離さず持ち歩いていた形見のそのナイフは、鉈のように分厚く広い上、海賊刀なみの長さがある、無骨なものだ。きゃしゃな女子である私が扱うにはかなり重たく、気をつけないと振り回される。が、もう5年もの間手元に置いてはさまざまな作業に使い、慣れ親しんできたおかげで、今では何の苦もなく使いこなすことができるようになっている。

 その剣呑な大きさのロングナイフが目の前の寝板に突き立てられ、青みがかった刀身がやすやすと寝板にもぐり込むのを至近距離で目にし、ガスはひゅっと音を立てて息を吸い込んだ。

「ガス。あんた、なにやってんの?」

 優しげな口調の中に、目の前のナイフと同じような剣呑さをひそませ、そう尋ねてやると、あたしの股の間に座り込んだ大男はきゅっと身を縮める。

「いや……その……ほら、俺たちそろそろ、そういう関係になってもいいかなって思ってさ……」

「そういうことって、普通はお互い話し合ってからするもんじゃね?」

「いや、今まで何度もそういう話してきたろ?でもお前はいつだって、忙しいとか疲れてるとかその気じゃないとか言って断るから……」

「だから、あたしに黙って無理矢理やっちゃおうかと思ったと」

「……なあ、いいだろ?おれ、おれ、もう我慢できなくて……な?」

「もう朝だ。牛の世話の時間だよ」

「一日ぐらい放っておいても、牛は死んだりしねえよ。だから、な?……」

 牧童のくせに、家畜への愛情がまるで感じられない、ナメた口を利く態度にカチンときて、私はゆっくりとナイフを引き抜いた。

「そう。アンタがそこまで言うんなら、仕方ない」

あたしがゆっくりそういうと、ガスの奴、なにを誤解したのか、暑苦しい顔面にこの上なく暑苦しい笑顔を浮かべた。

「わ、分かってくれたのかよ!じゃあ……」

 ふんふんと荒い鼻息を吐き出しながら、ぞるぞると私の体の上に這い上ってこようとする、その額の中心に、私は薄笑いを浮かべながら、ひたりとナイフの切っ先を当てた。

「……あ?」

 奴の笑顔がこわばり、びっしりと冷や汗が浮き上がってきたところで、

「そのまま少しでも前に動いてみな。アンタの額に、一生消えない落書きをしてやる」

そう言い放ってやる。

「パ、パット。まさか本気じゃ……」

「もちろん本気だよ」

 ナイフを持つ手にほんの少しだけ力を加えると、その切っ先は、するりとなんの抵抗もなく眉間に入り込み、そこからつうっと一筋、真っ赤な血が流れ出る。

「ひゃあああああっ!」

 か弱い女の子のような悲鳴を上げたかと思うと、ガスははじけ飛ぶようにのけぞり、そのまま逆四つん這いの格好でベッドを這い進んだかと思うと、勢い余って床に転落した。

 ごす、と鈍い音が響くと同時に、

「ぐっ!」

と、こちらも鈍いうめき声がして、それきり、ガスは動かなくなる。どうやら、落下の際、したたかに後頭部を打ちつけ、そのまま気絶したらしい。

 白目をむいてだらしなく伸びたその姿を一瞥し、ふん、と鼻を鳴らして顔をしかめると、私は奴を放ったままブーツに脚を突っ込み、仕事の段取りを考えつつ、着古した革の上着をはおる。

 底辺男たちに混じって働く、底辺女のリアルな一日の始まりだ。

 当たり前だけど、その時には、明け方見たふわふわした夢のことなど――奥方?誰だ、それ?――とっくに私の頭から消え去っていた。


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