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第8話 届かせるだけだ

 足りないなら、喰えばいい。


 私はガンツの傷へ、もう一度指を沈めた。


 今度は、さっきみたいに肉を留めるためじゃない。


 噛みついている芯を、最初から引き剥がしに行く。


 熱い泥が、今度は腕では済まなかった。


 肩。


 喉。


 胸。


 焼けた鉛みたいな重さが、そのまま内側へ流れ込んでくる。胃がひっくり返る。肺の裏で何かが泡立つ。耳の奥では、知らない本音が今までより鮮明に騒いだ。


 やめろ。


 沈むな。


 痛い。


 死にたくない。


 知らない誰かのものだった本音が、今は私の骨の内側で鳴る。


 吐き気で目の前が白む。


 なのに、その白みの底で、傷の奥だけはひどく綺麗だった。


 裂けた肉。


 千切れかけた筋。


 肋の裏へ食い込んだ黒。


 そこへ伸びる細い脈。


 全部見える。


 気持ちが悪いくらい、はっきりと。


 喉の奥が熱くなる。


 笑うな。


 こんなところで笑ったら、本当に終わる。


 それでも口元がゆるみかける。


 最悪だ。


 こんなもの、痛みの顔をしたご褒美じゃない。


「フィオナ!」


 カイルの声が落ちる。


 今度は、見ているだけの声じゃなかった。


 止めたい。


 でも止めたら壊れる。


 その板挟みの音だ。


 私は返事をしない。


 返したら、息が乱れる。


 乱れたら、この黒は逃げる。


 ガンツの体が、盾の後ろで大きく震えた。


 痛みと恐怖が一緒に来ている。呼吸が浅い。膝が抜けかける。それでも前を向いたままなのは、黒い糸が傷の奥で張っているからだ。


 まだ足りない。


 さっきは肉を留めるだけだった。


 噛んでいる芯を引かない限り、また裂ける。


 私は歯を食いしばり、さらに奥へ触れた。


 ぬるり、と何かが指へ絡む。


 呪いだった。


 肉に根を張った黒い芯が、生き物みたいに私の指へ巻きついてくる。


 その瞬間、視界が反転した。


 世界から色が抜ける。


 白。


 黒。


 その底で、ガンツの傷の奥だけが真っ赤に脈打っていた。


 一本、ではない。


 二本。


 三本。


 赤い筋が絡まり合って、肋の裏で団子みたいに膨れている。


 あれが本命だ。


 私はそこへ、自分の中から伸びた黒い糸を絡めた。


 ぴし、と音がした気がした。


 糸が切れたんじゃない。


 繋がった。


 次の瞬間、ガンツの傷から黒い熱が一気にこちらへ流れ込む。


 肺が焼ける。


 喉が裂ける。


 目の奥が潰れそうになる。


 でも、その代わりに、指先の向こうの全部が私のものみたいにわかった。


 どこを引けば、どの筋が戻るか。


 どこを縫えば、どの肉が噛み合うか。


 どこを留めれば、盾を持つ腕がもう一度上がるか。


 世界が狭くなる。


 ガンツの傷と、私の指と、黒い糸だけになる。


 掌に落ちてくる、なんて甘いものじゃない。


 掌の中で全部を握り潰せるような、冷たい全能感だった。


 脳髄が焼ける。


 気持ちいい。


 喉の奥で、笑ったら戻れない何かが身じろぎする。


 もう一口、と身体の底が言いかける。


 最悪だ。


「……っ、ぁ」


 変な声が漏れた。私のものだ。


 ガンツがそれを聞いて、初めて本気で怯えた顔をした。


 助けられている顔じゃない。


 もっとひどい。


 自分の命が、相手の快不快一つで握り潰せる場所まで渡ってしまったと知った顔だ。


 いい。


 その恐怖は忘れるな。


 私は赤く見える芯へ、黒い糸を一気に捻じ込んだ。


「縫え」


 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。


 でも、糸は従った。


 傷の奥へ潜り、裂けた肉の裏で黒を噛み潰し、そのまま引き剥がしていく。赤い脈の一本が千切れ、二本目が痙攣し、最後の塊が私の中へ流れ込んだ。


 喉の奥で悲鳴が上がる。


 私のものか、ガンツのものか、もうわからない。


 その代わり、傷口の奥で暴れていた黒が消えた。


 消えた場所へ、糸が沈む。


 裂けた肉の縁を無理やり引き寄せ、噛み合わない筋を束ね、肋の裏で浮いていた命を縫い止める。


 黒縫だ。


 たぶん、これがそうだ。


 綺麗じゃない。


 治すんじゃない。


 壊れかけたものを、壊れたまま戦える形に留めるだけの、最低で最高の応急処置。


 でも、今欲しいのはそれで十分だった。


 ガンツの呼吸が変わる。


 さっきまで潰れていた胸が、一度だけ大きく膨らんだ。


 膝が持ち直す。


 盾を握る手に、もう一度だけ力が戻る。


 私は血まみれの指を引き抜き、耳元で囁いた。


「立ちなさい」


 命令じゃない。


 確認でもない。


 当然のことを言っただけだ。


 ガンツが低く唸る。


 痛みで顔は歪んでいる。汗も血も泥も同じ色に混ざって、まともな顔なんてしていない。


 それでも、立つ。


 怖いからこそ立つ。


 もう逃げた先で助かると思えない顔だった。


 私に握られたまま前へ出る方が、まだ生き残れると本能で知ってしまった顔だった。


 その瞬間、呪獣がもう一度だけ跳ねた。


 最後の悪足掻きみたいに、焼却穴の縁を砕いて飛びかかる。


 でも遅い。


「前」


 私は言う。


 ガンツの盾が上がる。


 今度は一撃を受けるためだけじゃない。押し返す角度で、半歩深く踏み込んだ。


 鋼と骨が正面からぶつかる。


 呪獣の顎が跳ね上がる。


 その腹の下へ、ルークが滑り込んだ。裂け目を広げるための短剣じゃない。今度は迷わず核へ行く刃だ。


 同時に、エルネストの炎が呪獣の退路へ落ちる。逃がさない火だ。


 カイルの剣が最後に走る。


 私が見た左前脚の付け根、そのさらに奥。黒縫で一瞬だけ浮いた核の位置へ、今度は迷いなく深く沈んだ。


 潰れる手応えの音がした。


 呪獣が、声にならない声で裂ける。


 黒い泥と熱い腐臭を撒き散らしながら、巨体が崩れた。骨を芯にした縫い目が一つずつほどけ、腐肉と獣皮と泥の塊へ戻って焼却穴の縁へ沈む。


 遅れて、静けさが来た。


 誰もすぐには動かない。


 私だけが、まだ呼吸を整えられずにいた。


 喉が焼ける。


 胃がひっくり返る。


 なのに、全身の芯だけは冴えている。


 指先から肩まで、黒い熱がまだ残っていた。


 笑いそうになる。


 吐きそうになる。


「……化け物」


 ガンツが言った。


 悪口のつもりだったのかもしれない。


 でも、その声にはもう前みたいな見下しはなかった。


 怖れている。


 そして、命を預けたことを知っている。


 私は手の甲で口元の血を拭った。


「今さら?」


 ガンツは返さない。


 返せないんじゃない。


 もう、軽く返していい場所にいないとわかったのだ。


 傷の奥では、黒い糸がまだ消えていなかった。


 薄く、濡れたまま、裂け目の裏で肉を留めている。


 ガンツはそこへ一度だけ視線を落とし、すぐに逸らした。


 見たくないのに、見ないふりもできない顔だった。


 カイルがこちらを見る。


 冷たい目だ。


 でも、もう前の目じゃない。


 嫌悪でもない。憐れみでもない。切るか守るかを測るだけの目でもない。


 もっと始末が悪い。


 同じものを見てしまった者の目だ。


 底が抜けていると知りながら、そこから目を離せなくなった者の目。


「……戻って来い」


 ひどく低い声だった。


 命令じゃない。


 願いに近い。


 私は笑いかけて、少しだけ咳き込んだ。喉の奥に残った黒い熱が、血の味と一緒にせり上がる。


「嫌」


 声は掠れたけれど、ちゃんと笑えた。


「まだ使えるもの」


 私はガンツを見る。


 次に、焼却穴の縁に転がった呪獣の残骸を見る。


 核片。骨。まだ燃える肉。拾えるものはいくらでもある。


「全部拾ってからにする」


 私は焼却穴の縁へ足を向け、まだ熱を持つ泥の中から、呪獣の核片を鉤みたいに指先で引っかけて引きずり出した。拳より少し大きい。欠けているのに、昨日までの腐った死体核とは比べものにならないほど重い。


 重い。


 使える。


 包帯も、釘も、次の火も、これで引ける。


 ルークが、ひきつったみたいに笑った。


「ほんとに趣味悪いね」


 エルネストは何も言わなかった。ただ、火を少しだけ弱めた。焼却じゃなく、回収の火に変えたのだ。


 ガンツは盾をついたまま、ようやく一つ息を吐いた。


 それは降参に近い音だった。


 私は立ち上がろうとして、少しだけ視界を揺らした。


 右目の端で、黒が滲む。


 耳の奥で、また知らない本音が爪を立てる。


 代償は消えていない。


 むしろ、さっきより深いところまで来ている。


 それでも、悪くない。


 私は呪獣の残骸へ視線を落とし、血で濡れた指を握り直した。


 救った。


 縫った。


 喰った。


 だったら次は、これを戦果に変える。

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