第7話 黙って踏み台になりなさい
私は、ガンツの傷口へ指を入れた。
熱い。
血の熱じゃない。肉の奥で噛みついている呪いの熱だ。
ぬるい泥を、そのまま血管へ流し込まれるみたいな感触だった。指先から手首、肘、肩へ、黒く濁ったものが這い上がる。
喉が焼ける。
吐きそう。
なのに、指だけはよく見えた。
どこが裂けていて、どこに黒が噛んでいるか。傷の輪郭だけが、赤く浮いて見える。
行ける。
そう思った瞬間、ガンツの手が私の肩を掴んだ。
重い。
押し返す力だけで、まだこの男が前衛だとわかる。
「……やるな」
低い声。
怒鳴りじゃない。
でも、初めて聞く種類の拒絶だった。
助かりたくない顔じゃない。
もっと手前の、本能の拒絶。
喰われるとわかった獣の顔だ。
私は指を抜かない。
抜いたら、そこで終わる。
ガンツの傷の奥で、黒いものが私の指へ噛みついた。視界の端が白く擦れる。耳の奥で、また誰かの死にたがっていた本音が粘つく。
痛い。
最悪。
それでも、奥へ行ける。
「離れろ」
今度はカイルだった。
ガンツにじゃない。
私に向けて言っている。
「まだ浅い。そこから先は、戻れなくなる」
知るか。
私は笑いそうになる喉を噛み殺した。
戻れるかどうかなんて、今はどうでもいい。
ここで手を引いて、壁を一枚腐らせる方が損だ。
ガンツの指がさらに食い込む。
それでも、押し飛ばしきれない。
痛みが混じっているからだ。
この男は今、ようやく自分の肉の奥を怖がっている。
だったら使える。
私はガンツの鎧の隙間へ、もう一方の手を差し込んだ。包帯の巻かれた手首が、傷の縁で一気に赤く濡れる。
「やめろって言ってる……!」
「黙って」
短く返す。
ガンツの呼吸が荒くなる。
盾の縁がぶれた。
火の向こうで、呪獣がまた立ち上がろうとしている。ルークが脚を裂き、エルネストの炎が押し返し、カイルがその隙間を全部埋めている。
時間はない。
なら、躾けるしかない。
私は傷の奥へ爪を立てた。
ぐ、と黒いものを引っかく。
ガンツの体が跳ねた。
喉の奥から、獣みたいな息が漏れる。
「痛いでしょ」
耳元で囁く。
「ならまだ生きてる」
ガンツの目が見開く。
そこにあるのは安堵じゃない。
恐怖だ。
自分の命綱が、私の指先に食い込まれていると知った顔。
いい。
その顔を待っていた。
「痛みがあるうちは、勝手に死ねない」
私はさらに奥へ指を沈めた。
黒い熱が、今度は腕の芯まで走る。
脳髄の裏がじゅっと焼けた。
息を吸う。
熱い泥が胸へ入る。
苦しい。
なのに、その一瞬だけ世界が澄んだ。
傷口の奥、裂けた肉のさらに裏で、噛みついている黒が一本の芯を持つ。そこへ触れれば、まとめて引ける。
見えた。
その見え方が、気持ち悪いほど鮮明だった。
喉の奥が、今度ははっきり笑いそうになる。
こんなものに酔うなんて、最悪だ。
「フィオナ」
カイルの声は低い。
止めるには遅く、目を逸らすには近すぎた。
背中に、止めきれない気配だけが張りつく。
嫌なのに、少しだけ都合がよかった。
見てなさい。
その迷いごと、使う。
ガンツの手が、私の肩からずるりと落ちた。
力が抜けたんじゃない。
怖くて、次に何をされるか待っている。
私は口元だけで笑った。
「ようやく静かになったわね」
ガンツが息を呑む。
吐くたび、傷の奥の黒が泡立つ。
もう一歩で逃がす。
もう一歩で掴める。
だから、命令した。
「盾を離すな」
ガンツの眉が寄る。
「……無茶言ってんじゃねえ」
「黙って踏み台になりなさい」
言葉が落ちた瞬間、場の空気が止まった。
ルークの短剣が一拍だけ遅れ、エルネストの火が揺れ、カイルの目だけが細くなる。
でも私は続けた。
「前を向いて。噛まれても、裂かれても、まだ立ってなさい」
傷口の奥で、黒がまた私の指を噛む。
痛い。
ぞっとする。
気持ちいい。
最悪だ。
「私が許すまで、死ぬな」
ガンツの喉が鳴った。
怒鳴り返さない。
押しのけもしない。
代わりに、盾を握る手だけがゆっくり締まる。
そこではじめて、何かが変わった。
私の指先に絡みついていた黒が、糸みたいに細く伸びる。
一本。
二本。
血と泥の境目から、濡れた黒が繊維みたいに引き出され、傷口の奥へ沈み直していく。
縫う。
違う。
噛んでいる呪いごと、肉へ無理やり留める。
黒い糸はまだ細い。
形になりかけただけだ。
でも、初めて出た。
私の中から。
ガンツが声にならない声を漏らす。
恐怖が先だ。
助かったと思うには、まだ早い。
それでいい。
この男は今、命の底を私に握られている。
カイルが、息をするみたいに小さく吐いた。
視線が外れない。
嫌悪でも、否定でもない。
もっと冷たいものだ。
見てしまった者の目。
もう二度と、なかったことにできない目だった。
その時、火の向こうで呪獣が身を起こした。
肩の奥を裂かれているくせに、まだ死なない。黒い唾液を撒きながら、最後の一撃だけを叩き込む角度で前脚を振り上げる。
ガンツの喉がひくりと鳴った。
逃げたい顔だった。
それでも私は囁く。
「前」
短い命令。
黒い糸が、傷の奥でぴんと張った。
次の瞬間、ガンツの盾が上がる。
恐怖で顔を歪めたまま、それでも半歩だけ前へ出る。呪獣の一撃が正面から叩きつけられ、鋼が悲鳴を上げた。泥が爆ぜる。
でも、割れない。
受けた。
初めて、自分の意志より先に私の命令で。
私は黒い糸の先を見つめた。
傷の奥へ伸びていく。
でも、まだ浅い。
肉には届く。
呪いの芯までは、あと少し足りない。
それでも私は笑った。
形は出た。
だったら次は、届かせるだけだ。




