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第6話 見捨てるか、喰うか

 ガンツの血は、泥より重い色で広がっていた。


 盾の縁に凭れたまま、まだ前を向いている。


 その姿勢だけで、胸の奥が苛ついた。


 倒れるなら倒れればいいのに。


 そうすれば、こっちも諦めやすい。


 でもあの男は、潰れかけても壁の形をやめない。


 焼却穴の縁では、呪獣がまだ死んでいなかった。


 肩の奥を裂かれて、巨体を痙攣させている。黒い唾液みたいな泥を吐きながら、四肢を引きずって起き上がろうとしていた。


 エルネストの火が、その前へ細長く落ちる。


 完全に仕留める火じゃない。


 近づかせないための火だ。


 ルークはその外側を回っていた。短剣で腱だけを薄く裂き、飛びかかる角度を潰している。


 時間を買っている。


 つまり、もうわかっている。


 今いちばんまずいのは、あっちじゃない。


 こっちだ。


 私はガンツの脇へ膝をついた。


 裂け目は深い。


 尾が鎧の隙間から入り、肋の下を抉っている。肉の下で、黒いものがゆっくり脈を打つたび、傷口の奥が嫌なふうに動いた。


 血を止めても駄目だ。


 呪いが中で噛んでいる。


 普通の治癒じゃ届かない。


 包帯を当てる。


 指が沈む感触だけでわかった。


 浅く塞げる傷じゃない。


「離れろ」


 低い声。


 次の瞬間、後ろから腕を掴まれた。


 強い。


 右手首の包帯に、ちょうど食い込む角度だった。


 カイル。


「まだ動く」


「見ればわかるわよ」


「そいつじゃない」


 掴む力がさらに強くなる。


「お前の方だ」


 息が止まった。


 カイルは私の顔なんて見ていない。


 包帯の巻き方。右目の濁り。指先の震え。そこだけ見ている。


「今触れば、お前が先に落ちる」


 図星だった。


 喉の奥が熱い。


 右目の裏で赤が明滅する。


 ここで喰えば、たぶん戻れない。


 少なくとも、今までのままではいられない。


 ガンツが荒い息のまま笑った。


 笑ったつもりなのだろう。


 でも口元は歪んだだけだった。


「……捨てろ」


 短い声。


 吐くたび、傷口の奥で黒が泡立つ。


「……前だけ見ろ。壁一枚で、済むうちに……済ませろ」


 合理的だ。


 壁が一枚減るだけなら、まだ逃げられる。


 今ならエルネストの火で道がある。ルークは足を削れている。カイルはまだ動く。


 私がガンツを切れば、少なくとも今この場で四人まとめて喰われる確率は下がる。


 正しい。


 とても。


 私は傷口を見る。


 次に呪獣を見る。


 火の向こうで、あれはもう一度飛ぶ角度を探っている。


 ガンツが消えれば、誰が正面に立つ。


 カイル?


 立てる。でも受ける形じゃない。


 ルーク?


 論外。


 エルネスト?


 火は壁になる。でも肉の壁じゃない。


 そして私は。


 見える。


 でも、受けられない。


 今ここでガンツを捨てるのは、壁一枚を切るだけじゃない。


 班の並びそのものを捨てるのに近い。


 この先、何度生き延びても、そのたびに前は薄くなる。


 私はそういう損を嫌う。


 嫌いでたまらない。


 ルークが呪獣の外側から声を飛ばした。


「フィオナ!」


 焦っている声じゃない。


 でも、急げという音だ。


「切るなら今だよ! 次はまとめて来る!」


 わかってる。


 エルネストの火が一段高くなる。熱風が頬を撫でた。


 時間切れが近い。


 カイルの指が、まだ私の手首を掴んでいる。


「やめろ」


 今度は、命令だった。


「ここでそいつに潜るな」


 潜る。


 そうね。


 普通の治癒じゃ届かないなら、届くところまで行くしかない。


 それが何を意味するか、こいつはもう半分くらいわかっている。


 だから止めている。


 私が壊れる方を。


 私は少しだけ笑った。


 最悪。


 そんな顔で掴まれると、少しだけ迷う。


 でも、その程度だ。


「離して」


「嫌だ」


 珍しく即答だった。


「そいつ一人で済むなら切る。お前まで落ちるなら、切る」


 綺麗な判断。


 正しい。


 たぶん、こいつが班長ならそうする。


 だから、生き残れる。


 でも私は、班長じゃない。


 損を数えて、それでも手を突っ込む治癒師だ。


 もっと性質が悪い。


 私はカイルの手首を逆に掴んだ。


 震えていたのは私の方か、こいつの方か、少しわからなかった。


「駄目」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


「それは駄目」


 カイルの目が細くなる。


 私は続けた。


「切り捨てるなら、もっと手前でやってる」


 配給の時も。


 板を割られた時も。


 昨日の夜、印を打った時だって。


 ここまで数えて、使って、生かしておいて、今さら一枚切り捨てて帳尻を合わせるのは、ただの下手だ。


「私は、そんな損の仕方しない」


 ガンツが荒く息を吐く。


「馬鹿か」


「馬鹿で結構」


 私はようやくカイルを見た。


「見捨てる合理性があるのはわかってる」


 わかった上で、腹が立つ。


 こいつらが勝手に死ぬ顔をするのが。


 私の前で、まだ使える駒が先に壊れるのが。


「でも、まだ私が許してない」


 言い切った瞬間、カイルの指が止まった。


 離れはしない。


 ただ、掴む力だけが一瞬ぶれた。


 その隙で、私は腕を引き抜く。


 右手首の包帯が擦れて、痛みが火みたいに走った。


 いい。


 まだ動く。


 まだ選べる。


 私はガンツの前へ膝をつき直した。


 傷口の奥で噛んでいる黒を、今度こそ真正面から見る。


 吐き気がした。


 喉の奥が熱い。


 耳の奥で、また知らない本音がざわつく。


 でも、もう逸らさない。


 ガンツが私を見下ろした。


 痛みより先に、警戒がある目だった。


 当然だ。


 ここから先は、治療じゃ済まない。


 私は濡れた前髪を払い、口元だけで笑った。


「安心しなさい」


 三文も要らない。


「まだ死なせない」


 そして、もっと小さく。


「死ぬなら、私の踏み台になってからにしなさい」

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