第5話 来る
来たのは、夜明けの少し前だった。
空がまだ灰色のまま、焼却穴の火だけが赤く燻っている時間。私が昨夜打った長釘の印は、泥の中で半分だけ残っていた。塩を揉み込んだ目印の布だけが、先に鈍く黒ずんでいる。
一本目のそばで、地面が鳴る。
低い。
腹にくる音だった。
次の瞬間、焼却穴の縁が内側から弾けた。
泥と骨と黒い水が、まとめて噴き上がる。
穴から出てきたそれを、私は最初、アンデッドだと思えなかった。
四肢がある。
でも歩き方が死体じゃない。骨を芯にして、腐肉と泥と獣皮だけを無理やり縫い合わせたみたいな体だった。頭は狼に近いのに、顎の割れ目から覗く歯だけが人間のものみたいに細かい。背中の毛並みの代わりに、黒く濡れた棘が列になってうねっている。腐った臭いじゃない。腹の中で長く発酵した臓物みたいな、熱くて吐きそうな臭いがした。
呪獣。
ただの湧き穴じゃない。
下で育っていた。
「伏せろ!」
カイルの声が飛ぶ。
考える前に身を沈める。私の頭上を、腐った前脚が風みたいな速さで薙いだ。
直後、鋼がぶつかる。
ガンツの大盾だった。
呪獣の一撃を真正面から受けて、大盾の縁が嫌な音で軋む。けれどガンツは退かない。片足を泥へめり込ませたまま、焼却穴と兵舎の間に壁みたいに立っている。背中が半歩でも割れたら、あれはそのまま兵舎まで抜ける。
あれが、この班の正面だ。
ルークはもう見えない。
いたと思った時には、呪獣の左側へ回っていた。喉は狙わない。後ろ脚の腱、脇腹の継ぎ目、動きが鈍る場所だけを薄く裂いていく。殺し急いでいない。
まず崩し方を探ってる。
エルネストの火は、もっと冷静だった。
呪獣そのものへは撃たない。焼却穴から兵舎へ抜ける泥を舐めるように炎を走らせ、ぬかるみの一部を乾かし、私たちの足場だけを先に作る。
退く道。
踏み換える道。
火は壁にもなる。
そしてカイルは、いちばん厄介だった。
斬れる場所で斬らない。
代わりに、死ぬ場所へ割り込む。
ガンツの盾が半歩ずれれば首が飛ぶ角度だけを潰し、ルークが踏み込みすぎる瞬間だけを剣で押し戻す。私が立っている場所まで、きっちり計算に入っていた。
誰が今、いちばん先に死ぬか。
あの男は、それをずっと見ている。
だったら私が見るべきは別だ。
私は息を止めた。
胸を見る。
違う。
喉。
違う。
昨夜は、巨大な気配しか拾えなかった。
でも今は違う。
視界の色が少し痩せる。黒い体の底で、濁った脈が走る。核は一つ。でも位置が定まらない。噛みつくたび、肩の奥から胸へ落ちる。踏み込む瞬間だけ、左前脚の付け根へ浮く。
そこだ。
あの一拍だけ。
「胸じゃない!」
私の声に、カイルの目だけが動いた。
「左前脚の付け根! 噛む瞬間に上がる!」
通じた。
言い終わるより先に、ガンツが盾をわずかに傾ける。わざとだ。呪獣の顎が深く入る角度を作る。
食いついた。
その瞬間、ルークが低く潜った。短剣が脇の継ぎ目を裂く。呪獣が身を捩り、浮いた左肩の奥へ、カイルの刃が一直線に走った。
浅い。
でも掠めた。
黒いものが、確かに揺れた。
呪獣が初めて悲鳴を上げる。
獣の声じゃない。焼けた笛みたいな、耳障りな高音だった。
私はぞっとしながら、少しだけ笑った。
見えた。
殺し方が。
その直後だった。
呪獣が退くと見せかけて、下がらなかった。
崩れた焼却穴の縁へ前脚をかけ、無理やり体を捻る。背中の棘列が一斉に逆立ち、黒い泥を撒いた。
「下がれ!」
カイルが叫ぶ。
遅い。
棘じゃない。
尾だ。
泥の中に半分沈んでいた長い尾が、見えないまま横薙ぎに走る。
狙われたのは私だった。
包帯を巻いた右手が、反応より先に熱を持つ。けれど体は追いつかない。
その前へ、また盾が入った。
今度は受け切れなかった。
鈍い音。
ガンツの体が半歩浮く。大盾が弾かれ、尾の先が鎧の隙間へ食い込んだ。
脇腹から胸へかけて、嫌な角度で抉る。
血が飛ぶ。
量でわかる。
まずいなんてものじゃない。
ガンツの膝が落ちた。
それでも、倒れない。盾だけは手放さない。
「前、見ろ……!」
喉の奥で潰れた声。
その一言で、ルークが飛び、エルネストの火が落ち、カイルが二撃目をねじ込む。呪獣の核が肩の奥でぶれた。黒い悲鳴がもう一度だけ裂けて、巨体が焼却穴の縁へぶつかる。
でも、私の目はもうそっちを見ていなかった。
ガンツの下に、血が広がる。
黒くない。
赤い。
なのに、その奥で、もっと濃い呪いの色が混じっている。
浅い傷じゃない。
深い。
肉だけじゃない。
あれは中まで入ってる。
ガンツがようやく片膝をついた。盾の縁が泥へ沈む。息が荒い。脇腹から胸へ走った裂け目の奥で、何か黒いものが脈打っている。なのに、盾だけはまだ前へ向いていた。来るなとも、助けろとも言わない。ただ前だけを見ている。
普通の止血じゃ間に合わない。
カイルが呪獣へ剣を向けたまま、低く言う。
「見るな」
誰に向けた声か、考えるまでもない。
でも私は、もう見てしまっていた。
ガンツの傷の奥で、肉に噛みついた呪いの形を。
そして、そのまま見捨てればどうなるかを。
普通の治癒じゃ届かない。
届かせる方法は、一つだけだ。
見捨てるか。
それとも、喰うか。




