第4話 誰も見ていないところで
夜は、昼より静かなぶんだけ質が悪い。
火が落ちたあとの駐屯地では、音が減る。そのせいで、地面の下で鳴るものだけが妙にはっきりする。
兵舎へ戻ってからも、右目の奥はずっとじくじく痛んでいた。
昼に見た黒泥が、まだ視界の裏へ貼りついている。瞬きをするたび、白と黒に褪せた世界の底で、赤い脈だけが遅れて浮かぶ。
使いすぎた。
しかも、今日は無理やり押し開きすぎた。
寝台へ腰を下ろした瞬間、こめかみの奥で鈍い痛みが跳ねた。喉が熱い。耳の奥では、知らない断末魔が湿った紙みたいに重なって鳴っている。やめろ、沈むな、もう嫌だ――誰のものともつかない、死にたがっていた本音が、薄い膜みたいに何枚もこびりついて離れない。
このまま寝たら、明日の朝には視界の半分が死ぬ。
私は昼に確保した包帯を引き寄せた。
止血用じゃない。
縛るためだ。
烈酒を少しだけ布へ含ませ、塩を揉み込み、細く裂く。右の手首に一巻き。肘の内側にもう一巻き。最後に、右目の下をかすめるように頬骨へ浅く巻く。
ぎり、と締めた。
痛みが変わる。
消えはしない。でも、散っていたものが一本へ寄る。喉の奥まで這い上がっていたざわつきが、少しだけ皮膚の近くへ戻った。
私はゆっくり息を吐く。
縛れば、鈍る。
完全には止まらない。でも、暴れる向きを一つにできる。
散っていた痛みが一本へ寄ると、その芯だけ妙に冴えた。息を吸うたび、世界の輪郭まで薄く立つ。視界の端にあるものまで、自分の指で選り分けられる気がした。世界が少しだけ、自分の掌に落ちてくる。
最悪だ。
痛みのくせに、少しだけ万能になったみたいで気持ちが悪い。喉の奥が、ほんの少し笑いそうになる。
こんな感覚に慣れたら終わる。
雑だし、長くは保たない。
それでも、ないよりずっとましだった。
反動を消す術じゃない。
ただ、自分の肉へ押し込めるやり方だ。
でも、今夜ひと晩ぶんの猶予くらいは稼げる。
少なくとも、朝まで自分の足で歩ける。
「何してんの」
声は軽い。
ルークだった。
上段の影から顔だけ覗かせて、こちらを見下ろしている。
「寝なさい」
「寝る前に、明日も生きてそうか確認してる」
私は包帯の端を歯で引いた。
「残念ね。まだ死なないわ」
「そりゃ困る。ようやく面白くなってきたのに」
軽口だけ落として、ルークは引っ込んだ。
助ける気はない。
でも、騒ぎもしない。
包帯の下で何が鳴っているかまでは、誰にも見えない。
あれで十分だった。
私は寝台の端に置いた長釘を一本、指先で弾いた。
昼に黒泥へ触れた先だけ、まだ鈍く黒ずんでいる。
鉄を腐らせるほどじゃない。
でも、侵す。
板だけじゃない。道具にも移る。
なら明日必要なのは、板そのものより先に、汚れたものとまだ使えるものを分ける印だ。
私は残った包帯をさらに裂いた。
細い紐を作る。塩を擦り込んだもの、何も入れないもの、烈酒を含ませたもの。三種類。
長釘を二本、束ねる。
根元に印代わりの布を巻く。
見分けるための準備だ。
触って腐る前に、分ける。
明日の自分が迷わないように。
そこで、床板の下がひとつ脈打った。
どくり。
私は顔を上げる。
今のは近い。
兵舎の基礎の真下だ。
寝台の脚が鳴る。火鉢の灰がかすかに寄る。誰も起きない。起きるほどじゃない。けれど、昼よりはっきりしている。
私は包帯を巻いた右手で、床へ触れた。
冷たい。
その下を、太いものが通る。
湧き穴みたいな点じゃない。
線でもない。
重さのある塊が、ゆっくり位置を変えている。
私は立ち上がった。
外へ出る。
夜気は冷たいのに、右目の奥だけ熱を持っていた。焼却穴の火は落ちきらず、遠くで赤い芯だけが燻っている。
見張り台の陰、昼に板を割られた場所まで来たところで、また来た。
今度は二度。
どくり。
どくり。
視界がわずかに軋む。色が痩せる。黒い地面の下で、赤がにじんだ。
昨日より深い。
兵舎の下を通って終わりじゃない。
焼却穴。側溝。見張り杭の跡。そこを繋ぐように、太い脈がゆっくり巡っている。
巡回している。
私は思わず笑いかけて、すぐにやめた。
笑うほど楽じゃない。
ただ、見えた。
昨日は巨大な気配だったものが、今夜は動き方を持っている。
なら先回りできる。
私は足元の泥へ、拾ってきた長釘で印を刻んだ。
一つ。
二つ。
三つ。
明日の朝まで残るかはわからない。
でも、朝の自分が最初に見る目印にはなる。
背後で足音が止まった。
振り向かなくてもわかる。
「また勝手に死にに来たのか」
カイルだった。
「死ぬ前に数えてるだけよ」
「数えて終わるなら楽だ」
その通り。
私は釘を握り直した。
「包帯、あと二巻き要る」
沈黙が落ちる。
断られると思った。
でも、カイルは何も言わなかった。ただ、私の右手首の巻き方だけを一度見て、兵舎の方へ視線をやる。
「ガンツの寝台の下に一巻きある。勝手に使え」
それだけ。
私は肩をすくめた。
「優しいのね」
「違う」
低い声は、夜の湿気より冷たい。
「明日、見えない奴から先に死ぬ」
そう言って、彼はもうこちらを見ていなかった。
私も見ない。
見るのは地面だ。
どくり。
今度は、はっきりわかった。
焼却穴の真下で何かが寝返った。
土が盛り上がる。
離れた場所の側溝で泥が逆流し、見張り杭の倒れた跡へ黒い泡が一つ浮いた。
ただの湧き穴じゃない。
穴を開けているものが、下にいる。
しかも大きい。
私は包帯の端をきつく引いた。右目の奥で、赤がもう一度だけ脈打つ。
痛い。
吐きそう。
最悪。
それでも、朝まで待ってくれるほど優しくはなさそうだった。
私は刻んだ印を見下ろし、濡れた土の上にもう一本だけ長釘を立てた。
明日のための道具。
明日のための印。
明日のための、先回り。
夜の底で、地面が低く鳴る。
その音はもう、脈じゃなかった。
獣が腹の下で息をしているみたいだった。




