表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/8

第4話 誰も見ていないところで

 夜は、昼より静かなぶんだけ質が悪い。


 火が落ちたあとの駐屯地では、音が減る。そのせいで、地面の下で鳴るものだけが妙にはっきりする。


 兵舎へ戻ってからも、右目の奥はずっとじくじく痛んでいた。


 昼に見た黒泥が、まだ視界の裏へ貼りついている。瞬きをするたび、白と黒に褪せた世界の底で、赤い脈だけが遅れて浮かぶ。


 使いすぎた。


 しかも、今日は無理やり押し開きすぎた。


 寝台へ腰を下ろした瞬間、こめかみの奥で鈍い痛みが跳ねた。喉が熱い。耳の奥では、知らない断末魔が湿った紙みたいに重なって鳴っている。やめろ、沈むな、もう嫌だ――誰のものともつかない、死にたがっていた本音が、薄い膜みたいに何枚もこびりついて離れない。


 このまま寝たら、明日の朝には視界の半分が死ぬ。


 私は昼に確保した包帯を引き寄せた。


 止血用じゃない。


 縛るためだ。


 烈酒を少しだけ布へ含ませ、塩を揉み込み、細く裂く。右の手首に一巻き。肘の内側にもう一巻き。最後に、右目の下をかすめるように頬骨へ浅く巻く。


 ぎり、と締めた。


 痛みが変わる。


 消えはしない。でも、散っていたものが一本へ寄る。喉の奥まで這い上がっていたざわつきが、少しだけ皮膚の近くへ戻った。


 私はゆっくり息を吐く。


 縛れば、鈍る。


 完全には止まらない。でも、暴れる向きを一つにできる。


 散っていた痛みが一本へ寄ると、その芯だけ妙に冴えた。息を吸うたび、世界の輪郭まで薄く立つ。視界の端にあるものまで、自分の指で選り分けられる気がした。世界が少しだけ、自分の掌に落ちてくる。


 最悪だ。


 痛みのくせに、少しだけ万能になったみたいで気持ちが悪い。喉の奥が、ほんの少し笑いそうになる。


 こんな感覚に慣れたら終わる。


 雑だし、長くは保たない。


 それでも、ないよりずっとましだった。


 反動を消す術じゃない。


 ただ、自分の肉へ押し込めるやり方だ。


 でも、今夜ひと晩ぶんの猶予くらいは稼げる。


 少なくとも、朝まで自分の足で歩ける。


「何してんの」


 声は軽い。


 ルークだった。


 上段の影から顔だけ覗かせて、こちらを見下ろしている。


「寝なさい」


「寝る前に、明日も生きてそうか確認してる」


 私は包帯の端を歯で引いた。


「残念ね。まだ死なないわ」


「そりゃ困る。ようやく面白くなってきたのに」


 軽口だけ落として、ルークは引っ込んだ。


 助ける気はない。


 でも、騒ぎもしない。


 包帯の下で何が鳴っているかまでは、誰にも見えない。


 あれで十分だった。


 私は寝台の端に置いた長釘を一本、指先で弾いた。


 昼に黒泥へ触れた先だけ、まだ鈍く黒ずんでいる。


 鉄を腐らせるほどじゃない。


 でも、侵す。


 板だけじゃない。道具にも移る。


 なら明日必要なのは、板そのものより先に、汚れたものとまだ使えるものを分ける印だ。


 私は残った包帯をさらに裂いた。


 細い紐を作る。塩を擦り込んだもの、何も入れないもの、烈酒を含ませたもの。三種類。


 長釘を二本、束ねる。


 根元に印代わりの布を巻く。


 見分けるための準備だ。


 触って腐る前に、分ける。


 明日の自分が迷わないように。


 そこで、床板の下がひとつ脈打った。


 どくり。


 私は顔を上げる。


 今のは近い。


 兵舎の基礎の真下だ。


 寝台の脚が鳴る。火鉢の灰がかすかに寄る。誰も起きない。起きるほどじゃない。けれど、昼よりはっきりしている。


 私は包帯を巻いた右手で、床へ触れた。


 冷たい。


 その下を、太いものが通る。


 湧き穴みたいな点じゃない。


 線でもない。


 重さのある塊が、ゆっくり位置を変えている。


 私は立ち上がった。


 外へ出る。


 夜気は冷たいのに、右目の奥だけ熱を持っていた。焼却穴の火は落ちきらず、遠くで赤い芯だけが燻っている。


 見張り台の陰、昼に板を割られた場所まで来たところで、また来た。


 今度は二度。


 どくり。


 どくり。


 視界がわずかに軋む。色が痩せる。黒い地面の下で、赤がにじんだ。


 昨日より深い。


 兵舎の下を通って終わりじゃない。


 焼却穴。側溝。見張り杭の跡。そこを繋ぐように、太い脈がゆっくり巡っている。


 巡回している。


 私は思わず笑いかけて、すぐにやめた。


 笑うほど楽じゃない。


 ただ、見えた。


 昨日は巨大な気配だったものが、今夜は動き方を持っている。


 なら先回りできる。


 私は足元の泥へ、拾ってきた長釘で印を刻んだ。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 明日の朝まで残るかはわからない。


 でも、朝の自分が最初に見る目印にはなる。


 背後で足音が止まった。


 振り向かなくてもわかる。


「また勝手に死にに来たのか」


 カイルだった。


「死ぬ前に数えてるだけよ」


「数えて終わるなら楽だ」


 その通り。


 私は釘を握り直した。


「包帯、あと二巻き要る」


 沈黙が落ちる。


 断られると思った。


 でも、カイルは何も言わなかった。ただ、私の右手首の巻き方だけを一度見て、兵舎の方へ視線をやる。


「ガンツの寝台の下に一巻きある。勝手に使え」


 それだけ。


 私は肩をすくめた。


「優しいのね」


「違う」


 低い声は、夜の湿気より冷たい。


「明日、見えない奴から先に死ぬ」


 そう言って、彼はもうこちらを見ていなかった。


 私も見ない。


 見るのは地面だ。


 どくり。


 今度は、はっきりわかった。


 焼却穴の真下で何かが寝返った。


 土が盛り上がる。


 離れた場所の側溝で泥が逆流し、見張り杭の倒れた跡へ黒い泡が一つ浮いた。


 ただの湧き穴じゃない。


 穴を開けているものが、下にいる。


 しかも大きい。


 私は包帯の端をきつく引いた。右目の奥で、赤がもう一度だけ脈打つ。


 痛い。


 吐きそう。


 最悪。


 それでも、朝まで待ってくれるほど優しくはなさそうだった。


 私は刻んだ印を見下ろし、濡れた土の上にもう一本だけ長釘を立てた。


 明日のための道具。


 明日のための印。


 明日のための、先回り。


 夜の底で、地面が低く鳴る。


 その音はもう、脈じゃなかった。


 獣が腹の下で息をしているみたいだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ