第3話 掃除穴の理屈
右目の端は、まだ少し黒く濁ったままだった。
瞬きをすると、昨夜の床下で脈打ったものが残像みたいに眼窩の裏で揺れる。耳の奥にも、もう止んだはずの湿った断末魔がかすかに残っていた。
呪核視は便利だ。
その代わり、見たものを綺麗に返してはくれない。
痛みで無理やりこじ開けた時だけ、呪いは赤く見える。普段はもっと鈍く、黒く濁っていた。
けれど昨日より、浅い脈と沈む泥の境目だけは、考えるより先に目が拾う。昨日は滲んでいた浅い筋まで、今朝は指を差せる。
人は、化け物に殺される前に段取りの悪さで死ぬ。
翌朝、私は焼却穴の前でそれを見ていた。
死体袋の山は入口。核の仕分けは一番奥。薪はぬかるみを挟んだ反対側。見張り位置から側溝の死角が見えない。運ぶ人間と戻る人間が同じ泥を踏み、足を取られ、荷を落とし、その隙に横から食われる。
ひどい配置だった。
「よく今まで回してたわね」
ガンツが袋を担いだまま鼻を鳴らす。
「回してねえよ。昨日作った道だって、今朝には半分沈んでる」
彼が顎をしゃくる先では、古い板が泥に呑まれていた。
ルークがしゃがみ込み、板の端から曲がった釘を抜く。
「前は石を並べてた。二日で新しい湧き穴が開いて、道ごと喰われた」
エルネストは火を見たまま言った。
「焼却穴も動く。地面が息を吐く日がある」
カイルが付け足す。
「勝手な造作は監査官に嫌われる。見張り杭を立てたら抜かれた」
なるほど。
気づかなかったんじゃない。
直しても沈む。
作っても抜かれる。
底辺が楽になる形は、上が残さない。
それでも、今日は今日の正解がある。
私はしゃがみ込み、木片で泥へ線を引いた。
袋置き場。
焼却前の仮置き。
核箱。
運ぶ道。
戻る道。
そして、踏むと呑まれる黒い筋。
「今朝はここが死ぬ」
私が指した地点を、カイルが一度だけ見る。
次の瞬間、剣が沈んだ。
泥の下から腐った腕が跳ねる。
ガンツの盾が叩き潰し、ルークが喉裏から核を抜き、エルネストの火がそれを焼いた。
私は線を引き直す。
「だから道はここ。板は二列。左が運ぶ、右が戻る。交差させない」
ルークが片眉を上げた。
「板なんて今日の昼には沈むよ」
「沈まない場所に敷くの」
私は土の色ではなく、その下の脈を見ていた。浅い場所、濃い場所、空洞。今日、地面がまだ噛みついていない筋だけが見える。
「ガンツ、その崩れた棚板を持って。長い方だけ使う。エルネスト、火は一つ殺して一つへ寄せる。風下を変える。ルーク、釘と鉄片を拾って。抜ける板は全部外す」
「命令口調が板についてきたね」
「嫌なら死ぬ順番に戻りなさい」
ルークが笑って、釘を拾いに散った。ガンツは文句を言いながら棚板を担ぎ、エルネストは火鉢を蹴って炭床をずらす。カイルは私が言う前に、崩れやすい足場を二つ潰した。
作業は、前より静かに速くなった。
袋は右へ積む。核は左へ流す。焼却へ行く足と戻る足がぶつからない。見張りは側溝が見える高みに立つ。
たったそれだけ。
でも、たったそれだけを残せないのがこの底だ。
私は崩れた板の陰から、錆びた鉄鉤を一本引きずり出した。長釘も四本。まだ使える。
「そんなガラクタまで要る?」
ルークが訊く。
「要るわ」
鉄鉤は袋を引く。釘は道を止める。小さい道具ほど、ここでは人の寿命に近い。
「それ、目立つと持ってかれるぞ」
「じゃあ先に隠し場所も決める」
私が答えた、その時だった。
監査側の見張り兵が二人、泥を跳ね上げて降りてきた。後ろには帳面持ちの記録係までいる。
誰も怒鳴らない。
見張り兵は新しく敷いた板を見下ろし、少し邪魔そうに眉を動かしただけだった。
石突が降りる。
乾いた音。
板の一本が割れた。
「燃えるゴミはあっちだろ」
言いながら、もう一本。
ルークが口角だけで笑う。
「……ほらね」
でも目は笑っていない。
見張り兵はそちらも見ない。ただ、長靴の底にこびりついた泥をこそぎ落とすために、割れた板の破片を靴先でガリガリ踏みつけた。折れた釘が潰れる。記録係はしゃがみ込み、私の足元に置いた鉄鉤を持ち上げた。
「ああ、これ規定外な」
確認ですらない口調だった。
私が睨んでも、記録係は帳面を見るついでみたいにしかこちらを見ない。怒っているわけじゃない。嫌がらせを楽しんでいるわけでもない。ただ、そこにあったから拾うだけだ。
それがいちばん腹立たしい。
ガンツの肩が低くなる。カイルは一歩だけ前に出る。
けれど抜けない。
ここで逆らえば、板どころか首が飛ぶ。
見張り兵はそれすら確認しないまま、見張り用の杭を蹴り倒した。
「あと、それも邪魔」
記録係が釘を二本、核箱の中身を半分、帳面を抱えたまま自分の袋へ放り込む。
「拾得物は一回上げろって前から言ってるだろ」
前から、なんて誰も守らない規則のくせに、言い方だけは事務的だった。
板は割られ、釘は折られ、鉄鉤は持っていかれる。
骨拾いの工夫なんて、彼らには怒る価値すらない。
ただのゴミ処理だった。
最後に見張り兵が泥を払って言う。
「次から燃えそうなもんはまとめとけ」
それだけ残して去っていく。
残ったのは、割られた板と、泥に半分埋まった釘と、元に戻りかけた死に筋だけだった。
しばらく誰も動かない。
ガンツが重く息を吐く。
「……だから言ったろ」
エルネストは火の前で、何もない顔をしていた。諦めることに慣れた顔だった。
ルークは肩をすくめた。
笑っているようで、何も面白がっていない。
正しいだけでは残らない。
回るだけでも駄目。
上にとって都合が悪ければ、蹴り割られて終わる。
私は泥にしゃがみ込み、割られた板の破片を拾った。手の中で、湿った木片がささくれる。
怒りはあった。
でも、それだけじゃ足りない。
割られたなら、割られた形で使える。
奪われたなら、別の場所から引けばいい。
このささくれ一つまで、明日あいつらの足元を噛ませる材料になる。
そう思うと、頭の奥がひやりと痺れた。
私は笑った。
「……上等」
三人がこちらを見る。
「道が駄目なら、次は荷を止める台木を抜く。見張り所の脇に積んである横木でも、水桶の台でもいい。あいつらが“ただの備品”だと思ってるものから、こっちの道を作る」
ガンツが呆れたように息を吐いた。
「正気か?」
「こんな穴で今さら」
私は折れ残った長釘を一本、泥から引き抜く。
使える。
まだ。
全部じゃない。
でも、ゼロでもない。
「……ゼロじゃないよ」
ルークが袖口を軽く振った。チャリ、と鈍い音が鳴る。記録係に没収される直前、無傷の長釘一本と、いちばん締まった核片だけを懐へ滑らせていたらしい。
「上納品になるゴミだけ残してやった」
「勘違いしないで」
私は立ち上がった。
割られた板の上に、靴を置く。
「私はここから抜け出したいんじゃない」
釘が掌の中でじゃらりと鳴る。
「奪うのよ」
使える道を。
拾える物を。
生き残る順番を。
上が当然みたいに握ってる理屈ごと、こっちへ引っ張る。
ルークがようやく、薄く口角を上げた。
「……やっぱり、気持ち悪い方だったか」
「目を逸らさないで」
ガンツは割れた板を見下ろし、やがて舌打ちしながら使える方だけを脇へ寄せた。エルネストは黙って火を弱め、カイルは去った兵の背を一度だけ見てから、また地面へ視線を戻す。
その時だった。
「……来る」
カイルの低い声。
次の瞬間、足元がごく小さく震えた。
板の下。泥の奥。昨日まで見えなかった深いところで、腐った腸みたいに太い黒いものが一度、どくりと身をよじった。
しかも今度は、割られた板の断面から、黒い泥みたいなものがじわりと滲み出した。木のささくれに沿って這い、まるで血を吸うみたいに色を濃くしていく。
その泥が、せっかく拾い直した長釘の先へ触れた。
じゅ、と湿った音がした。
鉄が鳴る。
黒ずみが、釘の先からゆっくり這い上がってくる。
今日の正解が、明日も正しいとは限らない。
この掃除穴は、まだ口を開けきっていない。
むしろ、下で何かが起き始めている。




