第2話 どうせすぐ死ぬ補充品
勝ったところで、配給皿は増えない。
焼却穴を黙らせても、寝床は黴臭いままで、骨拾いの順番は最後のままだ。
兵舎へ入って最初に見たのは、人間ではなく空き場所だった。
入口から二つ目の下段。荷物棚に近く、薬箱も近い。そのうえ壁を背にできる。
その寝台へ荷物を置く。
柱にもたれていたルークが口笛を吹き、寝台の向こうでガンツが鼻を鳴らす。火の前ではエルネストが炭を返していた。壁際の剣士だけは、まだ名乗らない。
「そこ使うんだ」
「空いてるもの」
「前の治癒師もそこだった」
寝台の木枠に古い茶色がこびりついている。毛布の裏には、爪でひっかいた痕が何本も残っていた。荷物はない。靴だけが寝台の下に片方転がっている。
ルークが革紐を指で弾きながら笑う。
「夜番のあと、戻らなかった。誰も探さない。補充品なんてそういうもん」
私は毛布をめくり、血痕の乾き方だけ見て元へ戻した。
薬箱へ向かう。
壊れた留め金。開けると、包帯三巻、止血粉二包、烈酒半瓶、曲がった針が二本。
少ない。
でも、先に押さえた者のものだ。
一巻き。小瓶。針一本。
腰袋へ滑り込ませる。
低い声が落ちた。
「遠慮しないんだな」
名乗らない剣士がこちらを見ていた。
私は蓋を閉める。
「遠慮した補充品から消えるんでしょう?」
返事はない。ただ、その男の目は薬箱ではなく、私の指先を見ていた。
何に触れるか。
誰に触れるか。
そこだけ妙に鋭い。
夕刻、配給所の列はいつも通り長かった。骨拾いは最後尾で、前の連中に粥をよそい終えた鍋はもう底が見えている。
しかも今日は、鍋も薬も減りが妙に早かった。
列の先頭で兵が一人、骨拾いの皿を足で蹴った。
「後ろ」
押し返された男は何も言わない。言っても殴られるだけだからだ。
私は列を外れた。
帳場の裏。積み上げられた木箱のさらに奥、汚れた雨除けの防水布が不自然に膨らんでいる。
風が吹いても動かない。
隠している形だ。
私は布の端をつまみ、めくった。
中から出てきたのは、正規帳簿へまだ書かれていない小樽と布包みだった。保存塩。消毒水。乾燥薬草。
その横の床だけが妙に乾いている。ついさっき運び込んで、慌てて隠した跡だ。
つまり、抜いている。
なら力で奪う必要はない。
「何してる!」
配給係が怒鳴った。
でも、声の端にはもう焦りが混じっていた。
私は昨日拾った鉤棒の先で、わざと焼却穴の泥を樽の縁へ擦りつけた。黒ずんだ脂と乾いた血が、木肌へべっとり伸びる。
「見れば?」
今度は布包みの角を軽く持ち上げる。そこにも泥が移る。
列の兵たちが、さっと一歩引いた。
「今朝いちばん呪いの濃かった穴を掻き回したやつよ。前線へ回したら、あんたが説明するの?」
配給係の顔色が変わる。
「ふざけるな、汚すな!」
「もう遅いわ」
私は樽の口を覗き込むふりをした。
「しかも帳面の外で抜いた分でしょう。正規の支給じゃない。汚れた上に記録もない。これ、誰に出すつもり?」
返事が詰まる。
図星だ。
私は肩をすくめた。
「じゃあ捨てるしかないわね」
配給係が睨む。
「骨拾いに回せるか」
「回すんじゃない。廃棄よ」
私は鉤棒で汚れた布包みを引き寄せる。
「前線に出せない、帳簿にも載せられない。なら底辺の掃除班が処分する。ちょうどいいじゃない」
周囲の兵たちの空気が変わった。汚れた医療物資への忌避だけじゃない。自分たちの飯や薬を抜いていたかもしれない相手を見る目だ。視線が一斉に配給係へ寄る。ひとりが露骨に舌打ちし、別の兵は逃げ道を塞ぐみたいに半歩だけ前へ出た。配給係の額に、嫌な汗が浮いた。ここで私と揉めて騒ぎになれば、骨拾いではなく前線の兵に吊るされる。
私は続けた。
「それとも、監査官の前で帳面を開く? 正規記録にない支給品が、どうしてここにあるのか聞かれながら」
配給係の喉が鳴った。
怒っているのに、手が出ない。
出した瞬間、自分の横流しまで表へ出るからだ。
「……持ってけ」
吐き捨てるみたいに言った。
勝ち。
私は塩袋、消毒水、乾燥薬草だけを手際よくまとめ、汚れた樽の蓋を戻した。正規の箱にはもう触らない。あれは記録の上にある物だ。欲しいのは、記録の外にずれたものだけでいい。
そのまま粥の皿と黒パン、水袋を抱えて兵舎へ戻る。
勝ちというには安い。
でも、死なないためには十分だ。
兵舎では、ガンツが濡れた袋を干し、エルネストが火鉢の煙を逃がす位置へ炭をずらしていた。ルークはどこから持ってきたのか、釘と革紐を棚に並べている。
私は寝台の脇へ包帯と小瓶を置いた。
「一つ決めるわ」
全員に聞こえるように言う。
「私の荷物に勝手に触ったら、その指を縫う」
ルークが笑った。
「怖いねえ」
「代わりに、死にかけだけは診る。順番は私が決める」
ガンツが鼻を鳴らす。
「補充品のくせに偉そうだ」
「死体袋の数を減らしたいだけよ」
そこで終わればよかった。
でも私は、壁際の剣士の右腕へ目を留めてしまった。袖の上からでも、そこだけ力の掛かり方が違う。
「あなたの腕——」
一歩近づいた瞬間、手首を掴まれた。
速い。
背中が壁へ当たる。兵舎の空気が止まった。
「俺に触るな」
低い声。
怒鳴りではない。
でも、刃みたいに冷たい。
「診るだけよ」
「頼んでない」
指が食い込む。強い。なのに、骨を折る一歩手前で止まっている。
そこで視界が跳ねた。色が抜け、世界が白と黒だけに反転する。その底で、泥の下の呪いだけが真っ赤な脈みたいにどくどく脈打っていた。
手首の痛みが、肘、肩、喉の奥まで一気に駆け上がる。心臓が打つのと同時に、昨日使いすぎた呪核視が傷口を抉るみたいにひらいた。
見たくもないのに、見える。
床板の下。
兵舎の基礎のさらに下。
泥の中を、太い脈がうねっている。
寝台の脚が、かすかに鳴った。
火鉢の灰が揺れる。釘が棚の上で微かに鳴る。
誰も気づかない程度の震え。でも私の皮膚だけが、それをぞっとするほどはっきり拾った。
痛みで開いた感覚の奥を、巨大なものが一度だけ通ったのだ。
剣士の指が離れる。
「次はない」
それだけ言って、彼は壁へ戻った。
「相変わらず愛想ないね、カイル」
ルークが気まずそうに視線を逸らしながら笑う。ガンツは何も見なかった顔で毛布を投げ、エルネストは火を見たまま口を開かない。
私は赤くなった手首を押さえ、寝台へ腰を下ろした。
前の治癒師の血痕。枕の下の包帯。痛みで勝手にひらいた視界の底に残る、あの太い脈。
どうせすぐ死ぬ補充品。
結構。
死なないまま、その呼び方ごと腐らせてやる。




