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第1話 地獄の底

 腐臭は、鼻を突くというより喉の奥に貼りついた。


 雨を吸った灰と焼け残りの脂。泥に半分沈んだ指。王都の香油は、こんな匂いに勝てない。


 黒騎士団最底辺、《骨拾い》。


 追放された治癒師の行き先としては、よくできた悪趣味だった。


 焼却穴のそばで、大盾持ちの男が死体袋を二つまとめて担ぎ上げる。骨の山の陰では、痩せた男が死人のベルト金具と革紐を選り分けていた。火の前の無精髭の男は、薪ではなく炎の流れだけを見ている。


 少し離れたところに立つ剣士は、死体より先に崩れかけた足場と側溝の泥を見ていた。


 その四人へ、泥ひとつついていない長靴が近づく。


 監査官だった。


 白手袋。鼻を押さえる香布。後ろに、棍棒を提げた兵が二人。白手袋の袖口に覗く銀糸の百合紋を見て、喉の奥が冷えた。王都で何度も目にした印だった。


「本日のノルマだ」


 帳簿が開かれる。


「湧き穴七つ。日暮れまでに完全処理。焼却残滓の選別は倍。終わらなければ、夜の水は止める。死体袋の補充も後回しだ」


 誰も反論しない。反論してどうにかなる場所ではないからだ。


 監査官は私へ視線を寄越した。


「補充の治癒師が来た。少しは回るだろう」


 言葉の形をした処刑宣告だった。


 私は帳簿ではなく、足元を見る。泥の下には、腐った血管みたいな黒い筋が這っていて、細いものが六つ、太く膨れた一本だけが崩れた焼却台の下でぬめるように脈打っている。


 他は枝だ。


 根は一つ。


「動くな」


 監査官に言われる前に、私は転がっていた鉤棒を拾った。


「命令が聞こえなかったか」


「聞こえたわ」


 私は焼却台を指した。


「でも、やるのは七つじゃない」


 棍棒持ちの兵が一歩前へ出る。


 その瞬間、側溝の泥が盛り上がった。


 一体。


 二体。


 腐った兵の死体が、泥水を撒いて這い出る。


 胸を裂いても止まらない角度だ。私は喉を指した。


「そこ」


 痩せた男の短剣が跳ねた。一体目の喉裏から黒い核が飛ぶ。二体目は大盾に叩きつけられ、剣が横から走った。


 もう一体。


 奥。


「膝から落ちる!」


 言った直後、その死体の脚が折れた。剣士の刃が首ごと断つ。


 笑いが消えた。


 監査官だけが消えない。


「三体で何だ。残り六穴だ。動け」


 本当に、数字しか見ていない。


 だから壊せる。


「そこの大盾、焼却台を左から持ち上げて。火の前、炎を縁へ落として。短剣持ち、核だけ拾え」


 大盾の男が眉を寄せる。


「命令してんのか?」


「死にたくないなら動きなさい」


 先に動いたのは、少し離れた剣士だった。彼は私を見ず、焼却台の傾きを一度見てから短く言う。


「左は沈む。右へずらせ」


 一拍、遅れた。


 私の見ていた脈と、実際の地面の崩れ方が半歩ずれたのだ。


 次の瞬間、焼却台の下で腐った二つの死体が絡み合ったまま跳ね上がった。四本の腕が一度に伸び、想定より高い位置から私の喉を掴みに来る。


 見えていなかった。


 まずい、と咄嗟に身を引くより先に、鈍い衝撃音とともに大盾が割り込んだ。その盾が、融合した塊ごと私の前で受け止めている。分厚い鋼鉄が軋み、大男の太い両足が足首まで泥へ沈んだ。並の兵なら、腕の骨ごと潰される重さだ。横から剣士の刃が関節を断ち、痩せた男が露出した核へ短剣をねじ込んだ。火の前の男の炎が遅れず落ちる。


 焼けた肉と泥が弾けた。


「前」


 短い声。


 私は息を呑み、鉤棒を握り直す。


 助かった。


 でも、読めなかった。


 なら次は外さない。


 大盾の男が盾越しに吐き捨てた。


「手順通りで終わるなら、とっくに終わってる」


 その一言で、むしろ頭が冷えた。


 そうね。


 ここは王都の治療室じゃない。


 読み切れない半歩のズレごと、押し潰す場所だ。


 焼けた木材が軋み、下の土が崩れる。吹き上がった臭気に、記録係がむせた。


 裂け目だ。


 穴ではない。


 半分骨になった死体が何層も絡み、奥で濃い核が脈を打っている。私は鉤棒を突き込んだ。


 横から顎が迫る。


 剣がその顔面を断ち割った。


「前」


 私は今度こそ身を沈め、鉤棒をさらに押し込む。


 引っかかった。


 黒い核だ。


 だが、重い。


 泥と腐肉が根を張るみたいに、核を掴んで離さない。鉤棒を引くたび、裂け目の奥で肉の繊維がぶちぶち鳴る。腕の筋が千切れそうなほど重く、ほんの少ししか浮かない。


 しかも、まだ来る。


 裂け目の縁から新しい顎が迫り、横から伸びた手が私の腕へ絡みつこうとした。剣士の刃がそれを断ち、大盾がもう一度だけ私の前を塞ぐ。その隙に私は歯を食いしばって鉤棒をこじり上げた。


 泥の底に癒着したものを、無理やり抉り剥がす。


 裂け目全体が痙攣した。


 ずるりと抜けた黒い塊が、泥と腐肉を引きずったまま宙へ現れる。


「今!」


 火が落ちる。


 炎が核を呑み、湿った呪いが耳の奥で裂けた。


 目の前で暴れていた四本腕の融合体が、支柱を失ったみたいに崩れた。四本の腕から順に力が抜け、腐肉と泥の塊へ戻って焼却穴の縁へずるりと沈む。


 次の瞬間、周囲六つの穴で立っていた死気が、糸を切られたみたいに痩せた。側溝が静まり、泥の下で動いていた指が止まる。記録係の筆が宙で止まった。


 帳簿の前提が死んだからだ。


 七つを回るつもりで積んだ数字が、一つ潰しただけで意味を失っている。


 監査官の頬が引きつった。それでも彼は退かない。


「処理続行だ」


 白手袋が帳簿を叩く。


「帳簿は帳簿だ。残りも掃除しろ」


 やっぱりそう来る。


 理屈で勝つ気はない。


 私は焼け残った核片を拾い、監査官の長靴へ投げた。泥が白革を汚す。


 兵が棍棒を上げた。


「この——」


 その声を、金属の擦れる乾いた音が切った。


 剣士の親指が、剣の鍔をほんの半寸だけ押し上げていた。抜いてはいない。ただ、それだけで空気が変わる。


 同時に、大盾が半歩だけ前へ出る。受けるためじゃない。潰すための位置だ。


 痩せた男は笑っていたが、短剣の切っ先だけが兵の喉元へ一番近い角度を選んでいた。火の前の男の炎も、穴ではなく兵の足元へ寄っている。


 骨拾いは誰も何も言わない。


 それなのに、棍棒持ちの兵だけが息を呑んだ。


 ここで振り下ろしたら、自分が先に死ぬ。


 そうわかった顔だった。


 監査官も、それを見た。


 白手袋の指が止まる。


 彼は初めて、私ではなく班全体を見た。


 掃除係ではない。腐った穴の底で噛みつくことだけ覚えた連中だと、ようやく理解した目だった。


 私は靴を見たまま、口元だけで笑った。右目の端で赤が滲んでいるのに、視線は逸らさない。


「泥を見ない帳簿なんて、これで十分よ」


 監査官の口元がひきつる。


「……目障りだ」


 吐き捨てる。


 でも、それ以上は出せない。兵も動かない。動けない。


 吐き捨てて去っていく背中を見送り、私は鉤棒を握り直した。目の端から落ちた赤が、柄を伝って泥へ落ちる。


 顔を伏せた一瞬だけ、息が揺れた。


 痛い。


 最悪。


 それでも、悪くない。


 地獄の底でも、まだ奪える。


 まずは一つ、向こうの計算を狂わせた。

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