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第10話 白い肌に這うもの

 包帯と釘と燃料一束。

 数字にすると、笑うほど安い。


 でも、昨日までゼロだったものだ。

 骨拾いに落ちる物資としては、十分すぎる戦果だった。


 兵舎へ戻る前に、私は一度だけ水桶の影へ回った。


 喉の奥に残っていた黒い熱が、まだ消えない。

 咳き込むたび、肺の裏で何か細いものが擦れる。


 耳の奥では、知らない本音が遠くなったり近くなったりを繰り返していた。


 代償は来ている。

 むしろ、さっきから遅れて広がっている。


 私は手の甲で首筋を拭った。

 そこで、指が止まる。


 皮膚の下に、細い違和感があった。


 傷でも汗でもない。

 もっと浅く、もっと冷たい。


 水桶の縁に溜まった濁り水を覗き込む。


 首の左側。

 鎖骨のすぐ上。


 白い肌の下を、黒い糸みたいな筋が一本、ゆっくり這っていた。


 血管ではない。

 もっと細く、もっと嫌な形だ。


 棘のない蔦みたいに見えるくせに、よく見れば途中で枝分かれして、皮膚の裏から内側を探るみたいに動いている。


 私は無意識に爪を立てた。

 掻き毟って削げば、消えるかもしれない。


 でもやめた。

 そんな雑な真似をしたら、たぶん広がり方だけ覚える。


 代わりに指先でなぞる。


 冷たい。

 なのに、触れると奥でじわりと熱を返してくる。


 最悪だ。


 喰ったものが、今度はこっちの皮膚の裏を歩いている。


 私は喉の奥で小さく笑いかけて、すぐに口元を押さえた。


 笑うところじゃない。

 でも、醜いだけでもなかった。


 白い肌に細い黒が這う様は、生理的に嫌なのに、変に目を離しにくい。


 気持ち悪い。

 なのに少し、綺麗だ。


 自分でそう思ったことに、いちばんぞっとした。


「何してる」


 低い声が落ちた。


 振り向かなくてもわかる。

 カイルだ。


 水桶の向こう、見張り台の影で止まっている。

 足音がしなかった。

 わざとかどうかは知らない。


 私は手を下ろさない。


「覗き?」

「違う」


 その否定は早かった。

 でも視線は逸れない。


 首筋に落ちている。


 見たのだ。

 黒い筋を。


 私はようやく体を半分だけ向けた。

 隠すには遅い。

 隠したところで、見た記憶までは消えない。


「見たなら、見たって言いなさいよ」


 カイルの喉が一度だけ動いた。


 それで十分だった。


 嫌悪なら、もっと単純な顔をする。

 でも今のこいつは違う。


 気味悪がっている。

 警戒もしている。

 なのに、それだけじゃない。


 もっと古い何かを引っかけた時の顔だ。


 私は目を細める。


「何。その顔」

「……昔、見たことがある」


 意外だった。

 でも声は揺れていない。


 嘘で逃がす気はないらしい。


「人に?」

「人、だったものに」


 短い答え。

 それだけで十分に嫌な匂いがした。


 王都じゃない。

 軍のもっと奥か、戦場のもっと底だ。


 私は水桶の縁から背を離した。


「それで? 切る?」


 試すみたいに言う。


 カイルはすぐには答えなかった。


 代わりに、首筋の黒い筋をもう一度だけ見て、それから私の右目の濁りへ視線をずらす。


「切らない」

「優しいのね」

「違う」


 今日二度目だ。

 この男は、否定する時だけ少し速い。


「切るには、まだ早い」


 私は笑った。

 冷たい言い方だ。


 つまり、必要なら切るつもりではいる。

 でも同時に、今は切らない理由がある。


 都合がいい。

 私はそういう曖昧さが好きだった。

 利用できるから。


「見たことがあるなら教えなさいよ」

「教えたら、やめるか」

「まさか」


 即答すると、カイルはほんの少しだけ目を伏せた。


 呆れたのか、納得したのか、どっちでもいい。


「だったら後だ」


 それだけ言って、彼は近づいてきた。


 私の前で止まる。


 距離が近い。

 でも触らない。


 触れば何が起きるか、こいつはもう前より知っている。


「包帯」


 差し出されたのは、新しく来た二巻きのうちの一つだった。


「隠すなら巻け」

「隠さないなら?」

「好きにしろ」


 けれど、言い方は投げない。


 隠してほしいのだ。

 少なくとも今は。


 上に見つかれば面倒になるとわかっている。

 私のためじゃない。

 班のためだ。


 あるいは、まだ計算が崩れるのが惜しいだけかもしれない。


 どちらでもいい。


 私は包帯を受け取り、首筋へ巻いた。

 黒い筋が布の下へ隠れる。


 隠れた瞬間、少しだけ惜しいと思った。


 最悪だ。


 こんなもの、見せびらかしたいわけじゃない。

 ないのに、消えるとほんの少し物足りない。


「何笑ってる」


 カイルが言う。


 そこで初めて、自分の口元が上がっていたことに気づいた。


 私は包帯の端を引き締める。


「別に」

「嘘だ」

「嘘でもいいでしょ」


 カイルは答えない。


 ただ、その沈黙は前みたいな拒絶じゃなかった。


 知ってしまったものを、どう扱うか測っている沈黙だ。


 私はその目を見返した。


「言っとくけど、気味悪いなら今のうちよ」


 首筋の布を指で叩く。


「これ、たぶん増えるわ」


 カイルの目が細くなる。

 でも逸れない。


 やっぱり、そういう男だ。


「増えたら言え」

「は?」

「見逃すと困る」


 それだけ。


 言い方は事務的で、情なんて一滴もない。


 なのに、ぞっとするほど私の側の言葉だった。


 増えたら言え。

 見逃すな。

 使えるうちに使え。


 私は吹き出しかけて、咳で誤魔化した。

 喉の奥がまだ熱い。


「命令?」

「確認だ」

「さっきからそればっかりね」

「お前もだ」


 それで会話は切れた。


 兵舎の方から、ルークの軽い口笛が飛んでくる。

 ガンツが何か低く返し、エルネストの火鉢が鳴った。


 戻れという合図だ。


 私は包帯の端を押さえ、最後にもう一度だけ水桶を見た。


 濁った水の中で、白い首筋はもうただの影に戻っている。


 でも、布の下には確かにある。


 喰った証拠。

 代償の形。


 そして、見た相手の記憶にももう残った。

 消せない形で。


 私は踵を返す。


「行くわよ」


 カイルは黙って横に並んだ。


 半歩だけ後ろでも、前でもない。


 妙に気持ちの悪い位置だった。


 でも悪くない。


 兵舎の火が近づく。

 包帯も、釘も、燃料もある。

 記録にも残した。


 傷はまだ痛む。

 黒い熱も消えていない。

 首筋の下では、たぶん今も黒い筋がゆっくり這っている。


 それでも私は笑った。


 気持ち悪いのに、綺麗。


 そう思ってしまったことだけは、まだ誰にも言わない。


 包帯の下で、黒い筋がもう一本だけ静かに枝分かれしたことも。

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