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第11話 気持ち悪いのに、綺麗

 眠る前から、世界が近すぎた。


 兵舎の火鉢がはぜる音が、耳のすぐ裏で割れるみたいに響く。


 濡れた毛布の黴臭さも、乾ききらない血の鉄臭さも、喉の奥に一枚ずつ貼りついて剥がれない。


 誰がどこで寝返りを打ったか、誰の傷がどの拍で疼いたかまで、考えるより先に皮膚が拾っていた。


 最悪だ。


 痛みで眠れないんじゃない。


 痛みのせいで、妙にはっきりしすぎて眠れない。


 包帯の下で、首筋の黒い筋がじわりと熱を返す。


 冷たいのに、熱い。


 気持ち悪いのに、少しだけ綺麗だった。


 私は寝台の上で目を閉じる。


 閉じても駄目だ。

 暗闇の底で、白と黒に痩せた世界の輪郭だけが浮いてくる。


 火鉢。棚。釘。水袋。壁際に立てかけた大盾。

 ガンツの荒い寝息。

 ルークの浅い呼吸。

 エルネストの、死人みたいに静かな眠り。


 そして、起きている一つ。


 兵舎の奥。


 カイルは座ったまま、剣の手入れをしていた。


 見なくてもわかるのが腹立たしい。


「寝ないの」


 私が言うと、刃を拭う音が止まった。


「お前が寝てない」

「気持ち悪くて無理」

「知るか」


 冷たい返事。

 でも席は立たない。


 見張っている。

 私を。


 それが少しだけ都合よくて、少しだけ苛ついた。


 私は寝返りを打ち、毛布を頭まで被る。


 その瞬間だった。


 床板の下で、低い音が鳴った。


 どくり。


 私は跳ね起きる。


 同時に、カイルも立っていた。


「今の」

「外だ」


 短い声。


 次の拍で、見張り鐘が半端に一つだけ鳴った。

 鳴らした兵の手が、途中で止まったみたいな濁った音だった。


 嫌な音。


 私はもう靴を履いていた。


 兵舎を飛び出す。

 夜気が頬を刺す。


 なのに、冷たさより先に、臭いが来る。


 腐った泥。濡れた木。焼却穴の残り火。

 そこへ混じる、生乾きの呪いの臭い。


 濃い。

 昨日よりずっと。


 見張り台の脇で、兵が一人、喉を押さえて膝をついていた。

 黒い泥が足元から這い上がり、脛当ての継ぎ目へ入り込んでいる。


 そのすぐ横、割れた板の断面から滲んだ黒が、今度は糸みたいに空気へ揺れていた。


 湯気じゃない。

 もっと細い。

 もっと嫌な形だ。


 なのに、見えた瞬間、喉の奥が熱くなった。


 綺麗だ、と思ってしまった。


 月もない夜のくせに、その黒だけ輪郭がある。

 濁っているのに、妙に澄んで見える。


 触れたら駄目だとわかるものほど、指を伸ばしたくなるみたいに。


「フィオナ」


 低い声が飛ぶ。

 カイルだ。


「見るな」

「無理」


 私は答える。


「見えすぎる」


 耳の奥で、誰かの本音が湿って鳴る。


 いやだ。

 痛い。

 助けて。

 死にたくない。


 知らない声なのに、今夜は遠くない。

 薄膜一枚じゃない。

 もう少し深く、骨の近くで鳴る。


 気持ち悪い。

 でも、その分だけ、全部が遅い。


 這い上がる泥の筋。

 兵の膝が抜ける前触れ。

 見張り台の杭が沈む角度。

 側溝の黒が次に噴く位置。


 全部、考えるより手前でわかる。


「ガンツ、そいつを引ける?」


 兵を指す。


 兵舎から遅れて出てきたガンツが舌打ちした。


「引くだけならな」

「左へ。二歩で止まって」

「命令ばっかり——」

「死にたくないなら早く」


 ガンツが動く。


 その足が沈むより先に、私は長釘を一本、黒泥の走る手前へ叩き込んだ。


「そこ、跳ねる!」


 釘の頭がじゅ、と濁った音を立てた瞬間、その右脇から黒泥が噴いた。


 ガンツは釘を掠めるように半歩ずれ、兵の襟を掴んで引き剥がす。

 噴き上がった泥は空を噛んで、見張り台の脚へぶつかった。


 ルークが息を呑んで笑う。


「……何それ。今のも見えたの?」

「うるさい」


 私は次を見る。


 音が来る前に、空気が擦れる。

 臭いが濃くなる。

 地面の下で、太いものが身じろぎする。


 右。

 次は右だ。


「エルネスト、火を落としなさい。細く、長く」


 炎が走る。


 いつもより少し速い。

 私の声が迷わなかったからだろう。


 火は側溝の縁を舐め、這い出ようとした黒泥を乾かし、押し返す。


 私は自分の呼吸が浅いのに気づいた。


 苦しい。

 肺の奥が熱い。


 それなのに、頭の芯だけは妙に冷えている。


 全部、間に合う。

 全部、掴める。


 このままなら、まだ先まで見える。


 その感覚に、ぞっとするほど酔いそうになった。


 もっと。

 もう少しだけ。


 その方が楽だ、と身体の底が囁く。


「フィオナ!」


 今度はカイルが目の前にいた。

 肩を掴まれる。


 強い。

 現実へ引き戻す力だ。


「息をしろ」


 そこで初めて、自分が息を止めていたのを知った。


 吸い込んだ夜気が、喉の奥で熱くなる。


「してる」

「嘘だ」


 嘘だった。


 私は浅く息を吸う。

 黒い臭いが肺へ入る。

 くらりと足元が揺れる。


 けれどその一瞬、見えた。


 見張り台の裏。

 まだ何もない暗がり。

 その下で、細い黒が束になって脈を打つ。


「カイル、後ろ」


 囁くより先に、彼は振り返っていた。


 世界が遅く見える私の目でさえ、その動きだけは追えなかった。


 剣が抜かれる。


 次の瞬間、見張り台の裏の泥が裂け、犬ほどの大きさの腐った塊が飛び出した。

 骨と泥と獣皮を雑に縫ったみたいな小型の呪いだ。


 剣がそれを半ばで断つ。

 落ちた塊を、ルークの短剣が核ごと貫いた。


 エルネストの火が遅れて呑む。


 短い静寂。


 誰も、すぐには喋らなかった。


 ガンツが兵を放り出すみたいに地面へ座らせ、荒い息のまま私を睨み据えた。

 その目が、ひどく怯えたように泳いでいる。


「……おい。お前、その顔」


 言われて、自分の指先が頬に触れた。


 口角が、耳の裏まで裂けるみたいに吊り上がっている。


 気味が悪いほど、楽しそうに。


 息が止まった。


 私は奥歯を噛み締め、歪んだ笑いを肉ごと押し潰した。

 鉄の味が広がって、頭が少しだけ冷える。


「褒め言葉?」


 ルークが肩をすくめる。


「怖いね。ほんとに」


 でも、退かない。


 エルネストは火を見たまま、視線も寄越さない。

 消えていく炎の中で、何かを数えるみたいに目だけが動いていた。


 カイルだけが、まだ私を見ている。


 首筋の包帯。

 浅い呼吸。

 笑いかけた口元。


 その全部を見ている。


「戻るぞ」

「まだ下で動いてる」

「だからだ」


 低い声。


「そのまま見続けるな」


 正しい。

 正しすぎて腹が立つ。


 でも、今の私は少しでも長く見ていたいと思ってしまった。


 あの黒い揺れを。

 遅くなった世界を。

 全部が手の中へ落ちてくる、あの冷たい感じを。


 気持ち悪いのに、綺麗。

 最悪なのに、手放したくない。


 倒れた兵が、担架に乗せられて運ばれていく。

 意識はあった。

 たぶん助かる。


 助かった、という言葉が、私の中で別の音に変わる。


 あの兵が助かったのは、私が呼ばれたからじゃない。


 ——今夜も、私は呼ばれていない。


 私は一度だけ焼却穴の方を見た。


 暗い。

 静か。

 けれど静かすぎる。


 あの底で、もっと濃いものが息を潜めているのがわかる。


 今日はここまで。


 でも次は、もっと深くなる。


 私は口元を押さえ、ようやく笑いを潰した。


「……わかった。戻る」


 そう言って歩き出した足は、少しだけ軽かった。


 生き延びたからじゃない。


 見えてしまったからだ。


 自分が、壊れかけた分だけ速くなっていると。


 そして、その速さを、もう一度欲しいと思ってしまったと。


 兵舎の火へ戻る背中で、包帯の下の黒い筋がじわりと熱を返した。

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