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バロック!!  作者: 羊蔵
一章 穴あき・インザ・ウルタール
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7/16

7 インザ・ウルタール


 ◎


「――過日花尾得、犀訶」

 人間のように頭を下げ、僕の猫が去っていく。

 別れの言葉は、地球上の生物では発声不可能に思える、不思議な声。

 姿は僕の知る小さな子猫のままだ。それなのに後ろ姿には〈深淵〉たちにも勝る威厳が漂っていた。

 でも、僕にはそんなことどうでもいい。猫が行ってしまうんだ。


 キンモクセイを前に〈深淵〉たちの動きが明らかに変わった。

 攻撃がやんだばかりではない。

 彼らの視線の全てが猫へそそがれている。

 十体の〈深淵〉の畏れと警戒を一身に受けながら、僕の猫は音もなく進んでいく。遠ざかっていく。


 僕には何が起こっているのか理解できない。

 なぜ攻撃が止んだのか。

 なぜ僕の猫が人質のように去って行くのか。

 その時、十体の獣が動いた。

 正確には、深奥の一体のわずかな所作に反応して、残り九体が従った。

 九体の獣が構えをとると、空中に光が収束した。

 攻撃ではなかった。

 光は檻となって猫を囲んだ。それも蕾のように十重二十重に閉じこめていく。


 キンモクセイは神妙にしている。怯えた様子も、苦しむ素振りもなかった。

 檻は水を流れるようにして、深奥の獣の方へ飛んで行く。

 九体の獣はもう僕らを見ていなかった。

 猫を閉じこめるために全神経を注いでいるらしい。

「……あの猫が目的だった……のか?」

 まんのう町の呟きが聞こえた。


 後になって分かったことだが、まんのう町の想像は正しかった。〈深淵の獣〉は僕の猫を手に入れるため、十体もの勢力を組んで現れたのだ。

 キンモクセイの方でも、それに気づいた。

 だから、僕らを守るため投降したのだ。

 引き換えに、僕らを助ける。そういう無言の取引が〈深淵〉とのあいだに交わされたのだろう。


 もちろん、この時の僕には、そんなこと想像もつかない。

 この時、僕を支配していたのは無力感と怒りだった。

「僕から、猫を、奪った」

 無意識のうちに、僕は宝石刀を取り出していた。まるで刀に呼ばれたかのようだった。


「お前……バロックだと」

 まんのう町が短刀に気づいた。

 バロック。

 彼が、ウルタールが猫とともに僕へ託したもの。

 完全なる獣を殺せる唯一のもの。

 遠ざかっていく猫を見つめ、僕は宝石刀を握りしめた。

「……止めておけ」まんのう町の声だ。「それはお前のバロックじゃない……扱う事すら不可能だ。今は手を出すべきじゃない……」

 もう一つ声がある。ロッカさんだ。

「バロックは……真実を曲げる意志の力……」

 彼女の声はまんのう町とは反対だった。

 まるで僕を励ますような。あるいはそそのかすような。

「君の猫が行ってしまうね。こんな現実を君は許せる? 君にとっての正しい世界は? その世界を〈バロック〉に籠めるんだよ。そして壊すの。ここにある許せない真実を。それが歪んだバロック

「真実を、壊す……」


 キンモクセイが去って行く。そんな真実。

 今、僕の胸の中に猫がいない。そんな真実。

 どうしてキンモクセイがここにいないんだ? 僕の孤独は猫の形をしているはずなのに?

 なのに、僕の手の中にあの温もりがない。

 壊すんだよ。ロッカさんがもう一度言った。「こんなふざけた真実」

 僕の手の中で短刀を鳴いている。

 ウルタールでは猫に手を出すな。「彼」の言葉を聞いた気がした。

 これは僕のバロックだ。唐突に僕はそう確信する。

「そう……バロックに……意志を籠めるんだよ」

 倒れ伏したままロッカさんが続ける。

「……あなたの中の、絶対にゆずれない――」

「何でここに猫がいないんだ?」

 僕はガクガク怯えつつもぶち切れていたので、ロッカさんの言葉を遮ってしまう。

 そのことを申し訳なく感じつつ、やっぱりガクガク震えつつ、けっきょくどうすれば良いんだよ? とも同時に思考しながら、そして、どうしようもなく怒っていた。

 どうしてここに僕の猫がいないんだ?

 だから僕が、短刀に――バロックにこめた意志は一つだった。

「猫を返せ、ウルタールの猫だぞ」

 そうして僕は刃を――バロックを振り下ろしたのだった。


 宝石刀に、月光のような濡れた光が灯った。

 反面、放たれた〈力〉は黒かった。

 艶やかな漆黒の奔流。キンモクセイの毛並みそっくりだ。

 〈深淵〉たちが気づいた。

 すでに、僕の放った黒い力が彼らに迫っている。

 それは黒猫の滑らかさで、同時に無数の牙をふくんでいる。

 〈力〉は刃を呑んだ洪水のように、空気を削りながら駆けた。

 九体の獣が武器を振るった。

 黒猫の奔流を迎撃しようとする。

 その鉾が、錫杖が、水の剣が、爪が、その他すべての武器が砕け散った。

 黒猫の奔流は、九体の防御を貫き、眼前を駆け抜け、深奥の獣にまで迫った。

 だが、さすがにそこまでだった。

 減衰した黒猫の奔流は、消え去る前、残るわずかな飛沫で、黒い領巾を斬り裂いた。

 覆いを斬ることはできたものの、深奥の獣には傷ひとつ、顔を見さだめることすらできなかった。


 深奥の獣は身じろぎしなかった。

 その代わり、九体の獣が、明らかな動揺を見せた。

 深奥の獣を案じながら、それと同等以上に畏れてもいる気配だった。

 深奥の獣が指先で指示の身ぶりをする。

 攻撃が来る。

 そう思ったが、僕の方は今の一撃ですべての力を使い果たしていた。

 気づくと膝をついている。

 次の一手がうてない。

 猫が一声鳴いた。僕の知っているキンモクセイの声だった。

 その声のおかげだろうか。あるいはそもそも僕に興味がなかったのか。〈深淵〉からの反撃はなかった。

 どちらにしろ、僕らは脅威とすら見なされなかったのだ。

 十体の獣たちは、空へゆっくり浮かんでいき、そのまま空の裂け目の向こうに消えた。

 僕の猫を連れて。

「……十体もの深淵を撃退したというのか? こいつが」

 たぶん、まんのう町がそう呟いた。

 僕の方は意識を失うところだった。


 ◎


 目を覚ますと、駐車場の陰に寝かされていた。空は夕暮れの色だった。

 元の世界へ戻っている。

 飛び起きて猫を探そうとする。

 遅れて、自分に起こったことを思い出す。僕は間に合わなかったのだ。猫は行ってしまった。

「大丈夫? 大活躍だったね」

 隣にロッカさんがいた。冷たいコンクリートへ座って、僕に膝枕をしてくれていた。

 でも、僕は何を言えばいいのか分からない。

 だって、僕の猫が行ってしまったのだ。


 ロッカさんは優しく頬笑んで続けた。

「今から言うことは慰めじゃないよ。理論的に言うんだけど、私は猫さんは無事だと思う。深淵の獣の目的は、明らかにあの猫さんだった。それに猫さんを殺すのが目的なら、あの場でやっていた。君を人質にすればできたはず。でもそうしなかった」

 僕は黙って聞いた。

「つまり獣たちは猫さん何もしない。たぶんできないんだ」

「……何て言っていいか分かりません」

 僕はついに声に出してそう言った。でもこれは正確じゃない。

 話の内容は理解していた。もっともな気がする。でも不安だった。僕はもっと、強く保証してほしかったのだ。「大丈夫だよ」と。つまり甘えたかったということ。

 優しい人は願いを叶えてくれた。

 ロッカさんは立ち上がると、両肩に手を添え、以外に強い力で僕をしゃがませた。

 それから、くるりと回りこんで、後ろから僕の背を抱いてくれた。雪の日に、母親が子供を暖めるようなやりかたった。僕にそんなことをしてくれる親はいなかったけれど。


「猫さんは安全。これは絶対です」

「……はい」

 そこまでしてもらって、僕にもようやく、現状を見渡すだけの余裕が生まれた。

 目の前に校舎がある。

 僕の通っていた高校。もう何年も離れていたように感じる。

 説明によると、これが霧のせいで一度、分解され、あの聖堂と獣を生んだということになる。そして玉葱冠が死んだから、元に戻った。


 三人の女の子たちの声が聞こえる。

 命に別状はなかったようだ。それどころか、想像以上に逞しい精神をしているらしく、あんなに絶望的な戦いの後だというのに、今はどこかへ報告の電話を入れたり、端末にデータを入力しながら、その合間におしゃべりなんかして笑い合っている。

 三人は、目覚めた僕に気づくと口々に礼を言って来た。

「平気か?」

「助けてくれてありがとう」

「猫は……必ず教会がみつけるからね」

 礼や慰めを述べながら、僕の服をめくって傷を確かめた。臭いを嗅いで消毒スプレーを吹きつけてきたりする。ちょっとデリカシーに欠ける集団だな、と警戒したが、手当てしてくれているので僕は黙っていた。

 でも、この三人が来たことで、ロッカさんはハグをやめてしまった。それが残念だった。


 もう一人のバロック使い。まんのう町はやや離れた所に立っていた。

 怪我の治療はすでに終わっているようだった。こいつも平気な顔をしている。

 彼は眉間に皺をよせたまま僕を見、

「お前、名は?」

 と訊いてきた。

 僕は、まあ名乗っても良いかなという気になる。色々助けてくれたし。

 それで本名を名乗ろうとしかけたのだが、ロッカさんによると、そういう話じゃないらしい。

「私たちはチームの間でコードネームを使うんだよ。それは自分の失った場所からとるの。霧に飲まれて消えた自分の居場所から」

 僕は〈クレメントプラザのロッカさん〉を見返し、三人の女の子〈パワーシティ〉〈一番霊場〉〈ラーメン三八〉を見、最後に〈まんのう町〉へ視線を戻した。変な名前はコードネームだったのだ。それが彼らの失った場所の名前なのだろうか? それにしても。

「あなたはどうする?」

「僕にコードネームを名乗れと? それってつまり――」

 ロッカさんはこっくり頷いた。この人は聖母のように優しいのに、ときどき子供みたいな動作をするんだな。


「ルスキニア教会には、被害者の救助の他にもう一つ役目があるんだ。それは、〈虚無の霧〉に奪われた土地の奪還」

「奪還」

「今日の私たちみたいな仕事のこと。どうかな? 私たちと一緒にいれば、あの〈深淵〉の居場所も掴めるかもしれないね」

 そう言って、ロッカさんはまんのう町と同じ質問を繰り返す。

「キミの名は? 大切な場所の名前を教えてくれる?」

「あなた達といれば猫をとり戻せる?」

「ええ。これは絶対です」

 ロッカさんはまた、こっくり頷いた。

 僕は彼女の瞳をみつめた。そしてこう名乗ったのだ。

「ウルタール」

 ――と。


 僕の名はウルタール。

 ウルタールとは土地の名前である。

 またウルタールとは猫の住処である。

 だから、これは猫のための物語である。

 僕は僕の猫を取り戻したい。

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