7 インザ・ウルタール
◎
「――過日花尾得、犀訶」
人間のように頭を下げ、僕の猫が去っていく。
別れの言葉は、地球上の生物では発声不可能に思える、不思議な声。
姿は僕の知る小さな子猫のままだ。それなのに後ろ姿には〈深淵〉たちにも勝る威厳が漂っていた。
でも、僕にはそんなことどうでもいい。猫が行ってしまうんだ。
キンモクセイを前に〈深淵〉たちの動きが明らかに変わった。
攻撃がやんだばかりではない。
彼らの視線の全てが猫へそそがれている。
十体の〈深淵〉の畏れと警戒を一身に受けながら、僕の猫は音もなく進んでいく。遠ざかっていく。
僕には何が起こっているのか理解できない。
なぜ攻撃が止んだのか。
なぜ僕の猫が人質のように去って行くのか。
その時、十体の獣が動いた。
正確には、深奥の一体のわずかな所作に反応して、残り九体が従った。
九体の獣が構えをとると、空中に光が収束した。
攻撃ではなかった。
光は檻となって猫を囲んだ。それも蕾のように十重二十重に閉じこめていく。
キンモクセイは神妙にしている。怯えた様子も、苦しむ素振りもなかった。
檻は水を流れるようにして、深奥の獣の方へ飛んで行く。
九体の獣はもう僕らを見ていなかった。
猫を閉じこめるために全神経を注いでいるらしい。
「……あの猫が目的だった……のか?」
まんのう町の呟きが聞こえた。
後になって分かったことだが、まんのう町の想像は正しかった。〈深淵の獣〉は僕の猫を手に入れるため、十体もの勢力を組んで現れたのだ。
キンモクセイの方でも、それに気づいた。
だから、僕らを守るため投降したのだ。
引き換えに、僕らを助ける。そういう無言の取引が〈深淵〉とのあいだに交わされたのだろう。
もちろん、この時の僕には、そんなこと想像もつかない。
この時、僕を支配していたのは無力感と怒りだった。
「僕から、猫を、奪った」
無意識のうちに、僕は宝石刀を取り出していた。まるで刀に呼ばれたかのようだった。
「お前……バロックだと」
まんのう町が短刀に気づいた。
バロック。
彼が、ウルタールが猫とともに僕へ託したもの。
完全なる獣を殺せる唯一のもの。
遠ざかっていく猫を見つめ、僕は宝石刀を握りしめた。
「……止めておけ」まんのう町の声だ。「それはお前のバロックじゃない……扱う事すら不可能だ。今は手を出すべきじゃない……」
もう一つ声がある。ロッカさんだ。
「バロックは……真実を曲げる意志の力……」
彼女の声はまんのう町とは反対だった。
まるで僕を励ますような。あるいはそそのかすような。
「君の猫が行ってしまうね。こんな現実を君は許せる? 君にとっての正しい世界は? その世界を〈バロック〉に籠めるんだよ。そして壊すの。ここにある許せない真実を。それが歪んだ力」
「真実を、壊す……」
キンモクセイが去って行く。そんな真実。
今、僕の胸の中に猫がいない。そんな真実。
どうしてキンモクセイがここにいないんだ? 僕の孤独は猫の形をしているはずなのに?
なのに、僕の手の中にあの温もりがない。
壊すんだよ。ロッカさんがもう一度言った。「こんなふざけた真実」
僕の手の中で短刀を鳴いている。
ウルタールでは猫に手を出すな。「彼」の言葉を聞いた気がした。
これは僕のバロックだ。唐突に僕はそう確信する。
「そう……バロックに……意志を籠めるんだよ」
倒れ伏したままロッカさんが続ける。
「……あなたの中の、絶対にゆずれない――」
「何でここに猫がいないんだ?」
僕はガクガク怯えつつもぶち切れていたので、ロッカさんの言葉を遮ってしまう。
そのことを申し訳なく感じつつ、やっぱりガクガク震えつつ、けっきょくどうすれば良いんだよ? とも同時に思考しながら、そして、どうしようもなく怒っていた。
どうしてここに僕の猫がいないんだ?
だから僕が、短刀に――バロックにこめた意志は一つだった。
「猫を返せ、ウルタールの猫だぞ」
そうして僕は刃を――バロックを振り下ろしたのだった。
宝石刀に、月光のような濡れた光が灯った。
反面、放たれた〈力〉は黒かった。
艶やかな漆黒の奔流。キンモクセイの毛並みそっくりだ。
〈深淵〉たちが気づいた。
すでに、僕の放った黒い力が彼らに迫っている。
それは黒猫の滑らかさで、同時に無数の牙をふくんでいる。
〈力〉は刃を呑んだ洪水のように、空気を削りながら駆けた。
九体の獣が武器を振るった。
黒猫の奔流を迎撃しようとする。
その鉾が、錫杖が、水の剣が、爪が、その他すべての武器が砕け散った。
黒猫の奔流は、九体の防御を貫き、眼前を駆け抜け、深奥の獣にまで迫った。
だが、さすがにそこまでだった。
減衰した黒猫の奔流は、消え去る前、残るわずかな飛沫で、黒い領巾を斬り裂いた。
覆いを斬ることはできたものの、深奥の獣には傷ひとつ、顔を見さだめることすらできなかった。
深奥の獣は身じろぎしなかった。
その代わり、九体の獣が、明らかな動揺を見せた。
深奥の獣を案じながら、それと同等以上に畏れてもいる気配だった。
深奥の獣が指先で指示の身ぶりをする。
攻撃が来る。
そう思ったが、僕の方は今の一撃ですべての力を使い果たしていた。
気づくと膝をついている。
次の一手がうてない。
猫が一声鳴いた。僕の知っているキンモクセイの声だった。
その声のおかげだろうか。あるいはそもそも僕に興味がなかったのか。〈深淵〉からの反撃はなかった。
どちらにしろ、僕らは脅威とすら見なされなかったのだ。
十体の獣たちは、空へゆっくり浮かんでいき、そのまま空の裂け目の向こうに消えた。
僕の猫を連れて。
「……十体もの深淵を撃退したというのか? こいつが」
たぶん、まんのう町がそう呟いた。
僕の方は意識を失うところだった。
◎
目を覚ますと、駐車場の陰に寝かされていた。空は夕暮れの色だった。
元の世界へ戻っている。
飛び起きて猫を探そうとする。
遅れて、自分に起こったことを思い出す。僕は間に合わなかったのだ。猫は行ってしまった。
「大丈夫? 大活躍だったね」
隣にロッカさんがいた。冷たいコンクリートへ座って、僕に膝枕をしてくれていた。
でも、僕は何を言えばいいのか分からない。
だって、僕の猫が行ってしまったのだ。
ロッカさんは優しく頬笑んで続けた。
「今から言うことは慰めじゃないよ。理論的に言うんだけど、私は猫さんは無事だと思う。深淵の獣の目的は、明らかにあの猫さんだった。それに猫さんを殺すのが目的なら、あの場でやっていた。君を人質にすればできたはず。でもそうしなかった」
僕は黙って聞いた。
「つまり獣たちは猫さん何もしない。たぶんできないんだ」
「……何て言っていいか分かりません」
僕はついに声に出してそう言った。でもこれは正確じゃない。
話の内容は理解していた。もっともな気がする。でも不安だった。僕はもっと、強く保証してほしかったのだ。「大丈夫だよ」と。つまり甘えたかったということ。
優しい人は願いを叶えてくれた。
ロッカさんは立ち上がると、両肩に手を添え、以外に強い力で僕をしゃがませた。
それから、くるりと回りこんで、後ろから僕の背を抱いてくれた。雪の日に、母親が子供を暖めるようなやりかたった。僕にそんなことをしてくれる親はいなかったけれど。
「猫さんは安全。これは絶対です」
「……はい」
そこまでしてもらって、僕にもようやく、現状を見渡すだけの余裕が生まれた。
目の前に校舎がある。
僕の通っていた高校。もう何年も離れていたように感じる。
説明によると、これが霧のせいで一度、分解され、あの聖堂と獣を生んだということになる。そして玉葱冠が死んだから、元に戻った。
三人の女の子たちの声が聞こえる。
命に別状はなかったようだ。それどころか、想像以上に逞しい精神をしているらしく、あんなに絶望的な戦いの後だというのに、今はどこかへ報告の電話を入れたり、端末にデータを入力しながら、その合間におしゃべりなんかして笑い合っている。
三人は、目覚めた僕に気づくと口々に礼を言って来た。
「平気か?」
「助けてくれてありがとう」
「猫は……必ず教会がみつけるからね」
礼や慰めを述べながら、僕の服をめくって傷を確かめた。臭いを嗅いで消毒スプレーを吹きつけてきたりする。ちょっとデリカシーに欠ける集団だな、と警戒したが、手当てしてくれているので僕は黙っていた。
でも、この三人が来たことで、ロッカさんはハグをやめてしまった。それが残念だった。
もう一人のバロック使い。まんのう町はやや離れた所に立っていた。
怪我の治療はすでに終わっているようだった。こいつも平気な顔をしている。
彼は眉間に皺をよせたまま僕を見、
「お前、名は?」
と訊いてきた。
僕は、まあ名乗っても良いかなという気になる。色々助けてくれたし。
それで本名を名乗ろうとしかけたのだが、ロッカさんによると、そういう話じゃないらしい。
「私たちはチームの間でコードネームを使うんだよ。それは自分の失った場所からとるの。霧に飲まれて消えた自分の居場所から」
僕は〈クレメントプラザのロッカさん〉を見返し、三人の女の子〈パワーシティ〉〈一番霊場〉〈ラーメン三八〉を見、最後に〈まんのう町〉へ視線を戻した。変な名前はコードネームだったのだ。それが彼らの失った場所の名前なのだろうか? それにしても。
「あなたはどうする?」
「僕にコードネームを名乗れと? それってつまり――」
ロッカさんはこっくり頷いた。この人は聖母のように優しいのに、ときどき子供みたいな動作をするんだな。
「ルスキニア教会には、被害者の救助の他にもう一つ役目があるんだ。それは、〈虚無の霧〉に奪われた土地の奪還」
「奪還」
「今日の私たちみたいな仕事のこと。どうかな? 私たちと一緒にいれば、あの〈深淵〉の居場所も掴めるかもしれないね」
そう言って、ロッカさんはまんのう町と同じ質問を繰り返す。
「キミの名は? 大切な場所の名前を教えてくれる?」
「あなた達といれば猫をとり戻せる?」
「ええ。これは絶対です」
ロッカさんはまた、こっくり頷いた。
僕は彼女の瞳をみつめた。そしてこう名乗ったのだ。
「ウルタール」
――と。
僕の名はウルタール。
ウルタールとは土地の名前である。
またウルタールとは猫の住処である。
だから、これは猫のための物語である。
僕は僕の猫を取り戻したい。




