6 深淵
◎
白い空が破られた。
遙か上空から、とてつもない質量を持ったものが、いくつも降ってくる。
「他の獣の聖堂へ入ってくるなんて……」
「そんなことできるのは上位の獣だけのはずだろ」
「数は!? 何体?」
女の子達が慌てだす。
「動け! 逃げる暇はない」
まんのう町の叱咤が飛んだ。三人は慌てて、何かの準備を始めた。
香を含んだ灰を撒く。鈴を鳴らす。灰は磁力に引かれるみたいに動いて、幾何学模様を描いた。
「君たちはその結界の中から出ないで」
僕とキンモクセイは、幾何学模様の内側へ押しこまれる。
まんのう町が空を睨んだまま叫ぶ。
「気を引き締めていけよ。他の獣の聖堂へ侵入できるヤツらだ。〈深淵〉レベルの獣で間違いない」
「嘘だ、そんなこと考えられない」
「こんなのが来るなんて聞いてねーよ!」
「私たちで対処できるの?」
再び三人の女の子たちの悲鳴。
それが轟音に掻き消される。
獣たちが着地した音――いや衝撃そのものだ。
立て続けに聖堂が潰れる。石像や金の細工、ガラスが飛散する。
煉瓦大の破片が僕らの直前で弾かれていく。灰の陣が、守ってくれているらしい。
しかし、こんな力を持つ少女達が完全に怯えている。まんのう町のいう〈深淵〉はそれほどのものなのだろうか?
「そんなわけない、そんなわけない、深淵の獣がこんなところに来るはずがないんだから……」
「歌を途切れさせないで」
ロッカさんが指示を飛ばす。三人は震える声で賛美歌を再開する
「まんのう町くん、本当に深淵だと思う?」
玉葱冠を圧倒した男の声にも緊迫が満ちていた。
彼は前衛に立って、遠くの土埃に目を凝らしている。
「他に考えられない。仮にただの獣だったとしてもあの数は――」
僕の腕の中では猫が唸っている。
塵煙が晴れていく。僕らは〈深淵の獣〉たちの姿を直視した。
それは玉葱冠よりさらに大きく、荘厳な〈獣〉だった。
二列にならんで、半身を僕らの方へ向けていた。回廊に祀られた神像のようだ。
鋭い爪を持つもの。
翼あるもの。
帚星のような尾をもつもの。
像のような長い鼻のあるもの。
たてがみをもつもの。
水を纏うもの。
鱗あるもの。
複数の尾を持つもの。
四臂の腕をもつもの。
衣のように長い毛並みを持つもの。
――十体。
十体もの巨大な〈獣〉。それも聞きかじった言葉でいうと〈深淵の獣〉。一体一体があきらかに玉葱冠より強大だった。
深淵は、いずれも煌びやかな装具を纏い、武器とも飾りともつかないものを構えている。
人よりは獣に似ており、獣よりは神に似ていた。
やや奇妙なことが一つ。
どの獣も顔を隠している。隠し物は、面であったり、冑であったり、薄物を重ねた領巾であったりした。そこに、僕はなんとなく人間味を嗅ぎとった。玉葱冠からは着飾ってはいても、そういう意図みたいなのは感じられなかった。
玉葱冠を見た後でなければ、彼らを敵だとは思わなかったろう。信心深いものなら膝をついて祈りだしたに違いない。
美しく、神秘的で、あまりに巨大だった。
だがバロック使いにとっては、明らかな恐怖の対象だった。
少女の一人が耐えかね、独断で行動した。
「撤退しかない。今、帰還の門を――」
例の灰を振り撒く。小さな宝石を取り出し噛み砕いた。新たに描かれた灰の紋様へ、噛み潰した欠片を吹きつける。灰の上に、立体映像のように半透明の扉が現れ始める。
たぶん撤退用の何かだったのだろう。
だが実現しなかった。
〈深淵〉の一体が動いた。
四枚の翼を持つ獣だった。それが黄金の錫杖を振った。
鈴のような澄んだ音とともに、空中に水晶の柱が現れた。水晶柱は鋭く飛んで、実体化しかけていた扉を破壊した。
「嫌だ、どうして!? 嫌だあ!」
「畜生!」
さらにいくつもの柱が周囲に突き刺さる。
「ごめんなさい……撤退が不可能になりました……それにどうやら結界も……」
三人の中、一番大きな女の子が絶望的な顔で報告した。門を出そうとした本人は地面に突っ伏している。
「なんで、なんでこんなことに」
僕らはどうやら、命綱のようなものを絶たれたらしい。
〈深淵〉の目的は、僕には想像もつかない。
玉葱冠の仇を討ちに来たのだろうか?
でも〈バロック使い〉たちの反応を見るとそうではないらしい。本来なら有り得ない現象が起きているのだ。
〈深淵〉たちからは、玉葱冠の動物的な感じとは違う、断固とした意志みたいなものが感じられる。
〈深淵〉の列には、最奥に一体が聳えていて、そいつが彼らの支配格に見えた。
顔を黒い領巾で隠し、体のほとんどが芳香を放つ衣と装具で隠れている。
その覆いの向こうから、獣の視線を感じた。僕を見ている? 気のせいだろうか。
ともかく、領巾のやつがリーダー格だった。
そいつがわずかな身ぶりを起こした。多分、合図だった。
「――来るぞ! 全員対応しろ!」まんのう町の絶叫に近い声。「歌え! お前の歌ならなんとかやれるかもしれない。俺が引きつける」
ロッカさんへ言い残すと、まんのう町は獣たちへ突っこんで行った。
錫杖の鈴音が響いた。
水晶柱の群れが飛来した。
腕輪の輝きを残して、まんのう町は雨を避ける燕みたいに駆け巡った。
光の走ったあとには、水晶柱の破片が舞った。後衛のロッカさん達のために叩き落としているのだ。
ものすごい力だが、彼が捌いているのは、十体の獣うち一体だけの攻撃に過ぎない。
九体の〈深淵〉たちは様子見のまま、背後に控えている。
またいくつも鋭い音が響いた。
ジャンプしたまんのう町が、蹴りで水晶柱を砕いた。
その時、もう獣がもう一体動いた。
黄金の武具を纏った四臂の獣だった。
動いた、と見えた時には、すでに矢が放たれていた。矢尻は巨大船の錨ほどもある。
空中のまんのう町に命中した。
まんのう町の体が寸断される――のを僕は想像したが、そうはならなかった。
防御したのもあるだろうが、たぶんバロックの力だ。灰模様の結界と同種の防御力を彼は持っているらしい。
それでも、彼は地面へ撃ち落とされた挙げ句、血を吐いた。
「まんのう町!」
女の子たちが悲鳴を上げる。
「歌を」
ロッカさんだけが冷静に指示した。
女の子たちは嗚咽をのみこんで歌を再開する。
まんのう町は立ち上がろうとしている。
そうしながら、彼もまた何か口ずさんでいるる様子だったが、僕の所からでは聞きわけられなかった。お祈りか何かなのかもしれないなと、この時の僕は思った。大きな間違いだったのだが。
「あああッ」
彼は血の混じった雄叫びと共に、ついに立ち上がった。
そして、高く拳を振りかぶった。腕輪がいっそう輝きだす。
そのまま彼は敵へ真っ直ぐ接近した。
先ほどの〈深淵〉が、再び矢をつがえる。
とどめの矢が、金色に走った。
まんのう町は避けなかった。
僕には初め、彼が力尽きて倒れたように見えた。
だが、そうではなかった。彼は拳を地面へ打ちこんだのだ。
金色の輝きが地面へ吸いこまれた。
直後、地面から噴出した。まるで地下に太陽が発生したみたいだ。
地面を割って、幾つもの光の槍が放射される。
それらが飛来した矢を打ち砕いた。
それどころか、光は地面を奔って〈深淵〉たちの足元から一気に迸った。
厳粛に構えていた獣たちに、初めて動揺が走った。僕にはそう見えた。
〈深淵〉たちは空中へ逃れようとした。
「今だ、歌え!」
まんのう町の絶叫。
同時に、ロッカさんの歌が完了していた。
玉葱冠のときより、さらに巨大なオーロラの輪が、上空に浮かんでいた。その輝きが、押さえつけるように〈深淵〉を迎え討った。
光の輪は天から地へ。光の刃は地から天へ。
二つの力が十体の〈深淵〉をはさみこんだ。
周囲から色と音が消え失せる。
光が収まるまでの数秒、僕らは祈るような気持ちで見守った。
まんのう町が前に出すぎた戦闘ラインを復帰してくる。すなわち僕らの所へ戻ってくる。
力を使い果たした様子で、ふらふらしていた。
「――やった、やったの?」
女の子の一人が呟く。
「ぺしゃんこに決まってんだろ、だよなあ?」
小さな女の子も元気を取り戻して歓声を上げる。
「さあな。これでダメならどうにもならない」
力の衝突があった空域は、まだ光が渦巻いていて、沸き立つ雲海のようだ。
やがて光が収まりだした。
最初に状況を理解したのはロッカさんだった。彼女は短く指示した。
「みんな散会。このままなんとか逃げて」
彼女はもう一度祈りの所作をとった。
だが遅かった。
雲海のなかから、矢が飛来した。
オーロラが相殺される。
「ぎゃんっ」
という動物のような悲鳴があがる。僕かもしれない死女の子の誰かかもしれなかった。
矢は破壊したものの、オーロラの余波で、全員が吹き飛ばされたのだ。
「そんな――」
這いつくばった僕らが見たのは、神々しく空に浮かぶ、十体の獣たちの姿だった。
一体も欠けていない。それどころか傷を負ってもいない。
装具がわずかに壊れて破片がきらきらと舞っているだけである。
「全員はやく――」
まんのう町が何か言おうとする。
錫杖の鈴音が響いた。
「嫌――ッ」
悲鳴が上がる。
女の子の一人が、水晶の塊にのみこまれていた。
地面から生えた水晶が、氷の成長を早送りしたような動きで、女生徒を取り込んでいく。
今にも頭部まで飲みこまれそうになっている。そうなれば呼吸が出来なくなるだろう。
「嫌だ、いやだあ!」
「どけ! 俺が――」
まんのう町が砕こうとする。
しかし水晶はその彼まで取りこみ始めた。
「まんのう町――」
「さわるな、俺はもう駄目だ」
「くそ、くそぉおおお!」
さらに助けに入った別の女の子も同様だった。
まんのう町、二人の女の子と戦力の半分以上が一気に失われた。
残るはロッカさんと背の高い女の子だけだ。
「まんのう町たちはどうにもならない。私がもう一度やる。サポートして」
ロッカさんは冷静さを保っていた。二人は歌いだすが僕には絶望的な抵抗に見えた。〈深淵〉は十体欠けることなく、神々のように聳え立っている。
「君と猫さんは逃げて」
そう言うロッカさんへ、黄金の矢が放たれる。
一瞬だけオーロラを展開させて、彼女は矢を防御する。
しかし、それは攻撃のために溜めた力のはずだった。それを消費してしまっている。
続けて矢が射かけられる。彼女は防御に回るしかない。
だが、その防御ですら完全ではなく、遮断できなかった衝撃波が彼女たちをじわじわ傷つけていた。
やがてサポートの女の子が倒れ、ロッカさんの力も尽きた。
「ごめんね」
という言葉を最後に、彼女は膝をついた。
まんのう町が藻掻いて水晶を殴りつける音も、さっきから途絶えていた。
彼は右腕と頭部を残して水晶柱に取りこまれてしまっていた。
僕はまだ無事だ。でも動けなかった。
逃げるにも、どこへ走ればいいのか分からなかった。どうやったら元の世界へ戻れる? そもそも逃げ切れないだろう。
四臂の獣が矢をつがえる。
あの矢が放たれた時が最後だ。
この時、実は〈深淵〉たちは注意深く、こちらを観察、というより警戒していたのだが、そんなことに気づく余裕が、僕にはなかった。
矢が放たれる、という寸前だった。
腕の中からキンモクセイが飛びおりた。
驚いたことに〈深淵〉が怯えたかのように、弓の動作を中断した。
キンモクセイ――僕の猫は、人間を守るように、獣と対峙している。
そして、一度だけ僕を振り返ると、頭を下げた――ように見えた。
「――過日花尾得、犀訶」
確かに猫の口から、その言葉が流れ出た。
人間には発声不能の、鳴き声とも言語ともつかない美しい声だ。
僕の知らない声。
僕の知らない姿の猫がそこにいた。




