6 ウルタール
◎
僕の意識は霧に溶けて学園中へ拡散している。
学長やまんのう町たちの様子と同時に、校内の別の所の様子も知覚できた。
〈第二中庭〉には獣が現れていた。
学園の一部を繰って生まれた〈聖堂街の獣〉だ。
が、そちらは決着がつきそうだ。
生徒達がすでに獣の動きを封じている。この獣が倒れれば、霧も消える。
その時、僕もまた消え去るのだろう。
一方、校門前では最後の裏切り者、狩谷が三年たちに取り囲まれている。彼も蒼獣の状態で、それが三年たちを戸惑わせていた。バロック使いは〈獣〉との戦いに慣れすぎていた。だが数の力で制圧しつつあった。
さらに、場所を目まぐるしく変えつつ、学長と〈蒼獣〉胴花が戦い続けている。
学長が常に一手先を行き、胴花の体力が徐々に削られている格好だった。胴花は逃げない。ボロボロになってもルーシーの名を叫びながら挑み続ける。その姿はまさに狂信者だった。
「諦めなよ、と言っても無理だろうな」
「……あなた達がバロックを棄てられないようにね……!」
「夢か」
「我々は、バロック使いは夢を見てはいけないのか?」
「ルーシーに夢を託しすぎだぜ。おい、あいつァな――」
「ルーシーを語るな。失った土地にしか興味のないあなたが!」
「ルーシーは他人に夢を託したりしねえよ」
「くどい。あんたなどには――ッ」
学長が戦いをやめていた。
だが胴花が驚きの声を上げたのは、それだけが理由ではない。
学長は、自身の裸の胸へ指を差しこんでいる。縫い付けられた、あの目蓋のようなあの傷を、押し広げている。血は一滴も流れなかった。
縫い糸が引き千切られる。胸骨ごとばくんと開いた。
胸の篭のなかに「二つ」の心臓があった。
正確には二つの心臓が融合している。
「なぜ――どうしてあんたが――」
「ルーシーは誰にも何も求めちゃいねえよ。〈聖体ルーシーの心臓〉を持つ俺がいうんだから間違いねえよ。ここに夢なんてねえんだ」
胴花は絶句している。
「みんなにァ内緒だぜ。お前に信じてほしいから見せたんだ」
この最後の説得は、しかし失敗に終わった。
「――返せッ‼」
胴花は我を忘れ突進してきた。
「ああ。悲しいな」
学長は宝石銃を構える。
この時、離れた物陰から状況を伺う影があった。戦う二人はまだ気づいていない。
◎
一方。まんのう町は、倒れた静磨=ゲープハルトへ近づこうとする所だった。
「〈ルーシーの欠片〉を……回収しないとな……それにウルタール……あいつも三年からはぐれているはずだ。何とかしないとな」
そこで彼はフラついた。柱へとりすがって更に呻いた。戦いの傷に加え、強力な力を使った反動に襲われているようだ。
「だいじょうぶ……?」
モリアキが支えた。
「ああ、もう決着はついた――いや……下がっていろ」
「え……?」
モリアキはシズマを見た。彼は倒れたままだ。
まんのう町が見ているのは別の方向だった。
前方、薄くなり始めた霧の中から異形の影が近づいてくる。
更に距離がつまると、装具と白い翼を纏った男の姿になる。
〈蒼獣〉御輿がそこにいた。
自身の表れか、嘲りか、白々しいほど穏やかな声で語りかけてくる。
「まんのう町くんか。ジウスであれば手間が省けたのだが」
「セトがんば――」
「逃げろ、モリアキ」
まんのう町は子供の背を押して遠くへはなった。もう彼に戦う力は残っていないのだ。
御輿は状況を見渡す。
「ゲープハルトを一人で倒すとはな。だが君も限界のようだ」
「……モリアキ、走れ」
「でも……おれ……」
子供は金縛りにあったかのように動けない。
御輿からはシズマの荒々しさとは別種の威光に似た圧力が伝わってくる。
「子供はどうでもいいが、君の態度は不遜だな。なぜ逃げない? 全力をかけた一撃。一瞬のチャンスがあれば私を倒せる。その打算が透けて見えるぞ。誰か仲間が来てくれることを期待しているな? 相棒か? だがそのわずかな希望も霧の中に消えたというのに」
そう言って御輿は琥珀色の欠片を放った。
僕のバロックだ。
まんのう町はその意味を理解した。
「ウルタール……」
虚空へ向かって彼は叫んだ。
「……何をやってる! お前はそれでいいのか! 猫を残して行く気か、お前は猫の故郷なんだろうが!」
猫は護れなかったよ。ロッカさんのことも。
すまない、という僕の精神の声はもちろんまんのう町に届かない。
きっと、僕はもうここにはいない。ただ「消え終わってない」だけなんだ。いずれ完全に……。
そういう風に思考したとき、まさに霧が晴れ始めた。
獣が倒されたのだ。
まもなく霧とともに僕も――
◎
やがてみんなの姿も、声も、白い霧のむこうに消えていった。
いや、そう感じている僕そのものが、この霧の中の一滴にすぎないのだろう。
もう僕の身体は存在しない。
たぶん、時間をも狂わせる霧の性質によって、意識らしきものが存在できているに過ぎない。
もう生きてはおらず、しかし死に終えていない二重状態。
もうじき、僕は過去までさかのぼって「いなかった」ことにされる。それはこういう二重状態の過程を経るものらしい。
僕は、確かに生きていた。そして同時に過去がない子供でもある。初めから霧の中で生まれ、霧の中しか知らず、霧の中で消えていく……それが……思考が定まらなくなってきた。
ロッカさんも僕のように霧の中を揺蕩っているのだろうか?
よしふみの友達や、前の学校の人たちも、そしてあの七匹の猫たちもこんなふうに消えていったのか。
霧の中に、かすかだが子猫たちの泣き声を聞いた。
それに生まれたばかりの子猫を慈しむ親猫たちの声。
たぶん、これは夢だ。
それとも、
弾けて消える気泡のように、僕の過去が揮発しているんだ。
きっと。
「私たち、反対の人間なのかもしれないね」
ロッカさんの思い出。
僕の好きな人。助けてあげられなかった。
コインロッカーを故郷だと言った女の子。
もっと、ちゃんと話し合うべきだったな。反対の人間だというのなら、鏡のように僕を映してくれる人だったのかもしれないのに。
「何で私はあのとき手を離したんだろう」
一番霊場。今も弟の手を握って戦っているんだろう。
だとしたら教えてあげたい。霧の中で消えるとき、人は恨んだりしないと。
あるのは思い出ばかりだ。
その二人の友人、三八とパワー。
まだ〈蒼獣〉は倒されていないようだけれど、どうか無事でいてほしい。
「オーバーケーだーぞー!」
よしふみ。仇を取らせてやりたかったな。
僕はダメだったから。
「お前は猫の故郷なんだろうが」
まんのう町。
最後まで怒らせてしまった。
嫌いじゃない誰かと一緒にあんなに長く暮らしたのは初めてだったな。
子猫たちの声が近づいてくる。
こいつらの故郷になってやりたかった。
僕の孤独は猫の輪郭をしているから。
学校のみんな。
僕はもうダメだけど、みんなには願いを叶えてほしいな。
僕はもう。
消えていく声たちを掻き集めたいのに、僕はもう自分の手も、姿さえ思い出せない。
でも考えてみれば変だ。
どうして他人の言葉ばかり留めようとしているのだろう?
それは僕の欠片じゃないのに。
僕は僕の人生の最後に、僕自身を掻き集めるべきじゃないのか?
でも、僕にはどうしても、そんなものが存在するは思えないのだった。
――ああ。そうか。
きっと、僕という存在はみんなが集まってできていたのだ。
ああ、そうなんだ。
僕は生きたいんじゃない。
僕を取り戻したいのでもない。
帰りたいんだ。
みんなのいるところへ。
僕はもう、自分が何なのかさえ思い出せないけれど、みんなのことを――。
猫の声だ。
猫の声がさらに近づいてくる。
近く。
まわりを取り囲んでいる。
取り囲む?
何を?
猫たちの暖かさを感じた。
どこで?
猫に触れている、その輪郭で。
そうか。
猫がいて、猫が触れてくれるその輪郭が、僕なのか。
歪んだ僕の形。でも今では気に入ってる。
僕は猫のための聖堂だから。
僕の形。
僕の孤独。
その僕は、しかし誰だ?
「ウルタール!」
また声が響いた。
今度はとびきりデカい。
猫でできた輪郭をビリビリ震わせるような、ものすごい叫びだ。
「ウルタール、何をやってる」
ウルタール。
ウルタールは猫の故郷。
ウルタールは『彼』の名前。
でも今は僕の、僕が願う名前――。
「ウルタール!」
僕は、自分の名を思い出す。
「ウルタール! お前のバロックを掴み取れ!」
僕は手を伸ばして、それにふれる。




