3 消失事件
◎
僕は悟った。
この猫が僕の孤独。あるいは孤独を埋めるものだ。
ネガとポジ。
器と水。
故郷と猫。
僕という存在は、この温かい命を収めるための器なんだ。
そうしてぴったり重なっている間は、僕らは孤独を感じずに済む。
男はいなくなった。今や、この子猫のキンモクセイの帰る場所は、僕だけなのだ。僕はこの猫の故郷になりたい。
夜は廃墟で眠り、食べ物は「援助」でどうにかなった。
高校については、養父母は学費を払わないだろうし、いずれ退学になるだろうと思っていた。とりあえず追い出されるまではと顔は出していた。子猫は鞄に入れていた。
放課後、授業料の件で事務員さんに呼び出しをくらった。
話した結果、よく分からないが支払いを待ってくれることになった。帰ろうとした所で、今度は二人の同級生に呼び止められた。
「お前、家ないやつが学校って来ていいんか」
僕の家出は、けっこう噂になってるらしい。
グランドから聞こえる声が静かになっている。部活動の生徒達も帰り始める時刻だ。
「いや、聞いてんのかよ」
「ぼーっとしてんなぁ、家すらないのにすげえな。余裕だな」
絡んできたたのは、クラスメイトの二人だった。
彼らはニタニタ笑って、どうやら優越感たっぷりの様子を演出したいらしかった。
「お前あれだよ、ルシュキュ……教会」
「ルスキニア教会な」
一人が言い間違い、もう一人が訂正する。リハーサルでもしてきたのだろうか?
「知ってるよ。ちょっと噛んだんだよッ。お前よォ! ル……〈孤児教会〉にでも保護してもらったほうがいいじゃねぇかあ?」
何の話がしたいのか不明だ。たぶん、施設に入れと言いたいのだろう。
「教会行けよッ。なあ? タマっち」
「ルスキニア教会な」
タマっちからの二度目の訂正。
「知ってるってッ! こいつ家ねえからさあッ 俺は親切で言ってやってんの!」
「モロちんやめてやれよぉ。可哀想じゃ~ん。でもそうなったら転校しなきゃだよなあ。俺らの学校からホームレスくんがいなくなるの寂しぃ~」
「だよなあ~。でもモロちんていうの止めて?」
「いやいや。そっちが先にタマっちっていってきたし。いいじゃん、お前モロちんって感じだよ」
「はあ? 何だよ玉川お前よぉ~」
モロちんとタマっちの言い争いが始まった。
そのあいだ、僕はルスキニア教会について思い出そうとする。そもそもよく知らなかった。
確か、国際的な宗教団体と慈善団体が合併してよく分からないものになっている、という程度の話を聞いたことがある。
〈孤児教会〉は俗称だ。
とにかく孤児を受け入れることで有名らしい。
孤児ばかりを集めた学校や、企業を経営しているとかいないとか。人身売買やら臓器密輸の噂囁かれている、とお姉さんの誰かが言っていた。その人は、ストレスが溜まると子供と同じ服を着て、僕を死んだ弟役に、新聞の朗読してくれるのだった。彼女も寂しかったのだろうか?
とにかく、モロちん達がルスキニア教会を勧めてきたのも、そういう都市伝説にからめた揶揄だったわけである。売られてしまえと言いたかったのだろう。
「テメエはよお! 学校でモロちんだしたからモロちんだろうが!」
「出してッ出してッない! そういうお前は中学の修学旅行でストリップ小屋――」
口げんかは続けている。
その時、鞄のなかで子猫が鳴いた。これまで聞いたことのない警戒の唸り声だった。
猫のことを知られたら面倒だな。そう思うヒマもなかった。
いつのまにか、校舎内を、ミルクのように濃い霧が満たしていた。
霧はまたたくまに二人のクラスメイトをのみこんだ。
「ストゥウウリップはお前もぉンッ……」
「あれッワあッ――……」
声が変だった。
すぐ側にいるはずなのに、声が歪んで遠ざかり、ついに聞こえなくなってしまう。救急車とすれ違う時に似た、奇妙な音の歪み方だった。
僕もすぐ、霧に飲まれた。
霧は僕の視界をまっ白に奪った。
「……諸岡? 玉川?」
呼んでみるが返事がない。
完全な静寂だった。衣擦れも、上履きが地面を擦る音も聞こえない。
乳白色の霧の一粒一粒が、口や耳の中まで入りこんで来る。
僕は咳きこんだり耳をほじったり無駄な抵抗をする。
肺のなかが水浸しになりそうだ。まばたきすると、睫毛にたまった霧粒が涙みたいに流れた。
腕をかいても、息を吹きかけても視界は真っ白だ。
霧は周囲を完全に満たしていた。睫毛をかすめるほどの距離で振った指の気配が、かろうじて見わけられる程度だった。
こんなに濃い霧が、こんなに急速に満ちるものなのだろうか?
外はいったいどうなっているのだろう?
そんな心配をする余裕なんてないのかもしれない。明らかに異常な事態だ。
「諸岡。玉川。どこにいる? 無事か」
やはり返事はない。
彼らの居場所に当たりをつけ、手探りで歩き回る。何にもふれられなかった。
それどころかまっすぐ進んでいっても校舎の壁にたどりつかない。突き出した手が何にも触れないのだ。有り得ないことだ。
白い砂漠に投げだされたかのようだった。何か、とてつもなく悪い事が起こっている。
にゃあ。
鞄の中から子猫の声がした。手を差しこむ。暖かい舌の感触があって、僕は少し落ち着く。
「そうだ、落ち着け」
僕は考えようとする。
携帯端末は持っていない。つまり助けは呼べない。
遭難――学校内で遭難とは奇妙だが――したときのセオリーにしたがって僕は、その場で待ち続けた。
が、霧は薄くなることすらなかった。
どのくらいの時間だたったか分からない。頭の中まで空白に埋め尽くされそうな気がして。居ても立ってもいられなくなった。
身体の輪郭が薄れ、自分の姿が思い出せなくなくってくるのだ。
手で体を探ろうとして空振りすることがあった。その時のゾッとする感覚といったらなかった。
僕はあてもなく進みだした。
上靴の片方を無くしていたが、いつ無くしたのか思い出せない。
とにかく真っ直ぐ、何かに行き当たるまで歩こうと思った。
手先も見えない白い闇を、游ぐように進んだ。
霧は生温く、そのせいで自分が霧に溶けているのではないかという錯覚に襲われた。
時間の感覚はとうにおかしくなっていたが、少なくとも数時間は歩き続けたはずだ。
結局、僕の手が何かに触れることはなかった。校舎の壁にすらたどりつけなかったのだ。
絶望が、僕の意識をこまぎれにしていった。思考が断続的になり、時々、叫んでいる自分に気づく。
子猫が制服の中で動いて僕を励ました。キンモクセイ。こいつの声と、暖かさ、肌を掻く爪の感覚がなけば、僕はおかしくなっていただろう。
不思議なことはもう一つあった。
なぜかお腹は空かず、歩き続けることができたのだ。
しかし、これは絶望的な未来を予想させる。
僕は飢え死にすることもできないんじゃないか?
叫んでみても、暴れてみても、白い闇はゆるぎもしない。
もしかして、もしかして永遠なのか? 僕は永遠に彷徨い続けることになるのか?
本当に正気を失いかけた頃だった。
ようやく霧が晴れ始めた。
「太陽と、猫と」
霧が晴れたとき、僕は涙を流しながら、いつかウルタールから聞いた言葉を繰り返していた。
涙はすぐに止まった。
霧の果てに現れた景色が、僕の想像とかけ離れていたためだ。
見た事もない都市が広がっていた。
僕の知らない街。知らない建築物だった。霧の中を歩いて、いつのまにか学校を出て、都市部まで歩いて来ていた、などという訳はない。
ゴシック建築というのだろうか、それに似ていた。西洋風のそれも数百年は昔の様式に見える建物が整然と続いている。
意外な事に、僕の心は薙いでいた。
白い彷徨のおかげで心が麻痺しているのか、それともすっかり壊れてしまったのか。ともかく、それくらい霧は僕を変えてしまった。
僕の立っているところは、ちょうど丘のように高くなっている。おかげで街の様子を見渡せた。
教会風の建物。
尖塔の群。
幾何学的な通路。
どれも、正確無比な図形の繰り返しで構成されている。まるで、砂漠と同じ大きさのペルシャ絨毯を広げたみたいだった。
広い。
果てが見えなかった。
遠くの景色は霞んで真っ白い空と溶けあっている。霧だろうか?
太陽はなかった。空は白く平坦だった。これもあの霧を連想させる。
「とにかく、見てまわるしかないよな」
服の中でキンモクセイがにゃあと返事をした。
僕らは街を歩いて回った。
静かだった。
住民の気配がまったく感じられない。
無人の大通り。
石畳は、あまりに整然としていて目眩を誘うほどだった。路地裏には鼠一匹、ゴミ一つ存在しない。
街並みは、中世あたりのヨーロッパをイメージさせた。が、それにしても過剰だ。
どこもかしこも装飾だらけだった。
教会があった。何を祀っているのか不明だった。
聖人、あるいは神の像があちこちにある。でも、どれも獣の姿をしていた。
それにしても誰にも遭遇しない。
僕は建物の一つに入ってみることにした。
「キンモクセイ」
猫を服の中から下ろした。
僕も猫も霧の雫でびしょびしょだ。
キンモクセイがぶるぶる身震いして水を切る。僕も上着を脱いで搾った。腕についた雫を舐めると、ココナッツみたいな味がした。
ピカピカに光る燭台を見つけて飛びついた。
金気の表面に、自分自身が映りこんでいる。形がある。歪んで見えるが僕の顔、僕の姿だ。
それでようやく、自分が生きていると信じられた。
命を実感した途端、鳩尾の奥で食欲が動いた。
「何か食べたいね、キンモクセイ」
できれば暖かい物がいい。
僕らは建物の中を探索した。
するとますます、ここがおかしな場所だと分かった。
教会には、台所も、トイレも、蛇口すら存在しなかった。食糧倉庫もない。広い伽藍と獣の像があるばかりだ。
当然のように電気も通じていない。つまり栄養補給も救助要請も不可能ということ。
現代日本にこんな街が存在するだろうか?
映画のセットに迷いこんだのでは? とも考えたが、こんな巨大なセットはありえない。
「何なんだ、ここは――うん、硬い」
育ちが悪いので、銀の装飾具に噛みついてみたりした。本物だ。輝きがちょっとチョコレートの包みを連想させたのだ。
子猫が呆れたように鼻を鳴らした。
そこら辺の金属像にも噛みついてみるが、やはりこれも本物。しかもどれも新品のように輝いている。像はやはり獣の形をしていた。
玉葱のような王冠をのせた獣の姿だ。二足歩行の鼠に見えた。
「だめだ。蝋燭でも囓ってやろうか」
聖堂の燭台に火が燃えていた。
燃え尽きた蝋燭はひとつもない。
ここで当然の疑問が浮かぶ。
「この蝋燭へは、いったい誰が点火したんだ?」
街の清潔さや蝋燭の火を維持する人が絶対いるはずなのだ。でもそれは、ちゃんとした街ならば、だ。
あの霧を体験したばかりである。
僕も心の奥では、この街がまともじゃない事には気づいていた。
この街は都市の機能を有していない。電柱も、水道も、食べ物も、人間も、小動物も、病院も、民家すら存在しない。精緻な装飾あふれる聖堂が続くだけに違いない。
ここは都市の体裁をした装飾品なのだ、きっと。
「でも、どうすればいい?」
僕は再び、途方に暮れることになった。
でも霧の中にいたとき程の恐怖はない。
とりあえず、使えるものがないか、持ち物を検めてみる。……検めるほどの物を持っていなかった。
カバンは無くしていた。びしょびしょのポケットにはチョコーレトの一欠片も入っていない。靴も片一方だけだ。
ただ一つ、短刀だけは無くさずに持っていた。ウルタールが置いていったあの宝石刀である。彷徨うあいだ存在すら忘れていたのに不思議だ。
でも、これは綺麗なばかりで切れ味はない。自害にすら使えない代物だった。
「でもまあ、猫がいるしな。太陽はないけど猫が居る」
僕はキンモクセイの首飾りを整えてやった。わずかに光を発しているように見えた。気のせいだろう。
「とりあえず、大通りを突っ切ってみよう」
街を抜ければ、また別の場所に出られるかもしれない。出た先がどんな場所かは、運を天に任せるしかないだろう。
ところで、人はあまりに規格外の物を目にすると、それを認識できない。という話を何処かで読んだ。
ペリーが黒船で来航した時、浦賀の人々は、黒船のあまりの大きさに、それを船と認識できなかった。そういうタイプの話。
同様のことが僕にも起こった。
〈それ〉はあまりに巨大で、常識外れな姿をしていた。そのせいで、僕の警報システムは、〈それ〉を危機として認識しなかったのだ。ただの景色だと思ったんじゃないだろうか。
気づいたのは、歩きだして三歩のところである。
聖堂と、尖塔の隙間に、それらと同じくらい巨大な顔がならんで、僕を見つめていた。
〈それ〉は、玉葱冠をかぶった巨大な鼠の〈獣〉だった。




