2 金木犀猫
◎
廃墟に猫を埋めた。
轢かれた黒猫を見つけたものの、焼き場に行くお金はなかった。僕は廃墟の金木犀の下に穴を掘って安置した。
次に行ってみると、金木犀が咲いていた。木の下には男が座りこんでいて、彼は足を投げだして睡っているように見えた。
にゃあ。という声がした。
男の汚れたコートを割って、猫が顔を出した。僕が埋めた猫に見えた。生きていたのだろうか、そんなはずはない。別の猫なのだろう。顔の見分けはつかなかった。
にゃあ。黒猫の背に金木犀の花がつもっている。
男の方は、金木犀にもたれたまま、動かない。
「痛いところが?」
声を掛けてみる。
男は薄く目を開けた。それから肩をすくめて見せた。
「ここは歯医者さんか? 痛かったら手を上げて教えるよ」
ひねくれた男だ。でも人懐っこい男だった。
汚れた格好で分からなかったが、よく見ると若く、鋭い顔つきをした青年だった。汚れたコートに金木犀の花がふりつもっていた。
猫は男のコートの中へ戻って行った。
顔だけ出して僕を眺めている。琥珀色の綺麗な瞳だ。毛並み黒一色。首輪の代わりに王族のような首飾りをつけている。メッキとガラス玉の偽物だろう。この時はそう考えた。
「なあオイ」
声に合わせて黒猫が鳴いたので、一瞬、僕はネコが喋ったのかと思った。
男はまた、皮肉っぽいとも愛嬌とも見える笑みで言った。
「なあ。俺とこいつに水と食いもん持ってきてくんね~かな」
それ以降、僕は、一人と一匹のためにせっせと餌を運んだ。
養父母に嫌味を言われるので、よそで調達した。そもそも家には酒以外ろくな食べ物がない。
僕には親がいない。
いたこともあった、という話だが、憶えていない。
幼い頃、今の養父母に引き取られ、十五歳になる現在まで、息をひそめて生きてきた。
養父母は働いていない。なのに飲んだくれたりパチンコ屋に入り浸るお金があるのは不思議だ。
僕に入るはずの遺産だか養育費だか、あるいは何か援助金のようなものがあって、それを着服しているのかもしれない。だとしても惜しいとは思わなかった。それは、死んだ誰かのお金、あるいは国のお金という感覚だった。僕が稼いだものじゃない。
ただ、寝ているだけで厄介者扱いされたり、学費を無駄金みたいに言われる生活には、うんざりしていた。
彼らは何故か、僕がバイトや勉強をしても嫌がった。
「そんなことをして俺らを見下しているつもりか」
というのがお決まりのセリフだった。
僕には居場所もなければ、自由になるためのお金もなかった。
静かに眠れる自分だけの場所がほしいと思った。
というわけで、僕は一人と一匹に餌を運ぶため、支援者を頼ることにした。
例えばコンビニとかスーパー。賭博遊技場。水商売関係の街。そういうところで知り合ったお姉さん達である。
僕は子供なのでよく分からないけれど、彼女たちには、急に善行をつみたくなる時期があるらしい。
善行ゲージが足りないところに、僕みたいなのがぼうっとつっ立っていると、放っておけなくなるのだ。
彼女たちは一日だけ僕を猫かわいがりする。お国言葉で喋り、ご飯を奢ってくれ、自慢のステレオ機材をさわらせてくれたりする。
とにかく、そういう方々から僕は食料などを調達したのだった。
男はいつも金木犀の下にいた。
おそらくは、怪我のせいだ。辛そうだが、僕がいない間に自分の世話は出来ているようだった。例えばトイレだとか、顔を洗ったリだとか。怪我の手当てをしたりだとか。
怪我人なのは明らかだったが、彼は僕にさわらせようとしなかった。金木犀の下にじっとうずくまって、力を蓄えているように見えた。
「太陽と猫。生きるのに本当に必要な成分てのは、もうここに揃ってるのよ」
「人に飯を調達させておいてよく言うなあ」
「じゃあオメ~は俺の太陽っつうことだな」
僕の持ってきた水を飲みながら彼はそう笑った。重傷の浮浪者にしては飄々としていた。
救急や警察に連絡しようとは、思わなかった。生きるのも死ぬのも彼の自由だからだ。
僕は彼の自由な生き方に、憧れを感じていた。
金木犀の廃墟が誰かに見つかることはなかった。
誰にも邪魔されることなく、僕らは睡ることができた。
「ここに入って来れるやつは限られてんだぜ」
男は奇妙なことを言い。そのことを僕に説明してくれた。彼の話はマイペースというか、自己完結的なところがあった。
「限られてるって?」
「ここは〈狭間の地〉つってな。時間と空間のエアポケットみたいなモンだ」
「もしかして熱ある?」
「まあ聞けって。ここに入れるのには二種類の人間がいる。一つは特別な力もったやつ。もう一人は〈狭間の地〉に気に入られたヤツだ。お前の場合は後者だろうな」
「気に入られたって何?」
「お前ん中にある、孤独みたいなモンが此所の周波数と一致したんだな。しらねえけど」
「知らないのかよ」
「孤独だって才能つう話だな。できねーやつは一生できねえし、量も質も色々あるだろうよ」
「僕には無いと思うけどな、孤独の才能。孤独って思ったことないから」
「俺も若い頃はそんな感じでイキってたっけなあ」
「イキって言ってないし」
実際、僕は孤独がよく分からない。
知り合いの誰が急にいなくなっても平気だろう。足を折った事のない子供が、骨折の痛みを想像できないように、僕も孤独を概念でしか理解できない。
「あーそれも俺言った。十年近く前にすでに言った。真似しないでもらえます?」
「真似してない」
僕はムキになる。
「でもよ、寂しさが分かるほどお前は誰かに出会ってきたのかよ」
「出会わなくても分かるさ……」
彼は――後になって思えば――故郷を見るような目で、僕を見つめた。
「それも昔の俺が言ったわ」と彼。
「嘘だ」
「ま。不要の要っつうのかな。孤独は空洞よ。孤独のぶんだけ他のヤツをいれるスペースがあるってことだよ、心に」
「意味が分からない。これ何の話?」
「お前は誰かの居場所になれるヤツって、そういう話さ」
「だから、興味がない」
「俺の故郷だって俺のことなんか興味ないさ。でも故郷だ」
「言葉遊びがしたいわけ?」
「猫を埋めたのは興味があったからか? 違うよな」
「それ関係ある?」
黒猫がやって来て、僕の足のあいだにおさまった。
それを指さして男が笑った。
「猫は家に憑くっていうぜ。スペースだよ」
「……今の説明で余計分からなくなったけど?」
こんな感じだ。
それから、彼は一度だけ故郷の話をしてくれた。
「――ウルタール?」
「知らないよな」
彼は片頬で笑った。
「ウルタールって?」と僕は繰り返す。
「故郷さ――俺のな」
男は黒猫を撫でながら、ほんとか嘘か分からない話を語った。
「ウルタールは猫のための街なんだ。ウルタールで猫を傷つけることは許されない。『ウルタールではネコに手を出すな』それが旅人へのお決まりの警句だった」
「そんな街あるわけない。聞いた事もない名前だ」
僕が言うと、男はやはり笑った。が、少しだけ寂しそうに見えた。「だよな」
男はさらに続けて、変なことを言った。故郷の名前を引き継いだというのだ。
「ウルタールはもう無いからな。失われた名を俺が引き継いだわけだ」
「じゃああんたをウルタールって呼べば良い?」
「そうだな。そうすりゃ俺たちのウルタールも名前だけは残るしな」
「じゃあその猫の名前は?」
「あ?」
「猫の名前」
「猫の名前か……」男はふいをつかれた様子で黒猫を見た「え~。キンモクセイ」
「明らかに今つけたよね」
「今の故郷の名さ」
彼と猫は、ずっと金木犀の木の下で寝ているのだ。
適当な男だ。
でも僕は興味を引かれて、訊ねる。
「故郷があるってどんな気持ち?」
「どんなってお前……どんなだろうな」
けっきょく、彼は答えられなかった。
彼は口笛を吹きだした。失われた故郷の曲なのかもしれない。
郷愁という言葉も、僕には謎だ。
僕はこの町で生まれ育ったといっていい。でも、仮にここから出て行ったとして、帰ってきたいとは思わないだろう。死んでしまった、あるいはどこかで生きているかもしれない肉親について考えるときも同じ気持ちだった。会いたいとは思わない。
養父がいないとき、養母が家に別の男を招き入れることがあった。幼い僕は毎回押し入れに閉じこめられた。
暗がりの中、段ボール箱に押しこまれた絵本を見つけた。僕のために買ったものじゃない。それは明らかだ。養父母にかつて子供がいたかどうかは知らない。
『11ぴきのねこ』
それは、11匹もいる猫の兄弟が、大きな魚を捕まえに行くという話だった。捕まえた巨大魚を筏で持ち帰るのだが、彼らはけっきょく、みんなでつまみ食いしてしまう。一夜明けると、なんと魚は骨だけになっているのだ。
猫の兄弟はお腹を満腹にして、幸福そうに睡っている。その幸せな空間が好きで、絵本は僕のお気に入りになっていた。あと小さい魚を賽の目で11等分するシーン
僕がうっかり音を立てると、養母は逢い引き相手に「猫だよ」と言った。
僕が轢かれた猫を埋葬したのは、この言葉があったからかもしれない。
車の行き交う道路で死んでいる猫を見て、こいつにゆっくり眠れる場所があってもいいんじゃないか、と思ったのだ。
男と子猫を気いったのも同じ理由だったと思う。彼らが安心して眠れる場所はこの廃墟だけだ。僕も同じだった。
僕らは猫だ。
いつか男が動けるようになった時、僕を街から連れ出してくれるんじゃないか、そんな期待をしたりした。
だが、男は猫を置いて消えてしまった。
ある日、男――ウルタールは前ぶれもなく消えた。
猫は死ぬとき住み処を去る。そんな言葉が頭をかすめた。
大切にしていた子猫を残して去った。だから、たぶん死んだのだろう。僕はそう考えた。もちろん居なくなるのだって彼の自由だ。
しかし、遺留品は謎だった。
猫は分かる。でも、もう一つが分からない。彼は一振りの短刀を残して去ったのだ。
それは、金木犀色の石でできた短刀だった。
平らで、曲がっていると表現したくなるほど反りが大きい。アラビアンナイトにでも出てきそうなデザインだった。
鍔と握り手が金属になっている。複雑な装飾が施されていて、刀身とは別種の、カットされた石がはめてあった。細工は猫の首飾りのそれとよく似ていた。
鞘はない。そもそも石の剣に切れ味はないようだった。
これを売って猫を養え、ということだろうか?
いや、本物のわけがない。猫の首輪と同じイミテーションだろう。僕はそう考えた。
本物だったとしても売らなかったろう。キンモクセイが寂しがるからだ。猫は環境の変化にストレスを感る。僕も嫌だった。
そういえば男はつねづね「猫の首飾りを外すな」と言っていた。
「勝手に外れたりはしねぇから置いとけ。猫は自分のもんを他人に動かされるのすげえ嫌うからな」
その感覚は僕にも良く分かった。
首飾りは猫にそのまま、短刀は僕が持ち歩くことにした。
廃墟で子猫と暮らすようになった。
養父母へ頭を下げたが無駄だったのだ。それで、僕の方が廃墟に引っ越した。猫が飼えない家なら、もういる意味がない。
新しい暮らしは幸福だった。太陽と猫と。それが身を保つ。男の言葉は本当だった。
一度、子猫が行方不明になったときなどは、必死で探しまわったほどだ。
ようやく見つけた子猫を抱いて睡るとき、僕は気づいた。これが孤独なんだ。
そのとき、僕は横向きに丸まって、猫をお腹に抱きこんでいた。
子猫はいつの間にか睡っていて、寝息は金木犀の匂いがした。
僕と猫のあいだには、ほんの少しだけ隙間があった。僕はその距離を埋めたいと思った。
そのとき僕は、これが寂しさなのかもしれない、と不意に思い至ったのだった。
猫と、僕の隙間。猫のいない空間の輪郭。これが僕の孤独なのではないか。
孤独とは自分ではない誰かを想うとき発生するのだ。
僕の孤独は猫の輪郭をしている。
だから猫でしか埋められないんだ。




