3 決断そして遭遇
◎
おそらく、黒髪は人獣の顔を見たに違いない。
想像だが、人獣は僕らの声に気づいた。それで木陰に姿を隠していたのだろう。黒髪はそこへ鉢合わせしてしまった。あんなに無防備に近づいてくるなんて、人獣も思わなかったはずだ。それで咄嗟に口を封じた。
霧を展開したのは、姿を隠すためだろう。
「どうする」
まだらに拡がっていく霧のあいまに、まんのう町の姿が見えた。
「打ち合わせはしたよな?」
学長の指示に従うなら隠密。いや、すでに気づかれたのだから逃亡か。
しかし、一般人が巻きこまれるというこの想定外の事態。
逃亡か戦闘か、それとも――。
「黒髪を保護するか?」
黒髪の生死は不明だ。
霧はまだわずかに薄い。
人獣の影が黒髪の体を投げ捨てる。それが、かすかに見えた。
そして濃い、霧の第二陣が迫るのも。
僕らは一瞬、迷ってしまった。それから決断した。「僕ら」というのは、僕とまんのう町、そして灰錆の女のことだ。
それぞれが別の判断をした。
僕は最初、敵の姿を見さだめようとした。まんのう町が敵を崩すまで観察を続けトドメを刺すのが、僕のいつもの役割りだったからだ。しかし今回は状況が違うと考え直し、自分から近づこうとした。
まんのう町は、前衛役だ。だが、彼は仕掛ける前に、灰錆の女の事を気にかけた。自認「少年マンガのヒーロー」は一般人を見捨てられなかった。
「お前、俺の後ろへ――」
手探りしたが、遅かった。
灰錆髪はそこにいなかったのだ。
彼女は放り投げられた友達を受け止めようとしたのだ。
怪我をした足もお構いなく、全身を投げだし、霧の中へつっこんでいった。
「しくじった――」
怪我人だと思って油断した。それにまさかケンカ友達のために飛び出すとは。
灰錆に気を取られたことで、僕らは行動のタイミングを失ってしまった。
次の瞬間、濃霧が〈狭間の地〉を覆い尽くした。
◎
「ウルタール、無事か」
「そっちもいるな」
「ああ」
一帯は白で埋め尽くされている。
バロックの力が僕らを守ってくれているので、初めて霧にのまれた時よりはマシな状態だった。
とはいえ、僕らの視界は半径七、八メートルが限度といったところだった。
二人の女子生徒の姿はどこにも見えない。声も聞こえなかった。
「どうする?」
まんのう町へ声を掛けた。
二人を助けに行くべきか、という相談だった。
黒髪の怪我は助からないように見えた。灰錆髪も、ダメだろう。
虚無の霧は時空を澱ませる。
バロックを持たない彼女らには、霧の中は無間地獄に等しい。
僕らがこうして話している間にも、彼女らの感覚では数時間が経過しているだろう。そして霧は時間とともに、二人を物質の根源まで分解してしまう。
「二人はもう?」
僕はもう一度繰り返した。
学長の指示通り逃亡か。
あるいは見こみのない二人の女の子を救助しに行くか。
今ならまだ「ダビデ像」の方角が感覚で分かる。帰還は可能だ。
他方、助かる見こみの薄い二人を助けに行けば、人獣の不意打ちを受ける危険がある。
「どうする、まんのう町」
「――見たか?」
敵の姿を見たか、という意味だ。
「――いや」
僕は影と獣の腕しか見えなかった。
「でも体は人の姿だった」
と僕は言った。あまり意味はない情報だが確認は必要だ。「腕だけを獣化させてた。仲間はいないはず。口封じ役と、霧で目隠しする役を一人でやってたから。あとは――」
「ウルタール」
「なんだ」
「助けたいか」
「無理だ」
と僕は言う。でもそう言いながら、僕はバロックの月光みたいな灯りを頼りに、目を凝らしている。
「助けたいか、ウルタール」
無理だ。でも灰錆女はとびだして行った。素人目にも無理だと分かる友達のために、痛む足も無視して。がむしゃらに。キンモクセイが攫われたとき、僕は跳べなかった。
「助けたい」と僕は答えていた。「逃げるべきじゃなかった。バロックに反するから」
「バロック」
とまんのう町は言った。たぶん自分自身へも向けた言葉だ。彼のバロックも同じ気持ちなのだ。彼の自認する少年マンガ主人公なら、必ず助けに行く。バロックを裏切れば、彼は力を失うだろう。
「SETOならその手を諦めない。そうだろ岸本先生」
まんのう町は深く息を吸いこみ、言った。「行こう」
というわけで方針が決まった。
「二人の安否確認へ向かう。敵は『戦いを挑んできた』と解釈するかもしれないが、そうなったら、まあ、しょうがない」
「ああ。しょうがない。ボゴボゴにする」
シンプルだ。
僕らは灰錆の飛び出していった方角へ当たりを付けて進み始めた。霧の害が弱い分、灰錆より僕らの方が圧倒的に早いだろう。水の中を進む弾丸と飛ぶ弾丸くらい違うはずだ。
走りだすと、まんのう町は僕を振り返って「お前、少し変わったか」と言った。
分からない。自分が誰かを助けようなんて考えてもみなかった。昔は一人だった。猫の形をした胸の穴は、僕のどこかを変えてしまったらしい。
◎
感覚で数分間走った。
さすがに霧の影響がゼロとはいかない。
森は始めに見たより広大に感じられた。
しかも霧で視界が効かない。ほとんど手探りで女生徒たちを探さなくてはならなかった。
「時間はないぞ」
走りながらまんのう町が言った。
いずれ霧は晴れる。入れ替わりで聖堂が現れる。その時にはもう手遅れなのだ。少女達は分解されたあとである。
「女達を見つけたらコートを使え。少なくとも霧の害から彼女たちを守ってくれるはずだ」
「分かってる」
「獣にも注意しろ」
「それも分かってる」
「〈ルーシーの人獣〉だけじゃない。今、この霧から生まれる獣もだ」
「……失念していた。獣が出るより聖堂が先なんじゃないのか?」
「色々だが、霧の中で襲われた事例はけっこうある。ただその場合、まだ不完全な――」
まんのう町が言葉を切る。
僕が短刀を振るったからだ。
「――どうした」
「影を見た。女の子じゃない。もっと大きいヤツだ」
霧のなかを確かに何かが接近して来たのだ。音もなく滑るような動きだった。まただ。斜め前方に――。
僕は〈11ぴきのねこ〉を斬って放った。
霧の向こうで形容しがたい音。象くらいの猫が、車を引っ掻いたら、こんな音がしただろう。あるいは千本の丸鋸。
「――いたのか?」とまんのう町。
「ああ。影しか見えなかったけど、人獣っぽくなかった。たぶん普通の獣の方だ」
そもそも人獣なら迂闊に姿を見せたりはしないだろう。
「当たったみたいだったが」
霧の中に敵の姿は見通せない。
「ああ。手応えはあった。吹っ飛んでったのかもしれない。かなり硬い敵みたいだった――が……」
今度は僕が言葉を切った。
まんのう町が振り返って、拳を振るったからだ。
輝く拳が、僕の横をすり抜けていった。
僕の背後の霧の中で、轟音と火花の光が滲んだ。
何かが向こうへ吹っ飛んでいく気配。
「手応えあり、じゃなかったのか? ウルタール」
「おかしいな。確かに斬ったはずだけど」
僕が倒しそこねたのだろうか? 知らないうちに背後へ回りこまれていた?
その時、また霧が動いた。
速い。
僕は初め小型船を想像した。大きな何かが音もなく突っこんでくる。先端が壊れた靴みたいに上下に裂けている。
いや、それは口だった。出刃包丁ほどもある牙が列んでいた。
巨大な生物が、渦巻く霧をまとわりつかせて迫って来ていた。
「こいつ――!」
バロックで受ける。
通常なら、単純に面積だけでいっても、ちっぽけな短刀で受けられるはずはない。
だから黒い毛並みを纏った状態で防御した。
深淵の武器も砕く奔流を楯にした。
ものすごい衝撃のあと、敵は再び霧の中へ引いていった。
姿が完全に見えなくなる。そのこだわりのない態度は野生のハンターを思わせた。
「今のは……」
まんのう町も姿を見たらしい。
影は僕らの周囲をぐるぐるまわって、隙を待っている様子だ。
歩いているのではない。霧の中を泳いでいた。
そいつは〈獣〉は獣でも、海の獣なのだ。
ドラム缶よりも太くい胴体に、刃のようなヒレ。三日月状の口。その口の中にはどんな物でも噛み砕く鋭い牙を持っている。
霧ごしに僕らの動揺を感じたのだろうか。
そいつは再び、接近してきた。
さっきよりも速い。すぐ目の前にそいつの顔があった。
意外につぶらな瞳。
地獄のノコギリみたいな口を開けて「シャーク!」と鳴いた。
間違いない。
僕らは同時に叫んだ。
「サメだ!」




