5 一番霊場の場合
◎
「今日こそ風呂入ったか?」
コードネーム〈一番霊場〉は今日も僕を洗おうとした。怪我に気づくと、ほとんど責め立てるみたいに言った。
「怪我してるだろ前、これ怪我だろお前」
「いや? してない」
「しとるわ! 何で一回否定した? おらっ。姉ちゃんに見せてみ」
彼女のバロックは指輪の形をしている。
それは血液を創りだしたり、怪我を治療する力があるのだという。
一番霊場は、僕を自室へ引っ張りこむと、椅子へ座らせ、治療を始めた。
指輪の手から不思議な温もりが伝わってくる。しもやけを暖めた時のむず痒さにも似ていた。
手当てさせるのと引き換えに、僕は質問を許された。
「つまりバロックの使い方を知りたいのか」
「ん」
と僕。手当てを受ける時というものは、弱みを握られたような、幼児返りしたような変な感じになるものだ。本当は好きじゃない。でも僕は抵抗せず、質問を続けた。
「なんか、バロックを使うときの気持ちが大事とかって、なんか学長が」
「ああ、ああ」
「あと、何か、あの人やたら魚食わせようとしてくる。素手でだぞ」
一番霊場は声を上げて笑った。
それから少し考え、彼女は話し始めた。
「バロックっつうのはな……そう、霧の中で手に入れるもんだ」
「ん」
それは知っている。〈虚無の霧〉が土地や人、すべてを分解するとき、それへ抗う者が手に入れる物。それがバロック。ロッカさんはそう言っていた。
そして、僕はそうじゃない。僕のバロックは譲渡されたものだ。だから上手くつかえないらしい。
一番霊場は続ける。
「バロックは対になってるんだよ。〈獣〉と〈聖堂〉が一対で生まれるみたいに」
「対。何と対?」
「歪み」と彼女は言った。
「歪み? 何の」
「私の。あるいは、ここのみんなの」
僕にはよく分からない。
彼女は言葉を継いだ。
「認知の歪みとも言ってる。言葉として正確かは知らないけどな」
少しだけ聞き覚えがある。戦いの途中でロッカさんに言われた、ような気がする。よく思い出せない。
「例えば、あんた達は私の弟なわけじゃない?」
「……なに?」
「私はあんた達のお姉ちゃんなわけ」
「言ってることが分からない」
「あんたは、私の弟なんだ。隠したって分かるんだから」
「なんで急に怖いこと言い出した?」
「逃げようとするな。私の〈歪み〉を説明してんだから」
僕はむりやり椅子へ戻されてしまう。
手当てが終わった。
彼女は僕の首や耳の後ろ辺りを、アルコールとタオルでゴシゴシやっている所だった。汚れとか、別のかすり傷が気になるらしい。
僕が大人しくしていると、彼女は話を再開した。
「私はこの学校のみんなを弟だと信じてる」
「そっかあ」
「理解を諦めるんじゃないよ」
「だって意味が分からない」
「例えば学長も変なこと言ってたろ。自分をキリストみたいに」
「言ってた」
確かに言っていた。実はあれも怖かった。
「まあ〈歪み〉っつうのはこういうことだよ。学長自分を救世主だと思ってる。本当はそうじゃないけど。私はみんなのことを弟だと思ってる……本当はそうじゃないけど」
「……分からないが?」
「こういうときは『バロック』っていうんだよ」
首筋の後ろで一番霊場が含み笑いした。
「バロック? 武器の?」
「それとは別。合い言葉みたいなもんよ。ジーザスとかカワバンガ! みたいなもんよ。『分かったからこの話は終わり』みたいな使い方を私たちはする」
「これはなんの話?」
「だから〈歪み〉の話だって。私たちはお互いが変なこと言い出したら『バロック!』って言って話を終わらせるんだ。他にどうしようもないから」
僕はやっぱり首をかしげる。
「そういう『思いこみ』が私たちの言う〈認知の歪み〉で、戦う力の源なわけ」
「武器の方の〈バロック〉の?」
「そう。私たちが霧から生還できたのは、そういう〈歪み〉があったから。なぜならバロックは人の〈歪み〉から生まれるから。そして人の〈歪み〉を力に変えるものだから」
「それが『一対』っていうこと?」
だとしたら、僕とウルタールの短刀はどうなるんだろう?
「私たちはね、霧の中で何かが壊れた子供なんだよ。故郷や、家族や、プライドや、他の色んなものが壊れちゃった。それを必死で修復しようとしたとき、私たちは歪んだんだと思う。バロックは、その歪みが形を取った物なんだ、きっと」
一番霊場は、首の掃除あるいは治療を続けている。どっちにしろとっくに終わってそうだが、動作を続けていた。僕も文句は言わなかった。
「せっかくの休みの日をさ、家族の行事で潰されるのって、嫌だったりするよな。霧に遭った頃の私はそういう時期だった」
一番霊場は過去を語り出した。
小学生の頃、彼女は霧にのまれたのだという。
祖父母のために寺院見物へ向かい、そこで家族を失ったのだという。
「弟の手を振り払ったんだよ。家族行事のせいで友達の誘いを断ることになったから、拗ねてたんだ。おじいちゃんおばあちゃんが弟ばかり可愛がるのも気に入らなかった。だから奥の院へ行こうって言う家族に、車で待つって言い張った。あの子は私と一緒がいいって言ったのに。車に居残って、友達とアプリで会話してて、何だか通話がおかしいなって思ったのを憶えてる。顔を上げると、寺の敷地に霧が満ちていくところだった。嫌な予感がしてみんなを追いかけたけど、もう遅かった」
彼女も霧に飲まれたのだという。
「永遠に続く霧の中で、私はなんで弟の手を離したんだろうって考え続けた。気がつくと手の中にバロックがあった」
壊れて、と彼女は言った。「――歪んだんだよ」
それで霧から抜けられたのだという。〈獣〉は駆けつけた学長達が倒してくれたらしい。
「そんでまあ、私は歪んだ。他人のことを自分の弟だってマジで感じるようになったんだな」
その理屈がちょっと分からない。でも僕は口を挟んだりしなかった。
「一度壊れて、作り直された私の心はそういう形になってしまったんだな、きっと。治そうとも思わない」
彼女は指が首に触れている。さっきより冷たく強張った感じがした。僕は自分で髪を切っているから襟足はたぶん不揃いだったろう。彼女の手はそれを真っ直ぐに撫でつけようと虚しい努力をしているようだった。
「指輪をはめていると、そこに弟の手の感触がある。だから、私は誰かにこのバロックを使うとき、弟にふれてると感じる。バロックを使ってるあいだの私は、弟の手を離さずにいられるんだ。その錯覚を守るため、私はあんた達の事を『弟だ』って言い張る。本当はそうじゃないって知ってるけど」
でもね、と彼女は続けた。
「でもねえ、やっぱり今になっても許せない。何で私はあのとき手を離したんだろう。そんなことすべきじゃなかった。そんなこと間違ってるのに」
首筋に二度、温かい雫が落ちて来た。
泣いているのだろうか。
でも鏡越しに窺うと、彼女は頬笑んでいた。強がっている様でもない。もちろん、幸福そうでもなかった。何というか、涙と自分を切り離したような、二重写しの顔だった。
お仕舞いに、彼女は僕の首をぴしゃりと叩いた。
「おら。終わったぞ」
一番霊場の部屋を去る直前――彼女は寝る前に歯を必ず磨くよう強く注意してきた――僕は一度立ち止まった。
「でも、弟のこと。自分で歪みとか『本当はそうじゃない』だとかて言って大丈夫なのか? 僕の質問に答えるためにわざわざ――」
うまく説明できないけど、パラドクスみたいな事を引き起こすんじゃないかと僕は気になったのだ。
「なんだあ? 姉ちゃんのこと心配してくれんのか」
「……一応、こっちから話を求めた、ので」
僕は対応に困ってしまう。さすがに姉ちゃんとは呼べない。
一番霊場は笑って言った。
「嘘だって気づいたくらいで無くなる歪みなら、ここで戦えないよ。分かっててもなお私たちはその嘘を本気で信じ続けるんだよ。でもまあ、こういうとき何て言うか分かるか?」
彼女は耳に手を当てた。僕の返事を待っている。
「さっき教えたろ? ん?」
僕はちょっと戸惑ってから、
「バロック」
と言った。
「バロック」
と彼女も応える。
おやすみ、と弟へ言うみたいに。




