4 バロックって何
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実際のところ、チョークスリーパーで落とされたのは一瞬だった。まんのう町に比べて僕の方が小柄かつ柔軟だったので、ホールドからわずかに抜け出せたのだ。僕はまんのう町にもうひと咬みくれてやろうとした。
だが、ジウス学長に遮られた。
不思議なことに、あの縫い目のある手で触れられると、体が動かなくなった。痛みとかしびれとか、合気道とかそういうのとは違う感じだった。なんというか包容力の怪物みたいな力で押さえこまれてしまった。
ジウス学長は「はっきりいっておく」と前置きして、僕へ忠告を与えてきた。
「オメエさんが焦るのも分かる。それにためらいの無さは満点だ。だがこのままでは君はパウロには勝てない」
「まんのう町だろ」
僕は純粋な不満を感じていた。
勝てない?
パウロことまんのう町は深淵に太刀打ちできなかった。
一方、僕は一太刀にしろ攻撃を加えられたわけで、理屈から言って僕の方が、深淵を倒す確率は高いはずではないか。
という主張をしたかったのだが、耳元で、
「もういいですかぁ」
という女子の声がし「カッ」僕は完全に締め落とされたのだった。
というわけで、気づくとまた風呂場に連行されていた。
とうぜん、またぐるぐる暴れて浴室を脱出。ペタペタ駆けてまんのう町を探した。むろん続きをするためだ。
濡れた上着を洗濯機へ放りこんでいる所を発見した。
斬りかかった。
そしてまただ。宝石刀を腕輪で受けられ、足払いで転がされた。
それから、またまた追いかけて来た三人娘に頭を叩かれ、風呂場まで連れ戻された。
そういう事を三回ほど繰り返した。
ということは、つまり全部失敗したということだ。
もちろんそれで諦めたりはしなかった。
すでに転校手続きは完了していた。
と思う。実は興味がないので知らない。
制服は後日届くらしい。お金については何もいわれなかった。学費と生活費の件についても請求されない。国から援助が出ている、と聞かされた気がするが、それも奇妙な話だ。でも時間がもったいないので僕は誰かに質問しに行ったりしない。
授業をサボって、まんのう町の隙を探すことに専念した。
食堂。便所。更衣室。便所。バスルーム。便所。便所。
手が塞がるタイミングを狙って挑み続けた。
「何度やっても無駄だ。お前は――」「お前な――」「いい加減にしろ! 便所は禁止だろうが!」「殺すぞ!」
すべてしのがれた。
「お前、不意打ちで俺に勝っても意味はないぞ」
僕を組み伏せると、まんのう町は何か説教を与えようとした。もちろん、敵の言葉を聞くバカはいない。
最後まで言わせず、僕はぐるぐる暴れて離脱する。
逃げ切る前には、つばをかけたり、砂を浴びせたり、ハゲ、あほ、などの捨て台詞も忘れなかった。こうやってコツコツ精神的ダメージを与えておくことで、いずれ隙が生まれるのだ。武蔵もそう言っている。
それにしても。
授業をエスケープし、建物の屋上に寝っ転がって考える。
納得がいかない。宝石刀が力を発揮しないのだ。
深淵の獣へ放った、あの黒い奔流が出せない。それに〈深淵〉戦の時の漲るような力も感じなかった。
短刀を腕で防御させる所までは何度か行った。その際に当時と同じような力が使えていれば、ダメージを与えられていたはずなのだ。
何が違うのだろうか?
あの時の事は必死で、どうやったのか思い出せなかった。
一度だけ、何か掴めそうな瞬間はあった。
今日の朝、便所で、いや脱衣所で仕掛けたときのことだったか。
この時もあっさり防御された。しかし、そのあとちょっとしたトラブルがあった。
返すまんのう町のキックをガードした所で、僕は誰かが忘れていったタオルを踏んだ。
しかも、滑って転ぶ際に、どういう具合か、自分のバロックで腕を突いてしまった。宝石刀に刃はついていない。先端の尖ったところが肉をえぐったのだ。
「おい――」
まんのう町がしまったという顔をする。それがすごくプライドにさわった。
「いや? 何が?」と僕。
「自分で分かるだろバカ」
「何が?」
「ムカつくな! その白々しい顔!」
僕は平気なふりをした。
これは本能でもある。敵に弱みを見せるわけにはいかない。
が、しかし、流れ出た血を見たとき、不思議な怒りが湧いてきた。傷口は子猫の口みたいに開いていた。
「猫に謝れよ、猫のための腕だぞ!」
「……何?」
後になって思うと、たぶん僕は怪我で猫の救助が遅れる、と言いたかったのだろう。
それに僕に何かあればキンモクセイは帰る場所を失ってしまう。ひとりきりになってしまうんだ。
「ウルタールは猫の聖堂なんだよ!」
またまた自分でも分からない叫びを上げて、僕は宝石刀で殴りかかった。
今までと違ったのはこの時だ。
やはり防御されたのだけれど、わずかにまんのう町の体勢を崩すことができた。
その後はやはり負けてしまった。
決着がつくと、まんのう町は先輩ぶった感じで、
「イカれてるな。だが、今のは少しよかった」と言った。「意地になっているようだが目的を達成したいなら素直に――」
もちろん、僕は敵の言葉を聞かなかった。
プライド。あるいは本能。誰かの忘れていったパンツで目潰しを決めてから、風呂場を離脱した。
一人になってから、さっきの手応えを反芻した。
あの時、少しだが確かにバロックの反応を感じたのだ。黒い刃こそ出なかったものの、僕は刃と一体になり、力が充実し始めていた。
それで僕は考える。
バロックを使うには何か条件があるんだ。
でもそれが何なのか解らない。
◎
暗くなって、僕は食堂へ忍びこんだ。夕食には遅い時刻だ。
食事はあらかじめ注文しておけば、弁当を作っておいてもらえる。
あるいは寮生たちは冷蔵庫を開けて自分で勝手に料理しているようだった。
寮は、シゲさんと呼ばれる熟練の管理人さんが切り盛りしている。が、今は見当たらない。別の仕事をしているか、自分の部屋で休んでいるのだろう。
調理場の棚からサランラップを失敬した。怪我した腕にぐるぐる巻いた。
冷蔵庫に作り置きのおかずがあった。野菜ばかりだったので、そっと戻した。
代わりにハムの塊とチーズ持ってテーブル席へ移動した。
それらを冷たいまま囓りつつ、あの時バロックはどうして反応したのかと考えた。
怒りだろうか?
しかし猫がいなくなってからというもの、僕は今も、一秒たりとて休むことなく怒り通しなわけで、だとしたら常に刃を使えていないのはおかしい。
では、他に何が考えられるだろう?
分からなかった。
僕は苛立ってテーブルを叩いた。
僕の猫がいない。なのに僕がこんなところで足踏みしていて良いはずがない。
朝起きて僕がいないだけでも、キンモクセイは鳴き続ける。
なのに今、僕らは三日も離ればなれだ。
僕の猫がどこかで鳴いているのに、正気でいられるわけがないじゃないか。
あたりの物を手当たり次第掻き毟りたくなる。そのまま空間もバリバリ引き裂いて、キンモクセイの所へ迎えに行けたらいいのに。むしろ、それが出来ないなんて許されないことだと思った。
「おめえはあれだ。バロックについて知る必要があるなあ」
ビックリして飛び上がるところだった。
二列ほど後ろの席にジウス学長が座っていた。
隣には白髯の渋い老人がいる。管理人のシゲさんだ。
「……何?」
と僕。もしかしてヒントをくれようとしているのか?
「うめえ。これうめえぜシゲさん。結婚してくれ」
せっかく聞く姿勢になったというのは、学長はシゲさんに親指を立てたりしている。さらに彼は焼き魚に謎の粉をかけると、素手で、しかもすごく独特なやり方で、なのに綺麗に食べていった。
僕がイライラしてきた頃、学長はようやく話しだした。
「お前は特殊なケースなんだよ。自分のバロックをもってねえ。皆が本能で扱ってるモンを、お前は一から理解してやらなきゃならねえ。つまりよ、お前がバロックを使うには、バロックを知る必要があるっつうことだな。魚から進化した人間が、もっかい海へ入って水泳を始めるみたいに。おい魚食うか? どうせ好きだろ? 魚」
「いらない。バロックに必要なものって?」
「それを俺が言葉で教えてもなあ」
「教えに来てくれたのかと思ったけど」
「だめだ。言葉じゃねえんだ。皆に聞いて回ることだな。あいつらがどんな気持ちでバロックを使ってるのか。皆にとってバロックが何なのか。それを他人の俺が勝手に話しても、そりゃあ意味がないってもんだ。ところで魚食うか?」
「だからいらない。素手でさわったヤツだから」
僕が食堂を出てく前に、ジウス学長はこうも言った。
「その怪我よぉ。一番霊場あたりに見てもらうといい」
服で隠していたのだが、どうやって怪我に気づいたのだろう。
寮へ続く渡り廊下で、当の一番霊場に遭遇した。
「今日こそ風呂入ったか」
と一番霊場は言い、
「バロックってなに」
と僕は訊いた。




