玻璃の箱庭の外へ
夜の王都には、静かに雪が降り始めていた。
白く細かな雪片が、漆黒の空からゆっくり舞い落ちる。王宮へ続く石畳は淡く濡れ、街灯の灯りを受けて硝子みたいに鈍く光っていた。
祝賀会の喧騒は、もう遠い。
王宮の大階段を降りた先、黒塗りの馬車がひっそりと停まっている。紋章も装飾も最小限に抑えられた簡素な馬車だった。
まるで誰にも見つからぬよう、静かにこの場所を去るためだけに用意されたみたいに。
エレーナは、震える指先を膝の上で握り締めていた。
向かいの席にはカイルが座っている。
けれど、まだ現実感がなかった。
ほんのすこし前まで、自分は図書館で静かに働く司書だったのだ。
それが今では、王宮中を騒然とさせた“北方の英雄”と共に、雪の夜を逃げるように走っている。
馬車がゆっくり動き出す。
車輪が雪混じりの石畳を軋ませる音が、小さく夜へ響いた。
窓の外では、王宮の灯りが少しずつ遠ざかっていく。
黄金色の光。
巨大な玻璃窓。
あまりにも美しく、遠い世界。
エレーナは唇を噛んだ。
「……どうして」
震える声が漏れる。
カイルが静かに視線を上げた。
「どうして、あんな無茶をおっしゃったのですか」
胸が苦しい。
嬉しいはずなのに。夢みたいなのに。
それ以上に怖かった。
「あなたは、北方の英雄なのに……」
エレーナの声が掠れる。
「これからもっと高い地位だって得られたはずです。王宮で、誰より重く用いられる未来があったのに……」
王子の側近。
次代の王国を支える騎士。
誰もが羨む未来。
カイルは、それを捨てた。
自分のために。
「……私なんかのために」
その瞬間だった。
カイルの眉が、僅かに寄る。
彼は静かに身を乗り出した。
そして、そっとエレーナの頬へ触れる。
「っ……」
温かい。その指先は驚くほど優しかった。
図書室で地図をなぞっていた時と同じ、繊細な触れ方。けれど、あの頃とは違う。
「エレーナ」
低い声が響く。
「僕は三年間、後悔し続けていた」
雪明かりが、窓越しに彼の横顔を照らしている。
昔よりも深くなった眼差し。
北方の冬を生き抜いた人だけが持つ静かな影をまとっている。
けれどその瞳は今、痛いほど真っ直ぐにエレーナだけを見ていた。
「あの日」
カイルがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「卒業舞踏会で、君は泣きそうな顔をしていただろう」
エレーナの呼吸が止まる。
忘れたことなんて、一度もなかった夜。
最初で最後のワルツ。
「僕はずっと悔やんでいた」
カイルの声は低く静かだった。
「君が殿下を想っていたのだと、そう思い込んでいたから」
「……え?」
エレーナは目を見開く。
「君はずっと殿下を見ていた」
苦く笑う。
「だから僕は、自分が君を苦しめているんだと思った」
「ち、違います……!」
思わず声が裏返る。
カイルが微かに目を瞬かせた。
「私は、王子殿下なんて……!」
言葉が詰まる。けれどもう、止められなかった。
「見ていたのは……カイル様です」
車輪の音だけが響く。
馬車の中へ、長い沈黙が落ちた。
カイルは何も言わない。
ただ、信じられないものを見るみたいにエレーナを見つめている。
エレーナの頬が熱くなる。
「だって、カイル様はいつもリリア様を……」
「殿下の近くにいたからだ」
即座に返された言葉に、エレーナは息を呑む。
カイルは苦笑した。呆れるように。泣きたいみたいに。
「僕も同じ誤解をしていた」
低い声が震える。
「君が殿下を見ていると思っていた。だから、自分の想いは邪魔でしかないと……そう思い込んでいた」
エレーナは何も言えなかった。
三年間。二人は違う場所で、同じ痛みを抱えていた。
互いを想いながら、自分は選ばれない側なのだと思い込みながら。
なんて遠回りだったのだろう。
なんて愚かだったのだろう。
カイルはゆっくりと懐へ手を入れる。
取り出された小箱を見た瞬間、エレーナの胸が震えた。
カイルは静かに蓋を開ける。
その中には、琥珀の中に一輪の青い花を封じ込めた指輪が収められていた。
透き通る黄金色。
夕暮れを閉じ込めたみたいな光。
その中心で、青い花が永遠に咲き続けている。
先日見せられた琥珀が美しく指輪に加工されていた。
「……綺麗……」
涙混じりの声が漏れる。
カイルはエレーナの左手を取った。
逃がさないように。
確かめるように。
そして、そっと指輪を嵌める。
琥珀は体温を宿したみたいに温かかった。
「もう、殿下の影には戻らない」
低く、静かな声。
けれどその奥には、三年間押し殺してきた執着が滲んでいる。
「君に私の心を捧げる。私の唯一の光」
エレーナの瞳から涙が零れ落ちる。
カイルはその涙を親指で拭った。
「嫌だと言われても、もう離さない」
その言葉は優しいのに、どこか狂おしい熱さを孕んでいた。
エレーナは震える息を吐く。
それから堪えきれなくなったように、カイルの胸へ顔を埋めた。
「っ……」
涙が溢れる。止まらない。
三年間、押し殺してきた想いが全部崩れていく。
「カイル様……っ」
彼の腕が静かに背中を抱き寄せる。温かい。苦しいほど。
閉ざされていた玻璃の箱庭が、音を立てて壊れていく気がした。
脇役でいいと思っていた。
誰かの幸せを遠くから見守るだけでいいと。
けれど。この人は、その運命を壊すために戻ってきたのだ。
雪が強くなる。
窓の外では白い冬が王都を包み込み始めていた。
けれどエレーナの胸の奥には、消えない熱が灯っている。琥珀の中へ閉じ込められた青い花のように。
永遠に失われない熱。それはきっと、三年間ずっと二人の中で燃え続けていた思いだった。
馬車は雪の夜を誰にも見送られずに王都から北西に向かって進んでいった。
◇
翌朝、北西の街道沿いの宿屋。
薄明かりが窓から差し込む部屋でエレーナは目を覚ました。琥珀の指輪が左手の薬指に光っている。
夢ではない。
彼女はそっと起き上がり、窓辺へ歩み寄る。
外は一面の銀世界だった。
雪は止み、朝日が新雪を金色に染めていた。
「目覚めたか」
振り返ると、カイルがドアの傍に立っていた。
彼は既に旅装を整え、朝食のトレイを手にしている。
「少しでも長く眠らせておきたかったが、今日は遠くまで行かねばならない」
エレーナは頬を赤らめた。
「すみません、私……」
「謝るな」
カイルが優しく言った。
「君は何も悪くない。むしろ、僕が君をこんな旅に連れ出してしまった」
彼はテーブルにトレイを置き、エレーナの傍へ近づく。
「まだ、怖いか?」
エレーナは一瞬考えた。
「怖いです。でも……それ以上に、嬉しい」
カイルの目が柔らかく光る。
「これからいく先にには、小さな森がある」
彼が言った。
「僕が戦功で授かった土地の一部だ。誰も知らない静かな場所。そこで、新しい生活を始めよう」
「君が望むなら、家には広い書斎を作ろう。君の知識は、きっとこれから行く土地でも力になる」
「少し離れた街に図書館もあったはずだ。そこに関わってもいいかも知れない」
エレーナの胸が熱くなる。
彼女は自分の役割を見失わずに済む。
「でも、カイル様の騎士としての……」
「もう、あの肩書は必要ない」
カイルは窓の外を見つめた。
「北方で三年間、僕は学んだ。本当に守るべきものは何か、誰かを」
彼はエレーナの手を取る。
「僕は君を守る騎士でありたい。ただ一人の、君だけの」
その言葉に、エレーナはまた涙が溢れそうになった。
「私は……何もお返しできません。カイル様が失ったものに比べたら……」
「君はもう、全てをくれた」
カイルは微笑んだ。
「君の笑顔。君の想い。それだけで十分だ」
朝食を共にしながら、二人はこれからの計画を話し合った。
北西の森までの道のり。
新しい家の構想。
新しい土地での暮らし。
全てが未知で、不安でもあった。
けれど、二人でならきっと大丈夫。
「愛している、エレーナ」
「私も……愛しています、カイル様」
彼は彼女の髪にそっと口づけした。
「これから先、ずっとこうして過ごそう。雪の日も、晴れの日も。春が来て、夏が過ぎ、また冬が訪れても」
「ずっと一緒に」
エレーナは囁くように言った。
三年間の誤解と別れを経て、ようやく見つけた場所。
彼女はカイルの腕に抱かれ、ゆっくりと目を閉じた。




