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玻璃の箱庭~あなたの失恋を、私だけは知っている~  作者: 硝子細工の森


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10/18

春の森の静寂

 春を迎えた森は、柔らかな光に満ちていた。


 朝露を含んだ若葉が風に揺れ、木漏れ日が淡い金色の粒となって地面へ零れ落ちる。遠くでは小川のせせらぎが静かに響き、窓辺には小鳥たちの囀りが重なっていた。


 王都から馬で数日離れた北西の森。


 深い緑に抱かれるように建てられた小さな別邸が、今の二人の家だった。


 石造りの壁には蔦が絡まり、庭先には季節の花々が咲いている。裏庭ではローズマリーやタイム、ラベンダーが風に香り、窓辺には乾燥中の薬草が揺れていた。


 穏やかな場所だった。


 まるで世界の喧騒から切り離された、小さな箱庭みたいに。


 エレーナ・ローウェルは、朝の光が差し込む台所で鍋をかき混ぜていた。


 香草の香りが湯気と共に立ち上る。

 窓を開ければ、柔らかな春風が白いカーテンを揺らした。


 あの日から、二年。


 王宮を離れ、カイルと共にこの森へ移り住んでから、季節は静かに巡っている。


 最初の頃は、不思議だった。


 朝になれば同じ食卓を囲み、夜になれば同じ灯りの下で本を読む。


 そんな当たり前の時間が、自分にも与えられるのだと、エレーナはなかなか信じられなかった。


「エレーナ」


 低く穏やかな声が背後から響く。


 振り返ると、カイルが扉にもたれながらこちらを見ていた。


 シャツの袖を軽く捲っただけの簡素な姿。

 軍服も、勲章も、王宮騎士の外套もない。

 けれどその方が、今の彼にはよく似合っていた。


「今日のスープは香草が強いかな?」

 そう言いながら、彼は鍋を覗き込む。

 昔なら考えられない姿だった。


 “冷徹な北方守護者”と恐れられた男が、朝食の味付けを気にしている。

 エレーナは思わず笑ってしまう。

「少しだけ。ローズマリーを入れすぎたかもしれません」

「僕は好きだけど」

 カイルはさらりと言う。

 その自然な言葉に、エレーナの胸が小さく温かくなる。


 彼は変わった。

 王子の側にいた頃のカイルは、静謐さと相反する熱さ。そして他人を容易く受け入れない壁のような物があった。

 生まれと身分に見合う姿と行動を求められ、それに答えていた。

 北方で過ごした後は、更に人の上に立つものの強さも兼ね備えていた。

 けれど今は違う。

 薪を割り、村人の相談に乗り、時には迷子の子供を肩車して帰ってくる。

 真面目で、優しく、親しみやすく、森近くの治安を守る、一介の騎士。

 それが今のカイル・ローウェルだった。


 そしてエレーナもまた、この土地の小さな図書室で古書修復を請け負いながら暮らしている。


 破れた頁を繕い、薄れた文字を蘇らせる作業は、不思議と好きだった。

 失われかけたものを、静かに繋ぎ直していく。

 それはどこか、自分たちの人生に似ている気がした。

 食卓には焼きたての黒パンと温かなスープが並ぶ。


 窓辺には春の花。


 カイルは椅子へ腰掛けながら、ふと笑った。

「不思議だな」

「何がですか?」

「昔は、こういう時間を想像したこともなかった」


 彼は湯気の向こうで目を細める。

「僕はずっと、殿下の光を支える影として、生きていくのだと思っていたから」


 エレーナは静かに彼を見つめた。

 自分も同じだった。主役にはなれない。誰かの物語を遠くから見守るだけ。そんな人生しか、自分には与えられないと思っていた。

 今二人は、名もなき夫婦としてこの場所で生きている。

 大きな歴史には残らない。英雄譚でもない。


 それでも、自分達が主役の穏やかで愛おしい人生を。


 エレーナは微笑む。

「そうですね。殿下のお側にいたあの頃のあなたも素敵でしたが、今はもっと素敵ですよ」

 カイルが少し驚いたように目を瞬かせる。

「あの頃の私を選んでくださってありがとう。今、こうして私を幸せにしてくださってありがとう」


「愛しています。カイル」


 その言葉に、カイルは静かに笑った。

 ふわりとと大きな影が近づき、優しく唇が落ちてくる。

 春の陽射しがその横顔を照らし、窓の外では風が若葉を揺らしていた。

 平和だった。穏やかで、静かで。


 この時間が永遠に続くような気さえした。



 だからこそ、その静寂が壊れる音は、あまりにも鮮明だった。


 遠くから、馬の蹄の音が近づいてきた。

 激しく、何か切迫した音を響かせながら。


 カイルの表情が変わった。空気が張り詰め、騎士の顔になる。


 窓の外を見ると森道の向こうから、一頭の馬が土煙を上げながら駆けてくる。乗っている兵士は血塗れだった。

「カイル様!」

 扉が激しく叩かれた。

 カイルはすぐ立ち上がり、外へ向かった。エレーナも後を追う。

 玄関先へ辿り着いた瞬間、鉄の匂いが鼻を刺した。兵士の軍服は裂け、肩口から血が流れている。顔色は蒼白で、息も絶え絶えだった。

 けれど、その目だけが異様な焦りを宿している。


「……王都で……反乱が……!」

 掠れた声が漏れる。

「王弟派が蜂起しました……! 第一王子殿下は拘束され、王は怪我を負い、王宮は……っ」

 兵士が咳き込み、血を吐く。

 カイルの瞳が鋭く細められる。


「リリア様は」

 低い声だった。

 兵士は震えながら答える。

「離宮に……取り残されています……!」


 その瞬間。世界から音が消えた気がした。


 穏やかな朝。

 温かな食卓。

 小さな箱庭の幸福。


 それら全てを、遠い王都の炎が焼き払おうとしていた。


 春の風が強く吹き抜ける。


 庭の花々が揺れ、開け放たれた窓から、食卓の湯気だけが静かに空へ消えていった。


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