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玻璃の箱庭~あなたの失恋を、私だけは知っている~  作者: 硝子細工の森


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7/18

凍てついた想い、琥珀の花

 冬の夕暮れは、どこかの記憶に似ていた。


 淡く霞んだ空。茜色へ染まりきれない灰色の光。冷たい風が石畳を撫でるたび、エレーナ・ヴィニエは、ふと三年前の学園を思い出してしまう。


 図書室の窓辺。夕暮れの横顔。最後のワルツ。


 忘れようとしても、忘れられない。


 そんな日々を繰り返しながら、今日も王立図書館は静かな時間を刻んでいた。高窓から差し込む斜陽が長い書架を赤く染め、古びた革装丁へ柔らかな影を落としている。利用者の数も少なく、広い閲覧室には頁をめくる音だけが微かに響いていた。


 エレーナは返却された本を整理しながら、小さく息を吐く。


 今日も一日が終わる。何事もなく。何も変わらないまま。


 そう思っていた。


 その時だった。


 重たい扉が、低く軋む。空気が変わった。冷たい風が吹き込み、乾いた紙の匂いの中へ、異質な気配が混ざる。


 エレーナは反射的に顔を上げる。


 そして、息を止めた。


 一人の男が、入口に立っていた。


 濃紺の軍服は長い旅路を物語る外套。腰に下げられた剣。

 そして──深い紺色の瞳。


 その視線が、まっすぐエレーナを捉えていた。


 心臓が、大きく脈打つ。手から本が滑り落ちた。乾いた音が床へ響く。


「……カイル、様……?」


 掠れた声だった。


 三年。三年もの歳月が過ぎていた。けれど彼を見間違えるはずがない。


 カイル・ローウェル。北方守護隊総指揮官。“冷徹な北方守護者”。王都中でその名を知られる英雄が、今、目の前に立っている。


 けれどエレーナの知る学園時代の彼とは、どこか違っていた。体躯は以前より遥かに逞しくなり、肩幅も広い。頬には細く新しい傷跡が走っている。


 そして何より、その瞳。


 かつて静かな湖面みたいだった紺色の目は、今は獣のような熱を宿していた。執念にも似た光。三年間、何か一つだけを追い続けてきた人間の目だった。


 エレーナは動けなかった。夢を見ている気がした。


 カイルはゆっくりとこちらへ歩いてくる。軍靴の音が床へ響くたび、鼓動が速くなる。逃げなければ。そう思うのに、身体が動かない。


 彼はエレーナの目の前で立ち止まった。近い。三年前よりずっと背が高く感じる。冷たい外気の匂い。革と鉄の香り。その奥に、懐かしい沈丁花にも似た香りが微かに残っていた。


「エレーナ」


 低い声が、静かに名前を呼ぶ。その響きだけで胸の奥が震える。


「やっと……君を迎えに来られるだけの功績を立てた」


 エレーナは言葉を失った。意味が理解できない。迎えに来た?誰を?自分を?


 混乱する思考の中、カイルの手が伸びる。次の瞬間、エレーナの手首が掴まれていた。


「あ……」


 熱い。驚くほど熱かった。冷えた空気の中で、彼の掌だけが異様なほど熱を帯びている。その温度が皮膚を通して流れ込み、エレーナは眩暈にも似た感覚を覚えた。


「カイル様、私は──」


 声が震える。けれどカイルは離さない。まるで三年間、ずっと探し続けていたものをようやく見つけたみたいに。


 彼はもう片方の手で懐を探り、小さな木箱を取り出した。古びた深茶色の箱だった。傷だらけで、長い旅を共にしてきたことがわかる。


 カイルは静かに蓋を開く。


 そこにあったものを見て、エレーナは息を呑んだ。


 琥珀。透き通った黄金色の中へ、一輪の青い花が閉じ込められていた。小さく、儚い花。けれど時間を止められたみたいに、美しいままそこに在る。


「……これ」


「覚えているか」


 カイルの声は低く掠れていた。


「君が言ったんだ。北には“消えない花”があると」


 エレーナの胸が大きく揺れる。三年前。図書室で地図を広げながら話した、あの伝承。まさか。


「……あの日から」


 カイルが静かに続ける。


「僕は、これを見つけることだけを考えて生きてきた」


 その言葉は、あまりにも重かった。甘い愛の囁きではない。もっと深く、もっと切実で、執着にも似た響き。


 三年間。雪と血の中で。命を削りながら。彼はずっと、この花を探していたのだ。


 エレーナは混乱していた。理解できない。どうして。だって彼は──。


「……リリア様、は」


 震える声で呟く。


 カイルの瞳が揺れた。次の瞬間、彼は苦しそうに眉を寄せる。


「頼むから」


 低い声だった。


「殿下への忠誠と、君への想いを混同しないでくれ」


 その言葉に、エレーナは目を見開く。


 カイルはまっすぐ彼女を見つめていた。逃がさないように。三年間押し殺してきた感情を、ようやく曝け出すみたいに。


「僕は、あの頃から一度だって君以外の女性を想ったことはない」


 静かな声だった。けれどその一言は、胸を貫くほど重かった。


 エレーナは息ができなくなる。そんなはずがない。だって彼はリリアを──。そう思っていた。ずっと。三年間ずっと。


 けれどカイルの目には、偽りがなかった。その視線はあまりにも真っ直ぐで、痛々しいほど切実だった。


「僕は君に嫌われていると思っていた」


 カイルが微かに笑う。その笑みは、どこか壊れそうだった。


「図書室で手を引かれた時も。舞踏会で君が泣きそうだった時も」


 エレーナの瞳が揺れる。違う。違うのに。


「だから功績を立てようと思った」


 カイルは静かに言う。


「君の隣に立っても許される人間になるまで、戻らないと決めていた」


 その言葉は、愛というより祈りに近かった。あるいは呪い。三年間、自分を縛り続けてきた執念そのものだった。


 エレーナは琥珀の中の花を見る。黄金色の中へ閉じ込められた青い花は、まるで三年前の時間そのものみたいだった。消えなかった想い。凍りついたまま終われなかった恋。その熱だけが、今も静かに閉じ込められている。


 図書館の窓の外では、冬の早い陽がゆっくり沈み始めていた。世界が茜色へ染まっていく。


 けれどエレーナにはもう、自分の鼓動しか聞こえなかった。


「……ずっと」


 彼女の声はかすれていた。


「ずっと、カイル様のことを……」


 言葉が続かない。喉が詰まる。三年間、胸の奥に閉じ込めてきた想いが、堰を切ったように溢れ出そうとしていた。


 カイルの手が、そっとエレーナの頬に触れた。その指先は、今度は驚くほど優しかった。


「もう、逃がさない」


 彼の声は、決意に満ちていた。


「たとえ世界の果てまで追いかけても、今度は君を離さない」


 エレーナは目を閉じた。頬を伝う温かいものが、三年間凍りついていた心を、ゆっくりと溶かしていく。


 琥珀の中の青い花が、夕暮れの光を受けて微かに輝いていた。消えない花。凍りついた時間の中で、ただ一つ変わらずに在り続けた想い。


 図書館の静寂の中、二人はただ、長すぎた別れの終わりを、そっと確かめ合っていた。

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