空白の三年
カイル・ローウェルが北方へ去ってから、三年の歳月が流れていた。
王都には今年も雪が降っている。
白く曇った空。凍える石畳。灰色の冬空から舞い落ちる雪片は、まるで時間そのものを静かに覆い隠していくみたいだった。
けれどエレーナ・ヴィニエの中では、季節だけが過ぎていった。
あの卒業舞踏会の夜から。
図書室で交わした短い会話から。
最後のワルツから。
何かが始まることはなく、何かが変わることもないまま、三年という時間だけが静かに積もっていった。
王立図書館は、王都の中央区画に建ち、学園の図書室より遥かに広く、幾千冊もの蔵書を抱える巨大な知の宮殿。その高い天井には繊細な装飾が施され、長い回廊には古い紙とインクの匂いが満ちていた。
エレーナは、その場所で司書として働いている。
朝早く出勤し、返却された本を整理し、破損した頁を修復し、利用者の求める文献を探す。
静かで、穏やかな仕事だった。
誰かの視線を集めることもなく、誰かの中心になることもない。
けれどエレーナには、その在り方が心地よかった。
人々の物語を、少し離れた場所から見守るだけ。
昔から、自分にはそういう役回りが似合っていると思っていた。
高窓の外では雪が降っている。
夕暮れ前の淡い光が書架の隙間へ差し込み、舞い上がった埃を白く浮かび上がらせていた。
エレーナは返却棚へ本を戻しながら、小さく息を吐く。
最近、無意識にため息をつくことが増えた。
「エレーナ、またため息?」
軽やかな声が飛んでくる。
振り返ると、同僚のマリアが呆れたように肩を竦めていた。
栗色の髪をきっちり結い上げた彼女は、図書館でも数少ない気安く話せる相手だった。
「そんな顔してると、本当に婚期逃すわよ」
「……もう逃している気もするけれど」
エレーナが苦笑すると、マリアは声を上げて笑った。
「まあ、否定はしないのね」
冗談めかした会話。
いつものやり取りだった。
けれど“婚期”という言葉が胸に刺さらなかったわけではない。
ヴィニエ伯爵家の財政は、この数年で急速に傾いていた。
父は昔から金遣いが荒く、利益にならない事業へ次々投資し続けた結果、領地経営はほとんど破綻寸前だと噂されている。
最近では、その穴埋めのように縁談話ばかりが届くようになった。
名ばかりの資産家。
年老いた地方貴族。
愛人を何人も囲っている男。
どれも「娘を差し出す代わりに援助を得たい」という思惑が透けて見えるものばかりだった。
父から送られてくる手紙を読むたび、胸の奥が冷えていく。
けれどエレーナは反論できなかった。
自分は特別な人間ではない。
美しい姉たちのように社交界で注目を浴びることもなく、誰かに熱烈に求められることもない。
ならば、そういう結末も当然なのだろうと思ってしまう。
脇役には脇役らしい人生がある。
昔から、ずっとそう思ってきた。
「でも本当に大丈夫? 最近、顔色悪いわよ」
マリアが少し心配そうに眉を寄せる。
エレーナは慌てて笑みを作った。
「平気よ。ただ少し寝不足なだけ」
「本?」
「……うん」
本当は違う。
眠れない夜に思い出すのは、いつだって同じ人だった。
北方守護隊総指揮官。
“冷徹な北方守護者”。
今や王都でもその名を知らぬ者はいない。
北方で頻発していた魔獣災害を鎮圧し、辺境の反乱を最小限の被害で収め、若くして数々の戦果を挙げた英雄。
新聞には度々その名が載った。
――カイル・ローウェル。
その文字を見るたび、エレーナの胸は静かに痛んだ。
彼は遠い場所で生きている。
雪と血の匂いがする世界で。
きっと今の彼は、学園時代よりずっと鋭い顔をしているのだろう。
誰かを守るために剣を振るい続けながら。
エレーナはそっと目を伏せた。
三年。
長い時間だった。
それなのに、どうして忘れられないのだろう。
図書室で交わした短い会話も。
地図の上で近づいた指先も。
最初で最後のワルツも。
何一つ薄れてはくれなかった。
むしろ思い出は、琥珀の中へ閉じ込められたみたいに、時間が経つほど鮮やかになっていく。
窓の外で、雪が強くなる。
白く煙る景色を見つめながら、エレーナは小さく息を吐いた。
――もう、終わった恋なのに。
そう何度言い聞かせても、胸の奥ではまだ、静かな熱が消えずに残っていた。




