語られなかった真実
舞踏会の喧騒を抜け出した時、夜の空気は痛いほど冷えていた。
王立学園の中庭には白い月光が降り積もり、冬の終わりを迎えた石畳を青白く照らしている。遠くからはまだ楽団の旋律が微かに聞こえていたが、それも厚い扉に遮られ、今は別世界の音のようだった。
カイル・ローウェルは一人、人気のない回廊へ立っていた。
軍礼装の襟元を緩めることもなく、ただじっと俯いている。
呼吸が浅かった。
胸の奥が焼けるように熱い。
苦しい。
どうしてあんな顔をさせてしまったのだろう。
次の瞬間、鈍い音が夜気を裂いた。
拳が石壁へ叩きつけられる。
白い手袋が裂け、滲んだ血が指先を濡らした。
けれど痛みなど感じなかった。
脳裏に浮かぶのは、ただ一人の少女だけだったから。
灰色の瞳。
静かな声。
図書室で頁をめくる細い指先。
夕暮れの窓辺で本を読む、エレーナ・ヴィニエの横顔。
「……どうして」
掠れた声が漏れる。
自分でも、何を問うているのかわからなかった。
彼女を初めて意識したのは、いつ頃だっただろう。
気づけば、視線で探していた。
図書室の決まった席。
本棚の隙間。
窓際へ差し込む夕陽の中。
エレーナはいつも静かにそこにいた。
誰かの輪の中心へ入ることもなく、騒がしい令嬢たちから少し距離を置きながら、本を抱えて微笑んでいる。
その姿を見るたび、不思議と胸が安らいだ。
王子の側にいる時は、常に気を張っていなければならない。
剣を握り、誰かを守り、失敗を許されず、感情を切り捨て続ける。
カイルにとって「側近」であることは、生き方そのものだった。
王子が光なら、自分は影でいい。
誰かの幸福を守るために、汚れる役目を引き受ける。
それが当然だと思っていた。
だから最初から、諦めていたのだ。
エレーナのような人に、自分は相応しくないと。
彼女は静かな春のような人だった。
柔らかな陽だまり。
穏やかな読書の時間。
雪解け水みたいな声。
そんな温かなものへ、自分のような人間が触れてはいけないと思っていた。
戦術書を開くふりをしながら、彼女を見ていた。
書類へ視線を落としながら、彼女の気配を探していた。
誰にも気づかれぬように。
密かに。
愚かなほどに。
机の引き出しの奥には、一冊の手帳がある。
公務の覚書にしか見えないそれには、本当は別の文字が綴られていた。
『ヴィニエ嬢が読んでいた本』
『北方神話集を好む』
『雨の日は窓際ではなく中央席に座る』
『蜂蜜菓子を持っていた』
そんな取るに足らない記録ばかり。
まるで恋を知らない子供みたいだ、と自嘲したこともある。
けれど、やめられなかった。
彼女を知るたび、もっと知りたくなってしまったから。
あの日。
図書室で地図を広げた時。
二人の指先が触れそうになった瞬間、エレーナは弾かれたように手を引いた。
カイルは今でも、その時の彼女の表情を忘れられない。
怯えたような瞳。
逃げるような仕草。
だから思ってしまった。
嫌われているのだ、と。
自分のような武骨な男に近づかれることを、彼女は不快に思ったのだと。
そして舞踏会の夜。
彼女はどこか泣きそうな顔で笑っていた。
カイルはそれを見て、胸が締めつけられた。
――王子と踊りたかったのだろう。
そう思った。
当然だった。
誰だって光へ惹かれる。
優しく、美しく、未来を約束された王子へ。
それなのに、自分は何を期待していたのだろう。
たった一曲踊れたくらいで。
彼女が少し微笑んでくれたくらいで。
まるで夢を見たみたいに浮かれて。
愚かだった。
カイルはゆっくり目を閉じる。
耳の奥に、ワルツの旋律が蘇る。
腕の中に感じた細い身体。
震える呼吸。
自分を見上げる灰色の瞳。
近かった。
苦しいほど。
もしあの時、衝動のまま抱き締めてしまっていたら。
行かないでほしいと、口にしてしまっていたら。
何かが変わっていただろうか。
けれど、そんな資格は自分にはない。
王子のために生きると決めた人間が、一人の少女を幸せにできるはずがなかった。
だからこれでいい。
これで。
そう言い聞かせるたび、胸の奥が軋んだ。
翌朝。
北方へ向かう行軍隊は、まだ薄暗い早朝に王都を出発した。
もう春だというのに雪が降っていた。
白い世界の中を、騎馬隊が静かに進んでいく。
吐く息は白く、軍靴が雪を踏みしめる音だけが規則的に響いている。
カイルは隊列の先頭にいた。
濃紺の外套には雪が降り積もり、肩口を白く染めている。
彼は一度も後ろを振り返らなかった。
振り返れば、戻りたくなってしまう気がしたから。
けれど、学園の正門が見えた時。
カイルはほんの一瞬だけ視線を上げる。
校舎の一角。
高い窓。
淡いカーテンの揺れる部屋。
そこに、誰かの姿がある気がした。
けれど雪が視界を遮り、確かめることはできない。
カイルは目を細める。
そして何も言わず、再び前を向いた。
一方その頃。
エレーナ・ヴィニエは、自室の窓辺に立っていた。
白く煙る景色の向こうを、静かに進んでいく騎馬隊を見つめている。
胸が痛かった。
行かないでほしい。
そう願う資格すら、自分にはない。
だからただ、祈ることしかできなかった。
どうか無事で。
どうか、生きて戻ってきてください。
窓硝子へ触れた指先は冷たい。
遠ざかっていく背中は、雪の中へ少しずつ溶けていく。
カイルが最後に自分の部屋を見上げたことを、エレーナは知らない。
エレーナが窓辺から見送っていたことを、カイルも知らない。
二人は同じ場所で、同じ痛みを抱えていた。
それなのに。
互いに、自分は脇役なのだと思い込んでいた。
誰かの物語を支えるためだけに存在する人間なのだと。
だから、この恋は始まる前に終わったのだ。
決定的な失恋として。
誰にも知られぬまま。
静かに胸の奥へ閉じ込められたまま。
けれどそれは同時に、始まりでもあった。
雪の下に埋もれながら、消えずに残る熱。
琥珀の中へ閉じ込められたみたいに、永遠に失われない時間。
二人の物語は、まだ誰にも知られていない。
ただ静かに、運命だけがその続きを見つめていた。




