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玻璃の箱庭~あなたの失恋を、私だけは知っている~  作者: 硝子細工の森


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最初で最後のワルツ

 午前中に卒業式が終わり、夜になると卒業を祝う舞踏会が開かれる。

 卒業舞踏会の夜、王立学園のホールは眩い光に包まれていた。

 無数のシャンデリアが高い天井から輝き、磨き上げられた大理石の床へ黄金色の光を散らしている。壁際には季節外れの白薔薇が飾られ、甘い香りと弦楽器の旋律が、夢のように広いホールを満たしていた。


 笑い声。グラスの触れ合う音。華やかなドレスの裾が翻る気配。誰もが未来を語り、別れを惜しみ、この一夜を青春の終幕として胸に刻もうとしている。


 けれどエレーナ・ヴィニエだけは、その煌めきから少し離れた場所に立っていた。壁際の人々の輪から半歩退いた位置。果実水のグラスを両手で包み込みながら、静かに会場の中央を見つめていた。


 第一王子と、妃と決まったリリア。スポットライトの中心で踊る二人は、まるで物語の結末そのものだった。王子は誇らしげに微笑み、男爵令嬢だったリリア・フェインは、祝福の光を一身に浴びながら優雅にステップを踏んでいる。


 誰もが羨む恋。誰もが憧れる結末。この学園で幾度となく囁かれてきた恋物語は、今まさに幸福な幕引きを迎えようとしていた。


 エレーナはそっと目を伏せる。その光景を見るたび、胸の奥が静かに痛んだ。


 ――カイル様。


 無意識に、その姿を探してしまう。けれど彼は中央にはいなかった。王子のすぐ傍で控えているはずなのに、今は人混みの中へ紛れて見えない。


 それでもエレーナにはわかっていた。きっと彼は、どこかで王子を見守っている。いつものように。自分の感情を押し殺したまま。


 明日になれば、カイルは北方へ旅立つ。雪と氷に閉ざされた地へ。危険な任務へと。

 エレーナは果実水を一口飲んだ。柔らかい甘さが喉を滑っていく。けれど胸の苦しさは少しも消えなかった。


「ヴィニエ嬢」

 低く落ち着いた声が、背後から響く。その瞬間、心臓が止まりそうになる。


 振り返ると、そこにカイル・ローウェルが立っていた。軍礼装に身を包んだ姿は、普段より遥かに鋭く美しかった。濃紺の礼装には銀糸の刺繍が施され、肩章には王家の紋章が輝いている。黒い革手袋に包まれた手。凛と伸びた背筋。まるで物語の中から現れた騎士のようだった。


 眩しい。あまりにも。


 エレーナは息を呑み、視線を逸らしそうになる。こんな姿を見てしまったら、きっと忘れられなくなる。


「……カイル様」

「一曲、お願いできるか」


 差し出された手を見つめる。

 黒い手袋越しの指先。

 本当は逃げ出したかった。

 期待してしまうから。勘違いしてしまうから。


 けれど――。


「……はい」


 気づけば、エレーナはその手を取っていた。

 温かかった。手袋越しでもわかるほどに。


 カイルは静かに彼女をエスコートし、ホールの中央へ導いていく。眩い光の中へ足を踏み入れた瞬間、エレーナは息苦しさを覚えた。


 自分はここにいてはいけない。本来なら、この場所に立つべきなのはリリアだ。カイルが本当に踊りたい相手は――。


 オーケストラがワルツを奏で始める。カイルの手がエレーナの背へ添えられた。その距離の近さに、鼓動が跳ね上がる。


「緊張している?」

 微かに笑いを含んだ声。エレーナは視線を伏せた。

「……少しだけ」

「大丈夫。君は上手いよ」

 静かな声だった。優しくて、苦しくなるほど。


 二人はゆっくりと踊り始める。滑るようなステップ。旋律に合わせて揺れるドレスの裾。カイルのリードは驚くほど丁寧で、まるで壊れ物を扱うみたいだった。その優しさが、余計に胸を締めつける。


「カイル様」

「うん?」

「……お相手は、よろしいのですか」

 言葉を選びながら、エレーナは小さく続ける。

「リリア様を、お誘いにならなくて」

 一瞬だけ、カイルの表情が止まった。それから彼は小さく苦笑する。

「僕の場所は、あそこじゃない」

 低い声。穏やかで、それでいてどこか寂しげだった。

 彼の視線が、ホールの中央をかすめる。王子とリリアが笑い合っていた。祝福の中心。光の集まる場所。


 カイルは静かに目を細める。

「それに」


 彼の声が、少しだけ近づく。

「今日は、君と踊りたいと思っていた」


 その瞬間、胸の奥へ鋭い痛みが走った。優しい言葉だった。あまりにも優しくて、残酷だった。


 エレーナは知っている。彼が本当に欲しかったものを。本当に隣に立ちたかった相手を。

 だからこれは、慰めなのだ。届かない恋を諦めるための、一時の逃避。彼は失恋した自分を誤魔化すために、私を誘ったのだろう。


 ――それでもいい。


 エレーナはそっと目を伏せた。

 たとえ代わりでも。身代わりでも。この瞬間だけは、彼の腕の中にいられる。それだけで十分だった。


 ワルツの旋律が高まっていく。二人は音楽に溶け込むように回り続けた。シャンデリアの光が滲む。人々の笑い声が遠くなる。世界がぼやけて、カイルの存在だけが鮮明になる。


 近い。あまりにも近い。耳元で、彼の呼吸が聞こえる。そして――鼓動。速く、激しく、抑えきれないほど乱れている。


 エレーナは息を呑んだ。苦しいのだ。愛する人を目の前にしながら、その想いを告げられないことが。王子への忠誠が、彼を縛っている。だから彼は、こんなにも苦しそうに鼓動を速めているのだ。


 エレーナは泣きそうになるのを堪えた。どうしてこの人は、こんなにも優しいのだろう。どうして誰より苦しい恋を抱えたまま、笑っていられるのだろう。


 曲が終わりへ近づく。最後の旋律が、静かに夜空へ溶けていく。


 カイルはゆっくりとエレーナの手を離した。


「……ありがとう」


 低い声だった。それだけ言うと、彼は深く一礼する。まるで騎士が姫へ忠誠を捧げるみたいに、美しい礼だった。


 そして。彼は振り返らなかった。一度も。そのまま人混みの向こうへ消えていく。


 エレーナは動けなかった。伸ばしかけた指先が、宙で止まる。追いかけたい。名前を呼びたい。行かないでと、言えたなら。


 けれど何一つできないまま、彼の背中は遠ざかっていく。


 頬に、冷たいものが伝った。涙だと気づいた時には、もう止められなかった。ぽたり、と雫が床へ落ちる。


 眩しい光の中で、エレーナは静かに微笑んだ。


「さようなら、私の騎士様」


 誰にも届かない、小さな声。


「あなたの失恋を、私だけは知っています」


 その言葉は、ワルツの残響に溶けるように消えていった。

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