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玻璃の箱庭~あなたの失恋を、私だけは知っている~  作者: 硝子細工の森


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琥珀の記憶

 夜更けの森は静かだった。


 昼間にはあれほど賑やかだった小鳥たちも眠り、窓の外には淡い月明かりだけが広がっている。風が梢を揺らすたび、葉擦れの音が遠い波みたいに響いていた。


 別邸の書斎には、暖炉の火が小さく灯っている。


 ぱちり、と薪が爆ぜる音。


 琥珀色の火が壁一面の本棚を照らし、古い紙の匂いが室内を満たしていた。


 レオンはもう眠っている。


 昼間あれほど走り回っていたのに、寝顔は驚くほど静かだった。カイルに似た長い睫毛が頬へ影を落とし、エレーナはつい先ほどまで、その寝顔を見つめていた。


 幸せだった。


 穏やかで、温かくて。


 時折、怖くなるほどに。


 書斎の机には、一枚の古びた地図が広げられていた。


 北方の地図。


 端は擦り切れ、幾度も折り畳まれた跡が残っている。


 そしてその傍らには、琥珀の指輪。


 灯火を受けた黄金色の中で、小さな青い花が静かに咲いていた。


 エレーナはその花を見つめながら、そっと息を吐く。


「……カイル」


 向かいに座っていたカイルが顔を上げる。


「どうした?」


 低く穏やかな声。


 昔よりずっと柔らかくなった声だった。


 エレーナは少し迷った。


 けれど、ずっと胸の奥に残っていた問いを、今夜こそ聞いてみたいと思った。


「北方で」


 暖炉の火が揺れる。


「死線を彷徨った時……本当に、私のことを思い出してくださったのですか」


 静かな沈黙が落ちた。


 カイルは少しだけ目を瞬かせる。


 まるで、その問いを予想していなかったみたいに。


 それから彼は小さく笑った。


 どこか照れたように。


「……今さら聞くんだな」


「今だから、です」


 エレーナも苦笑する。


「昔なら、怖くて聞けませんでした」


 カイルはしばらく黙っていた。


 暖炉の炎を見つめ、遠い雪景色を思い出すように目を細める。


 やがて静かに口を開いた。


「ああ」


 低い声が夜へ溶ける。


「ずっと、君のことを考えていた」


 エレーナの胸が小さく震える。


 カイルは背もたれへ身体を預け、苦く笑った。


「……実は、北へ発つ前の舞踏会で、僕はかなり絶望していたんだ」


「え……?」


「君が、あんなに悲しそうな顔で僕と踊るから」


 エレーナは目を見開く。


 カイルは視線を落とした。


「ああ、やっぱり駄目だったんだって思った」


 暖炉の火が、彼の横顔へ揺れる影を落とす。


「君は殿下を想っている。僕なんかと踊るのは辛いだけなんだって……勝手にそう思い込んでいた」


 エレーナは思わず額を押さえた。


「また、その誤解を……」


「今なら笑えるけど、当時はかなり本気だった」


 カイルは肩を竦める。


「だから北へ行ったのも、半分は義務で、半分は逃避だったんだ」


 その言葉は、静かだった。


 けれどエレーナにはわかる。


 あの頃の彼が、どれほど孤独だったのか。


 想いを抱えたまま、自分から離れることでしか耐えられなかった。


 カイルはゆっくり地図へ手を伸ばす。


 指先が北方の白い山脈をなぞった。


「北は、本当に地獄だった」


 低い声。


「吹雪で視界は消えるし、仲間は凍死していく。血の匂いより、雪の匂いの方が強くなる場所だ」


 エレーナは黙って耳を傾ける。


「一度、大規模な雪崩に巻き込まれたことがある」


 カイルの瞳が遠くを見る。


「部隊とはぐれて、三日近く雪洞の中で動けなかった」


 暖炉の火が小さく弾けた。


「寒かった」


 ぽつりと落ちた言葉。


「指先の感覚がなくなって、眠ればそのまま死ぬってわかってた」


 エレーナの胸が締めつけられる。


 カイルは苦く笑った。


「不思議だったよ」


「……?」


「意識が遠のくたび、思い出すのは王宮じゃなかった」


 静かな声だった。


「煌びやかな舞踏会でも、栄光でもない」


 彼はエレーナを見る。


 その瞳は、昔図書室でこちらを見ていた時と同じくらい静かだった。


「図書室の匂いだった」


 エレーナの呼吸が止まる。


「古い紙と、埃っぽい陽だまりの匂い」


 カイルの口元が少しだけ緩む。


「君がページをめくる音」


 低い声が、夜へ染み込む。


「窓際の席から、何度も君を盗み見ていた」


「……っ」


 エレーナの頬が熱くなる。


 カイルは続けた。


「それから」


 彼はゆっくり、自分の手を見下ろした。


「地図を一緒に見ていた時のことも」


 エレーナの指先がぴくりと震える。


「あの日、君の手が触れそうになっただろう」


「……はい」


「すぐ引っ込められたから、嫌われたと思った」


「違います!」


 思わず声が大きくなる。


 カイルが吹き出した。


「今は知ってる」


 穏やかに笑う。


「でも、あの頃の僕は本気で傷ついてた」


 エレーナは恥ずかしさに顔を覆いたくなる。


 どれだけすれ違っていたのだろう。


 どれだけ互いを誤解していたのだろう。


 カイルはそっと目を伏せる。


「でもな」


 暖炉の火が彼の瞳へ映る。


「雪の中で意識を失いそうになるたび、最後に浮かぶのはその小さな手の感触だった」


 静かな告白だった。


「冷たくなっていく意識の中で、君の手だけが妙に温かく残ってた」


 エレーナの瞳から涙が零れる。


 カイルは少し困ったように笑った。


「たぶん、執着だったんだろうな」


「……執着なんかじゃありません」


 震える声で答える。


「それは、恋です」


 カイルは一瞬だけ目を見開き、それから静かに笑った。


 柔らかく。


 安堵したみたいに。


 エレーナは涙を拭いながら、琥珀の指輪へ触れる。


 あの日。


 図書室で始まった想い。


 互いを誤解し、すれ違い、遠回りを続けた年月。


 けれど、その全てが今ここへ繋がっている。


 カイルは席を立ち、エレーナの隣へ歩み寄った。


 そしてそっと彼女を抱き寄せる。


 暖かい腕。


 静かな鼓動。


 エレーナはその胸へ額を寄せた。


「私たち、本当に遠回りしましたね」


「そうだな」


 カイルが小さく笑う。


「でも」


 彼はエレーナの髪へ口づける。


「君に辿り着けたなら、悪くない回り道だった」


 窓の外では、月光が森を白く照らしていた。


 静かな夜だった。


 けれど二人の胸には、決して冷えない熱が灯っている。


 琥珀の中の青い花みたいに。


 長い冬を越えてもなお、消えずに咲き続ける熱が。


 彼らはそのまま暖炉の前で抱き合い、過ぎ去った時間を静かに埋め合わせた。


 カイルの指がエレーナの背中を優しく撫でるたび、雪の中で失いかけた温もりが、今ここで確かなものになっていくのを感じた。


「あの時」とエレーナが囁く。


「図書室で、本当は手を握りたかった」


 カイルは微笑み、彼女の手をそっと包んだ。


「今なら、何度でも握れる」


 琥珀の指輪が暖炉の火に照らされ、中の青い花が微かに揺れた。


 まるで、長い冬を経てようやく春を迎えたように。


 遠回りした道のりは、決して無駄ではなかった。


 むしろ、その一つ一つが、今のこの瞬間をより深く、より確かなものにしていた。


 夜はまだ深く、森の静寂が二人を包む。


 けれど、もう孤独ではない。


 雪の記憶も、誤解の日々も、全てがこの温もりへと繋がる。


 琥珀の中の花は、永遠に咲き続けるだろう。


 彼らの想いのように。



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