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玻璃の箱庭~あなたの失恋を、私だけは知っている~  作者: 硝子細工の森


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14/18

名も無き季節の訪れ

 森に、また春が巡ってきていた。


 柔らかな陽射しが若葉を透かし、風が吹くたび木々の梢が淡く揺れる。庭先には色とりどりの花々が咲き、朝露を含んだ花弁が宝石のようにに光っている。


 小川のせせらぎ。

 鳥たちの囀り。

 窓辺で揺れる白いカーテン。

 穏やかな季節の匂いが、別邸いっぱいに満ちている。


 あの日々が嘘のようだった。


 炎に包まれた王都も、胸を裂くような誤解も、脇役として生きるしかないと思っていた頃の孤独も、全て、遠い向こう側へ置いてきたようだった。


 縁側では、エレーナが静かに刺繍をしている。淡い生成り色のワンピースに、薄い藤色のショール。春風が彼女の髪を優しく揺らしていた。


 その隣にはカイルが座っている。昔のような軍服はもう着ていない。簡素なシャツ姿のまま、穏やかな目で庭を見つめている。


 かつて“北方守護者”と恐れられた男だとは、初めて会う人間ならきっと気づかないだろう。

 今、彼の手にあるのは、重い長剣ではない。


「待て待て、レオン」


 カイルが苦笑混じりに声をかける。


 庭を駆け回っていた少年が、ころころ笑いながら振り返った。淡い金色の髪。夜明けみたいな灰青色の瞳。五歳になる息子、レオンだった。


「まだ捕まらないよ!」


 幼い声が弾ける。レオンは花壇の周囲を走り回り、庭の奥へ駆けていく。

 その後ろ姿を見つめながら、エレーナは小さく笑った。


「最近、ますます活発になりましたね」


「君に似て、本が好きな大人しい子になると思っていたんだけどな」


「まあ。どういう意味ですか、それは」


 エレーナが少しだけ頬を膨らませる。

 カイルは肩を震わせて笑った。

 そんな他愛ないやり取りさえ、幸せだった。


 昔の二人なら考えられなかった。


 図書室の片隅で、互いを遠くから見つめるしかできなかった頃。想いを伝えることすら怖がっていた頃。


 あの頃の自分たちへ教えてあげたいと、エレーナは時々思う。


 あなたたちは、ちゃんと幸せになれるのだと。


 庭の向こうからレオンの弾んだ声が響いた。


「お父様、お母様! 見て!」


 小さな両手いっぱいに花を抱え、レオンが駆け寄ってくる。

 白い花。薄青い花。淡い黄金色の花。春の色を集めたようだった。

 その中に、一輪だけ。透き通るような青い花が混じっている。


 エレーナは目を瞬かせた。


「まあ……」


 レオンは嬉しそうに花を掲げる。

「これ、琥珀の中にいた花と同じ色!」


 その言葉に、カイルの瞳が静かに和らいだ。

 エレーナの左手には、今もあの琥珀の指輪がある。北方で見つけた、“消えない花”。

 あの頃は、永遠なんて信じられなかった。

 けれど今、その熱は確かにここにある。

 カイルはそっとエレーナの肩を抱き寄せた。

 春風が三人の髪を揺らしていく。


「本当に、同じ色だな」

 低い声が優しく響く。


 レオンは得意げに頷いた。

「ぼく、この花好き!」

「どうして?」

 エレーナが尋ねると、レオンは少し考えてから笑う。


「なんだか、あったかい色だから!」


 その答えに、二人は顔を見合わせた。

 カイルが小さく笑う。

「……君に似たんだろうな」

「え?」


「物の本当の温度を見るところが」


 エレーナは少し照れたように目を伏せた。


 庭には春の光が満ちている。遠くで風車が回り、小川の水面がきらきらと輝いていた。


 二人の生活は、驚くほど穏やかだった。

 英雄譚の続きを求める者もいるだろう。王都へ戻るべきだと言う声もあった。

 けれどカイルはそれを選ばなかった。この場所をこそ選んだ。エレーナと、レオンと生きる日々を。


 朝には一緒に食卓を囲み。昼には庭を手入れし。夜には暖炉の前で本を読む。そんな小さな時間を、丁寧に積み重ねていく。それが今の二人の幸福だった。


 エレーナは空を見上げる。青く澄んだ春空。かつての日々を思い出す。

 脇役として生きるしかないと思っていた頃。降り積もる孤独に埋もれながら、自分の想いを押し殺していた。


 けれど今ならわかる。あの冬のような時も、無意味ではなかったのだと。

 長い冬があったからこそ、春はこんなにも温かい。傷ついた時間があったからこそ、今の幸福は尊い。

 雪はただ冷たいだけではない。静かに土を潤し、花を咲かせるための季節に繋げるものでもある。


 レオンが再び庭へ駆け出していく。


「お父様、追いかけて!」


「はいはい」


 カイルが立ち上がる。その背中を見つめながら、エレーナは微笑んだ。


 昔、図書室の窓辺で見ていた青年。王子の剣として生きていた騎士。その人が今、春の庭で子供を追いかけて笑っている。


 なんて穏やかな奇跡だろう。


 カイルは振り返り、エレーナへ手を差し伸べた。


「エレーナ」


 春風が吹く。花の香りが舞う。

 エレーナは静かにその手を取った。


 もう二人は、脇役ではない。

 誰かの物語を羨む必要もない。

 名もなき季節の中で。

 名もなき幸福を抱きながら。


 二人は、自分たちだけの物語を生きていた。


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