8.始祖・延時
──親愛なるセオドラへ。
わたくしはもう生きてはいけません。
ラゼリードの紛い物の側に桃色の瞳の白い猫が見えるのです。
わたくしの【ラゼリード】はぐずつきもせず、いい子です。
しかし陛下はわたくし達を省みてくれませんでした。
お足は遠のき、わたくしの可愛い【ラゼリード】にも会おうとせず、……もう限界なのです。
さようなら、セオドラ。
心から愛していました──
王妃アーキアは羽根ペンを置くと、自分の遺書を見直した。
……これでいい。
枕の下から懐剣を取り出すと、ビスクドールの【ラゼリード】に思いっきり突き立てた。
血の一滴すら出ない【ラゼリード】に恐怖を感じ、何度も何度も突き立てた。
◆◆◆
その頃、フィローリは日記を書いていた。何故かハルモニアも一緒だ。
ラゼリードの部屋に行く事も出来ない訳ではなかったが、敵情視察もしたかった。
それに、幼いとはいえ、レディーの部屋へ忍び込むのもなんとなく恥ずかしかったのだ。
そしてひょこひょこフィローリについてきて今に至る。
ハルモニアは日記を横から盗み読みするが、実験、カティの成長記録、シャロアンスと合同の新薬開発研究以外の項目は見当たらなかった。
案外、面白みのない男だとハルモニアは思う。
フィローリの日記より抜粋。
──季節は冬。
もうすぐ雪を割ってカティが花を咲かすだろう。
゛雪紫゛と表現されるその光景の美しさと、僕の仕事量の増えっぷりは反比例する──
意外と詩人かも知れない。
「今年も良いカティが育つといいな」
羽ペンを置き、机から立った瞬間、彼に異変が起きた。
「アーキアさ……ま……?」
『フィローリ?』
ハルモニアの背がもう少し高く、フィローリの背がもう少し低ければ気が付いただろう。
フィローリの瞳の色が金色と、彼の本来の緑色に交互に明滅している事に。
「肩代わりの縛りを……! 駄目だ、致命傷……!」
そのままフィローリは、膝を付く事も無くどさりと床に倒れ込んだ。
膝まである長い金髪が、ぶわりと翻る。
『おい、フィローリ!? フィローリ!!』
ハルモニアにとって敵ともいえるフィローリだが、目の前で倒れられては寝覚めが悪い。
フィローリが亡くなったのは、現実での4年前と聞いた。
だから今すぐ死んでしまう訳ではないと判ったが、目の前で人が倒れるとこんなに肝が冷えるとは思わなかった。
ハルモニアは触れられない事も忘れて、フィローリの肩に手をかけた。
するり、手が通り抜ける。
その瞬間、花が咲き乱れる温室に鎮座する、桃色の瞳を持つ白い猫がハルモニアの脳裏に映った。
長毛種特有の尻尾がふわりと翻り、その瞳は何者をも恐れてはいなかった。
『!?』
今のは…何だ?
桃色の瞳の猫は実在するのか?
幻とも思えない、現実味のある光景に頭が痛む。ハルモニアは小さく唸った。
しかし今はそんな事よりフィローリの安否を……。
そこでふと気付いた。
服の隙間から見えるフィローリの首に赤い筋が光っている。
丁度、そう、頸動脈の辺り。
斬った? 何者かに斬られた?
どちらもその兆候はなかった。
何の前ぶれもなく……いや、「アーキア」「肩代わりの縛り」「致命傷」とフィローリは言っていた。
ならばこれは肩代わりの魔法。
「守護」の魔法持つ精霊だけが使う事の出来る奇跡。
守護する相手の痛みを総て引き受ける、残酷な魔法。
だが致命傷だった場合、痛みは背負うが相手は助からない。
全部、時編む姫から聞いた知識。
──アーキアが死んだ……。
ハルモニアは思い巡らす。
まだ小さなラゼリードがどんなに悲しみ、どれだけの涙を流すか。
それでなくとも母親から疎まれていたのだから、きっと凄く傷付くだろう。
自分が慰められたらいいのに。
過去のカテュリアに来てからハルモニアの願いはことごとく叶わない。
『くそっ! 早く目覚めてくれ、フィローリ!』
ハルモニアがダンッと拳で床を叩くと、倒れ伏したフィローリの、その指がぴくりと動いた。
『フィローリ! 起きたか? 痛いのか?』
言葉は届かないと知りつつ、声を掛けずには居られなかった。
今のハルモニアは完全な傍観者。見ているだけのそれがこんなに辛いとは知らなかった。
『フィローリ!』
すると、ふるる、とフィローリの瞼が震え、間もなく新緑の瞳が現れた。
首に手をやり、血が手に付かないのを確認してから起き上がる。
「……セオドラ陛下にお知らせしないと」
その表情には暗い陰が落ちていた。
無理もないと思う。
愛妻家の国王に王妃が亡くなったと伝えに行くのだ。
重い足取りを共有しながら、フィローリとハルモニアはセオドラの寝室へと向かった。
伝わらないけど、せめて側に。
◆◆◆
夜中に起こされたというのに、セオドラは不機嫌さの一つも見せず、フィローリ(と、ハルモニア)を伴ってアーキアの寝室を訪れた。
セオドラの焦る心が垣間見えるように手が震え、金の鍵がなかなか鍵穴に入ってくれない。
やっと鍵穴に鍵が入ったと思ったら、セオドラはノックもせずに妻の寝室へ乱入した。
灯り持ちのフィローリが続く。そしてハルモニア。
部屋の中は惨状、と表現するしかなかった。
寝台に倒れたアーキアは、左側の首筋から半円状に血飛沫を撒き散らしており、本来は白かった部屋を赤い花の様に染め上げていた。
彼女の腕の中には壊れたビスクドール。
セオドラは唖然としたまま、ふらふらと寝台へと近寄った。
アーキアの頬にそっと触れる。
「冷たい……」
セオドラは崩れ落ち、寝台に突っ伏して泣き始めた。
そこに居るのは王ではなく、気弱なただの男だった。
「アーキア、アーキア……どうして逝ってしまった。私を置いていかないで欲しかった……! アーキア…アーキア……」
血に塗れたアーキアの手を握り、壊れたように妻の名を繰り返し呼ぶ。
だがアーキアの魂は既にこの世になかった。
ひとしきり泣いたセオドラはフィローリに向かって言った。
「アーキアが死んだ時は痛かったのだろうか」
「いえ、痛みは総て私が引き受けました。アーキア様は痛みの一つも感じずに逝かれたかと」
セオドラは鼻を啜った。赤くなった鼻の側をまた一筋涙が伝った。
「そうか。フィローリにも苦労を掛けたな。守護だというだけで痛みを背負わなくてはならないなんて。でも……アーキアが痛くなかったのなら……ありがとう。そしてすまない」
「セオドラ様……」
「少しアーキアと二人きりにしてくれないだろうか。間違っても後を追う様な真似はしないから」
フィローリはセオドラの言葉に頷いて、ランプを床に置いた。
そっと部屋を出る。
ハルモニアも続いた。
「やりきれないね……」
誰かに語り掛けるようにフィローリは言葉を漏らした。
『ああ、やりきれない』
ハルモニアも疲れきって、つい返事をしてしまった。
その時だった。
例の深い声が聞こえてきたのは。
【過去に関わるからそんな目に遭うのだ】
『延時! 姿を見せてくれ!』
【その名を呼ぶなと言ったのに……しょうのない子だ】
パチンと弾けた、と思ったら暗闇の中にハルモニアは居た。
『なんだ!?』
【ようこそ過去へ、小さな末裔よ】
ハルモニアが振り向くと、そこには臙脂色の髪をした男性が立っていた。
ハルモニアは彼の元へと走る。
そして延時の姿を見て絶句した。
『始祖・延時、何故そんなざんばら髪なんだ!?』
【これはざんばらではなくてウルフカット】
『その履き物はなんだ! 破れているじゃないか! 繕えないのか!?』
【これ? ダメージ加工ジーンズ】
『薄いぞ、その衣服は!』
【春物のセーターだから薄いんだ】
『首輪を嵌められているのか…?』
【これは首輪風チョーカー】
ハルモニアにとっては頭にクエスチョンマークが飛び交う延時の衣服だったが、延時にとっては普通の事らしい。
『始祖にとっては普通の事なのか?』
【ああ、そうだ。僕らが生きていた頃はこんな服装が流行していたんだ】
『喋り方も今までと違うようだが……本当に延時なのか?』
ハルモニアの指摘に延時は頬を赤らめて、ゴホンと咳払いをした。
【少しでも威厳を持たせようとした結果なんだ。忘れてくれると嬉しい。小さな末裔よ、名は?】
『ハルモニア。ハルモニア・ラ・ルクラァン』
ハルモニアはピンと背を伸ばして名乗る。王族に相応しい態度で。
延時は頷いた。
【ハルモニア、僕と逢った事でそなたはますます深く過去に取り込まれてしまった。最早、自力での帰還は叶わない】
『自力で帰れた……のか?』
ハルモニアが目を丸くする。
【過去に紛れ込んだ時に、その場で身動きせずにいたらタイムトラベルしなくて済んだ。即ち、月夜が見つけやすかった】
『タイム…トラベル? つくよ?』
聞いた事の無い単語だった。
【そなたの側に居るだろう? 時間に関与出来る女性だ】
ハルモニアはハッと思い立って叫ぶ。
『時編む姫の事か!?』
【今はそう名乗っているのか? まあいい。僕にとって彼女は月夜のままだ】
延時は髪と同じ赤ワイン色の瞳を瞬いた。
【知っての通り、僕は時間を操る異能者だ】
『異能者? 精霊ではないのか?』
【少なくとも昔は異能者と呼ばれていた。精霊と呼ばれるようになったのは、もえぎ、流、ユウヒ、空の四人が地水火風の能力者だったからだろう。僕ら三人の男性陣は異能者だ】
ハルモニアは指折り数える。
『もえぎ様、流、ユウヒ、空、……朧様、延時……残りの一人は司だったか?』
ハルモニアの言葉に延時はパチパチと手を叩いた。
【よく勉強しているじゃないか、小さな末裔】
『お世辞は止してくれ。俺はまだ司の能力を知らない』
【司は分解系の異能者だ】
『分解系…ああ、紙とペンがあったらいいのに!』
【紙などなくとも覚えなさい。小さな末裔】
びしっと指を突き付けられてハルモニアは、たじろぐ。
『は、はい……』
【それでだ、そなたが過去から脱出するには、一つしか方法がない】
『なんですか?』
延時は一呼吸置くと、姿勢を正し、ハルモニアに宣言した。
【最も現在に近い過去に行くのだ。そこでエルダナに会え】
『えっ……父上に? どうして? それで解決するのか?』
【会えば解る】
突然、延時が闇の中に姿を消した。
ハルモニアが焦った声で彼の名を呼んだ。
『延時!』
【これ以上、接触するとますます過去がそなたに絡み付いてマズいからな……】
遠ざかる延時の声に、ハルモニアは悲しみを抑えられなかった。
たった一人、過去に来てから喋ったヒト。
本来なら、此方が頭を下げねばならない立場にありながら、色々と説明してくれた延時。
『感謝する。始祖・延時』
そこはもう延時の作りだした空間ではなく、ハルモニアの背中をカテュリアの朝日が照らしていた。
時を辿る旅は今も尚、終わらないのだ。
父・エルダナに会うまでは。




