7.猫は生かすな
問われ、ハルモニアは反射的に誰何した。
『誰だ!』
【僕だ】
深く響く声の、全く要領を得ない回答にハルモニアが肩を落とす。
『貴方か。今いいところなんだから邪魔をしないでいただきたい』
【小さな末裔よ。帰還よりも見聞を優先すると?】
『優先するも何も貴方にはどうにも出来ないんだろう、えん……』
【その名を言ってはいけない】
プツンとまた途切れた。
ハルモニアは慌てて振り返る。
嗚呼、可愛いラゼリードが! クリスチユという男の子が!
可愛い2人のやり取りが見れなくなってしまう!
手を伸ばせど過去は儚く消えた。
小さなラゼリードの笑みだけが、ハルモニアの瞳に焼き付いた。
◆◆◆
また、違う場所に飛んだ。
ほんの五歳程度のラゼリード、いや、白いブラウスに黒い細袴、水色のタイを合わせた男の子の服装をしているから、名は与えられていなくとも彼はエイオンなのだろう。
幼い王子がハルモニアの前を通り過ぎて、大きな扉の前で立ち止まった。
控えめにノックをする。
「誰です?」
「ラゼリードです、お母様」
「お入りなさい」
ハルモニアは慌ててラゼリードの後を追って、滑り込むようにアーキアの部屋に入った。
寝台には身を横たえたアーキアが居た。
心なしかラゼリードを産んだ直後よりもやつれている。
それに目の輝きが尋常ではないとハルモニアは思った。
美しかった紫の双眸はギラギラと、目の前の我が子を見つめている。
ラゼリードが口を開いた。
「お母様、今日は剣術の稽古で誉められたんです」
ラゼリードがそう言った途端。
アーキアは半身を起こし、羽毛の枕をラゼリードに向かって投げ付けた。
咄嗟にハルモニアがラゼリードを庇ったが、枕はハルモニアを通り抜けてラゼリードの顔に当たった。
うっ、と呻いて顔を押さえるラゼリード。
舞い散る、羽毛。
「わたくしは男児を産んだ覚えなぞありません! なんですかその装いは! まるで王子のよう! それに加えて剣術ですって!?」
『お、おい……なんてことを』
ハルモニアの言葉は誰にも伝わらない。
それでも仲裁に入りたかった。
これでは、あまりにもラゼリードが……。
「出ておいき、化け物! わたくしの可愛いラゼリードはこの子だけよ!」
アーキアは側にあった黒髪の女の子のビスクドールを抱えて叫んだ。
その目は最早正気を失っているようだった。
ラゼリードが弾かれたように部屋を飛び出す。
閉まる直前の扉からハルモニアが続いて飛び出した。
『!』
扉の外には侍女達とフィローリが居た。
「フィローリ、わたし……わたし……」
フィローリが跪く。
その首に腕を回してラゼリードは泣いた。フィローリが壊れ物でも扱うように、そっと彼を抱き締める。
「わたし、化け物なの?」
「違う、そんなものじゃないよ」
「わたし、今日は男の子なのに、ドレスを着なくちゃいけないの?」
「その必要もない。君は君のままでいいんだ、ラゼリード」
「でもお母様は『男の子のわたし』を見るといやがる……」
その先は言葉にならなかった。
嗚咽を漏らすラゼリードをフィローリが抱きかかえた。
「君達、この事はくれぐれも内密に」
人の口に戸は立てられない。けれどもフィローリは侍女達に念を押すと、小さな王子を抱えたまま歩き出した。
どこへ行くともやらなその歩みは、とても優しくゆっくりとしており、ハルモニアは心配そうな顔で見上げつつも、障害物を気にせず側を歩く事が出来た。
「ご覧、綺麗な夕焼けだよ」
フィローリがラゼリードに向けて声を掛けた。
涙に濡れた頬を拭いながらラゼリードが顔を上げる。
「きれい……わたしの中のいやな気持ちが消えていくよ。そうだ! この夕日を見たらお母様だって」
興奮気味のラゼリードに、フィローリは首を横に振った。
「それ、どういう意味?」
フィローリは目を伏せて答えない。それが却って無言の肯定となる。
「お母様は治らないの? ずっとお人形に『ラゼリード』って言い続けるの? ラゼリードはわたしなのに!」
「ラゼリード、アーキア様は君の事が本当は愛おしいんだ。だから人形なのに『ラゼリード』と呼びかけるんだ」
「それだけじゃいや。ちゃんとお母様にはわたしを見て欲しい。お人形じゃない本当のわたしを。でも……無理なのね?」
最後は涙声になってしまい、ラゼリードは再びフィローリの肩に突っ伏した。
ひくひくと震える背中をフィローリがゆっくりと大きな手でなぞる。
ふと、ハルモニアはフィローリの表情に目を止めた。
肉厚な唇を噛んでいる。悔しそうな、寂しそうな、そんな表情だ。
──ああ、フィローリはラゼリードと感情を共有しているんだ。それもラゼリードがこんなに幼い時期から。
──ぽっと出の俺が勝てないのも無理ないか。
そう、ハルモニアが結論付けた時、
急に廊下に連なる扉が開いてハルモニアの顔面を直撃した。
『ぶっ……!』
触れられないのではなかったのか!?
強かに鼻を打ち付け、ちかちかと星がハルモニアの視界を占有する。
一時的な暗転と痛みから立ち直った時には、最早フィローリとラゼリードの姿は無かった。
ハルモニアが立っているそこは、かつてシャロアンスを見たカテュリア王城の外庭だった。
◆◆◆
「いつも無理を聞いてくれてありがとう」
鈴を振ったような可憐な声がハルモニアの耳に届いた。
ハルモニアが声のした方向へ振り向くと、先程より少し大きくなったラゼリードが白い姫袖のドレスの裾を気にしながら──湯気が上がっている事を踏まえて──おそらく厨房の勝手口から出てきた所だった。
このラゼリードは7歳ぐらいだろうか。
その手には袋。
黒髪を靡かせてラゼリードが駆けてくるのを、ハルモニアは眩しいものを見るように見た。
ラゼリードはハルモニアの前を通り過ぎて木立の陰へと直行する。
ハルモニアが後を追うと、そこではラゼリードが白っぽい斑の子猫に魚の切り身を与えていた。
「ポッチリ、焦らなくても沢山あるから、ゆっくり食べるのよ」
『ポッチリ? また珍妙な名だな』
そういえば現実での3年前にハルモニアの名を中途半端に「モニ」と略した人物だった。
名付け方が壊滅的なのは幼少の頃かららしい。
「ポッチリ、また少しぶち模様が大きくなったわね。最初はポッチりとほくろのようだったのに」
『成程、ぶちがポッチリあるからポッチリか……』
将来、ラゼリードがこの身に嫁してくれても生まれる子供の名だけは自分で付けよう。
ハルモニアは幼いラゼリードを目の前に皮算用を始める。
その時だった。
藁箒を持った侍女がハルモニアを通り抜けてラゼリードの後ろに立った。
「姫様、申し訳ありません!」
「えっ」
『何だ!?』
侍女が箒を振りかざし、斑猫をひっぱたいた。
「やめて! 何をするの!?」
ラゼリードが制止するも、侍女は叩く手を止めない。
「王妃様の御命令なのです! 猫は生かしておくなと」
『アーキア妃が!?』
ハルモニアが振り向くと三階の窓からアーキアが、じっと此方を見ていた。
腕の中には黒髪のビスクドール。
アーキアの暗い目が光っている気がしてハルモニアは寒気に襲われた。
「殺さないで!」
ラゼリードが猫を守ろうと身を投げ出す。
侍女の箒を振るう手が止まる。
しかし斑猫はラゼリードの腹の下から逃げ出し、木立の奥へと一目散に走った。
「ポッチリ!」
ガバッと起き上がったラゼリードが後を追って走る。
「いけません姫様! そちらには斜面が!」
侍女は動転の余りに箒を落とし、挙げ句それに躓いた。
ハルモニアは躊躇せずにラゼリードの後に続く。
「待って、ポッチリ! 行かないで!」
必死に斑猫を追うラゼリードには斜面が見えていない。
「あっ……」
ラゼリードの靴が片方脱げた。
目の前には斜面。
ラゼリードの身体が走っていた勢いで浮いた。
小さな王女は吸い込まれるように崖下に……。
ラゼリードは目をぎゅっと閉じた。
『ラゼリード!!』
ハルモニアは一縷の望みを懸けてラゼリードの胴に腕を回し、片手で魔法の火を崖下に放つ。
その手はしっかりと彼女の腰を捕まえていた。
そのままラゼリードを抱いて、ハルモニアは一瞬だけ火の道に入り、火のある崖下へと降りた。
ふわりとドレスの裾と黒髪が翻る。
ハルモニアはほっと息をつく。やはり、ラゼリードにだけは触れられる。
だから……助けられた。
「……?」
ラゼリードが恐々目を開ける。
「ラゼリード!」
そこへ唐突にフィローリが現れた。風の道を使ったのだろう。
ハルモニアはラゼリードから離れた。
先程放った火でくすぶる木の葉を足でもみ消す。
ラゼリードが喜色満面でフィローリに飛び付く。
「フィローリ! あなたが助けてくれたのね!」
「えっ」
『えええっ!?』
誤解もいいところである。
『助けたのは俺だ! ハルモニアだ! ラゼリード!』
地団駄を踏んでも誰にも伝わらない。ここは過去なのだから。
ハルモニアは誰にも気付かれずに一人腹を立てるだけである。
彼は苛立ち紛れに切り株を蹴飛ばした。
つま先に痛みが走る。
痛みもあるのに、ラゼリードにも触れられるのに、伝わらない。
「ラゼリード……怪我が無くて良かった」
ラゼリードを受け止めたフィローリが、一瞬。
ほんの一瞬だけハルモニアの方を見た事を、彼は気づかなかった。
◆◆◆
結局、フィローリは姫を救った守護として更に崇められる事となった。
晩餐にはアーキアを除いてセオドラもクリスチユも、そしてハルモニアの知らない金髪の夫妻もいた。
「フィローリ、苦労を掛けてすまないな」
「いえ、姫がご無事で何よりです」
セオドラの言葉もフィローリは微妙に矛先を変えてかわす。
当然だ。
ラゼリードを救ったのはフィローリではない。
しかしこの過去の世界で斜面を転がり落ちそうになったラゼリードを救えるのはフィローリしかいない。
消去法での賞賛をフィローリは誇ろうとはしなかった。
ただ、ただラゼリードの身を案じる言葉に変えるだけ。
ハルモニアはそれで少し溜飲を下げたが、苛立ちは完全には収まりそうになかった。
フィローリの髪を踏んでやろうとするも、風の元素はひょいと髪を動かしてハルモニアの足を避ける。
ええい、腹立たしい。
ハルモニアの知らぬ夫妻が口を開いた。
「明日は私達がシルオンナート領へ戻るのです。その間、この子を、クリスチユをお願いします。守護フィローリ」
「お任せ下さい、セファーレン殿下、ジザベル妃殿下」
「父様、お土産は本がいいな。シルオンナート領の歴史書などがあれば是非」
クリスチユが目を輝かせてセファーレンの方を向く。
「またかい? クリスチユは本を読むのが早いな」
成程、金髪の男性はクリスチユの父らしい。
という事は王弟だ。
ハルモニアはカテュリアの歴史を脳裏でおさらいした。
しかし、未来に於いてはクリスチユではなくラゼリードが女王として戴冠式を済ませた。
という事は遠からぬ未来にこの夫妻に凶事が降りかかるという事だ。そしてアーキアにも、最終的にはセオドラにも。
人間はどうしてこんなにも脆いのか。
ハルモニアは移動してセファーレンの顔を覗き込んだ。
クリスチユに生き写しだ。
クリスチユが彼の生き写しというべきか。
『俺も父上に似るのかな』
ラゼリードの戴冠式で見た父エルダナ。
ああ、まただ。
また、帰れるのだろうかという不安に襲われる。
『時編む姫……』
銀の髪、銀の瞳。銀細工のような家庭教師を思い出す。
あの手を離すんじゃなかった。
でも、あの手を離したから……幼いラゼリードを救えた。
例え手柄を横取りされようとも、誇りまでは奪えまい。
ラゼリード。俺の初恋。
ふと、ラゼリードを見ると、なんとも悲しそうな顔をしている。
「ラゼリードや、どうした?」
セオドラが娘の様子に気付いて声をかける。
「お父様、ラゼリードは猫を飼ってはいけないのですか?」
セオドラの顔に陰が差した。
「猫は母上の病気に悪いのだよ。ラゼリードや。猫を触りたければ、明日にでも臣下の元に預けた私のリーチィに会わせてやろう。リーチィは真っ白い猫だよ」
「本当!? お父様、大好き!」
しかし。
ラゼリードはリーチィに会う事は叶わなかった。
翌朝、アーキアが黒髪のビスクドールを腕に、冷たい冬に抱かれていた為に。
その事をまだ、ハルモニアもラゼリードも知らないでいた。




