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戴冠 ─蝶々姫第二章─  作者: 薄氷恋


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6.響く声

『エイオン……ああ、まだエイオンという名前じゃないのか。でも、彼はエイオンだ』


 ハルモニアは誰の耳にも届かない言葉を独り紡いだ。


 彼の前に居る黒髪に紫色の瞳の男の子は、今はまだラゼリードと呼ばれるべき存在だった。

 ハルモニアの記憶が、彼にとっての3年前に遡る。


 真珠のような白い乙女が泣きながら口にした、“エイオン・アーシャ”の名の由来。

 詳しく語らなかったが彼女は11歳の時に付けられた名だと言っていた。

 髪と左目の色こそ違えど、目の前の子供と同じ痣を持つエイオンと一緒にエカミナの家で風呂に入った事も思い出し──。


 そこでハルモニアは不覚にも赤面してしまった。

 腰に巻いたタオルで隠しきれなかった、エイオンのなまめかしい白い脚を思い出したのだ。


『俺、ラゼリードと知らずの内に沐浴したのか。あの時は既にあの人が好きだったけれど、よくよく考えるとあれもラゼリード……は、鼻血が出そうだ』


 ハルモニアが鼻に手を当てている間に、シャロアンスは動いていた。

 床に跪いて診察用の鞄から虫眼鏡のようなものを取り出し、幼子の胸の紋様に翳す。

 怯えたラゼリードが一歩下がろうとした所をフィローリが抱き止めた。

 ぽぅっと虫眼鏡が青く光る。

シャロアンスが素っ頓狂な声を上げた。


「フィローリ、これ刺青じゃないぞ。痣だ。全くの天然物。でも以前見せてもらったラゼリード姫の痣とは位置が違う」


 フィローリもまた驚いた様だった。


「痣!? この模様の痣を持つ子供が他に居るなんて、そんな馬鹿な。それにこの子はラゼリードだよ。少し話しただけで僕には判る」


 ざわざわと室内の侍女達がざわめく。

 それは控えに集まっていた侍女達にも伝播した。

 いや、違う。

 控え部屋がざわめいたのは別の原因だった。

 ハルモニアが振り返ると同時に入室したのは他の誰でもない、娘を溺愛する国王セオドラと、王妃アーキア。

 シャロアンスとフィローリがそれに気付き、姿勢を正し頭を垂れた。

 立ち尽くすのは闖入者であるハルモニアのみ。彼には跪く理由がなかった。跪いたってどうせ見えないのだから。


「頭を上げよ、発言を許す。ラゼリードに何があった? 誘拐であるとの報せの次には、姫が取り替え子に遭ったとも報せがあった。何が真実か? そこに居るのはラゼリードではないのか?」


 国王の問いにフィローリとシャロアンスが顔を見合わせる。暫ししてフィローリが口を開いた。


「結論から申し上げますと、ラゼリード様は何らかの要因で男児になられたとしか思えないのです。痣の位置も性別も違いますがこの方はラゼリード様です」


「そのような話が信じられると思うか? 似たような彫りものをさせた子を残すという巧妙な手口の誘拐ではないのか?」


 今度はシャロアンスが口を開いた。


「カテュリア国王陛下。恐れながら、この方の紋様は刺青ではなく天然の痣でございます」


「それがどうしたというのだ」


「もし王女殿下の紋様の位置を知る者が犯人ならば、ちゃんと紋様の位置を同じくする筈です」


「むう。シャロアンス、そなたの言う通りではあるが……たまたま痣と顔の似た子が手に入っただけではないか?」


 セオドラは穏和な日頃の態度をかなぐり捨てていた。

 アーキアは青ざめた顔でセオドラの側に立ち尽くしている。

 そこで小さな男児であるラゼリードが声を上げた。


「とうさま、お顔こわい。ラゼはなぜドレスをきてはいけないのですか? さむいので今日はラゼのいちばん好きな青いお花のドレスがいい」


 セオドラは、うっと唸った。

 強硬な態度を取れば姫を傷つけるが、取り替え子に優しくする義理もない。

 しかしフィローリの言うようにこの言動は紛れもなくラゼリードだ。


「ら、ラゼリード…かな?」


「はい、とうさま」


 呻くようなセオドラの声にも裸の“王子“は、きびきびと答える。


「うう…」


 反対にセオドラが再び呻いた。

 何もかもが八方手詰まりに思えた時、微かな音が聞こえた。


  じ… じじ… じ…


 音に最初に気付いたのはフィローリだった。


「も、紋様が!? 書き換わっている!?」


 シャロアンス、セオドラ、アーキア、侍女達、そしてハルモニアも彼の声を機に一斉にラゼリードを見た。


 それはとても異様な光景だった。


 ラゼリードの胸に伸びた黒い片翼の紋様が上から徐々に消え、替わりに黒い蝶の紋様がゆっくりと現れる。

 まるで羊皮紙から文字を削り、新たな文字をペンとインクで刻むように。

 蝶が完全に現れても羽根はまだ消え続けていた。微かな音を立てながらじわじわと。

 声を上げる者は誰も居ない。

 誰しもが驚愕に息を飲んで、姫に起きた異変を見た。


 やがて脇腹を起点とする羽根が消える時、同時にラゼリードから男の証がふっつりと消えた。

 “男児から女児に戻った”のだ。

 それも衆人監視の元で。


「ば、化け物……」


 アーキアはそう呟くと糸が切れた操り人形の様に失神した。


『化け物だって!? 己が娘になんて言葉を!』


 ハルモニアは自分が受けた侮辱のごとく憤慨するが、誰にも伝わる筈もない。

 侍女達の中にはアーキアと同じく気絶してしまう者も少なくなかった。

 軟弱な、とハルモニアはまた憤る。


 大騒ぎになった王女の部屋の中、当事者であるラゼリードは何が起きているのか露知らず、小さくくしゃみをして、フィローリにタオルでくるまれていた。


 ──これがハルモニアが目撃した1833年のラゼリード両性発覚事件の全てである。


◆◆◆


「ラゼリード様が男の子になられた、とは?」


 丸い顔、丸い鼻の白衣を着た若い男性が目を瞬いた。

 ハルモニアもまた目を瞬いた。

 目眩もしていないのに、景色が変わったからだ。


 窓から景色を見ると日は傾いて夕焼けとなっている。


 斜光差し込む部屋の中にはシャロアンスとフィローリと、青い生地に花柄のドレスを纏った幼いラゼリード。

 ラゼリードはフィローリの腕の中に収まっている。

 フィローリが口を開く。


「デセール殿、今お話した事が全てです。今朝、アーキア様がお倒れになったのは」


「いえ、それはわかりました。ですが性別が変わるなど、とても信じがたく…」


 デセールと呼ばれた医師(だろうとハルモニアは見当を付けた)は、おろおろと3人を見回す。

 シャロアンスが口を開いた。


「カテュリア筆頭御典医殿。信じがたい事ですが、目撃者も多数いますよ。カテュリア両陛下が一番の目撃者です。そしてこの俺とフィローリも」


「シアリー先生…私はどうすれば」


「んー。これを預けようと思って」


 シャロアンスがデセールに差し出したのは、ラゼリードに翳された青く光る虫眼鏡。


「は、これは?」


「これは魔法道具。『元の姿を見る眼鏡』。これを翳せば、どんな大怪我だろうと元の状態が見えるってワケ。もし姫様の性別が今後また変わっても、刺青じゃなくて痣だって、ラゼリード様本人だって判るように持ってて貰おうかと」


「はぁ……」


 デセールは受け取った虫眼鏡をどうしたものかと手の中を見つめている。


「使い方は簡単、翳すだけ。なんか怪我したとこない?」


「ああ、昨夜、妻と喧嘩をして手に青痣が」


「ヒュー、やるねえ。じゃあそれ見てみよう」


 デセール医師が驚愕の声を上げるのはハルモニアの想像に難くなかった。


「青痣が消えて見えますよ! すごい!」


「消えて見えるだけで治ってないからね」


「本当ですね。いや、それにしても凄い技術ですよ。一度はルクラァンに行ってみたいものです!」


 魔法道具の使い方を指南するシャロアンスの脇、ラゼリードがフィローリの腕の中、“ハルモニアの方を見ながら”小さく呟いた。


「だぁれ?」


『えっ!?』


 ハルモニアの胸がドキンと鳴った瞬間。

 プツンと小さな音を立てて景色が暗転した。


◆◆◆


【僕の魔法で迷い込んだか】


『だ、誰だ!?』


 真っ暗闇の中、ハルモニアは自分が立っているのかすら分からなくなった時、誰かが囁いた。低く豊かな男の声。

 どこから聞こえてくるのか。

 小さな囁きはとても大きく聞こえた。


【可哀想な小さき末裔よ。しかし僕にもどうする事も出来ない。僕の魔法だが僕が行使したのではないから】


『貴方の魔法じゃない?』


【是。右手が右手を助けられないように、僕には何も出来ない】


『魔法…まさか貴方は』


【その先を言ってはいけない】


 プツンとまた、途切れた。


◆◆◆


 急に開けた視界にハルモニアは目を擦った。

 明るい。ここは何処だろう?

 見覚えの無い白い部屋の中は応接室のような造りだった。

 革張りのソファー。大理石の低いテーブル。

 淡い緑のカーテンが、窓からの風に揺れている。

 部屋にはまだ誰もいない。


『誰もいない場所じゃ移動も出来ないじゃないか』


 ハルモニアが唇を尖らせた所、カチャリと音がして背後の扉が開いた。


『ラゼリー……』


 言いかけた言葉は途中で途切れた。

 入ってきたのは数人のお供を連れた金髪の男の子だったからだ。

 歳の頃はまだ5歳か6歳といったところだろうか。しかしその歳に似つかわしくない分厚い大きな本を脇に抱えている。

 子供はソファーに座ると本を開き、ポケットから片眼鏡を出すと右目に装着した。


「下がっていいよ」


 侍女達が退出の挨拶をしているのを後目に、子供は本に顔を近づけて読書を始めた。

 侍女の一人が聞こえよがしに「あんなに小さいのにすっかり本の虫なんだから」等とぬかしても彼は全く反応しない。

 ハルモニアは興味を惹かれて金髪の子供に近寄ってしゃがみ、顔を覗き込んだ。


『あ、すみれ色…』


 ふんわりとした金の髪が落ち掛かる額の下に、細い金色の眉と薄い瞼、そしてきらきらと知性の輝きを見せる紫色の瞳があった。

 その瞳はエイオン──ラゼリードの右目によく似ていた。


 カチャリ。扉が開く音。


「チユにいさま」


 鈴の様な可憐な声がハルモニアの耳に届いた。

 扉からまっしぐらに飛び込んできたのは小さなラゼリードだった。後から侍女達も続く。

 みどりの黒髪を愛らしく頭の両脇で束ね、くるりと巻いてある。

 ハルモニアは余りの愛らしさに腰を抜かしそうになりながら、ラゼリードにぶつからないように部屋の隅に逃げた。

 本を読んでいた子供が本から顔を上げる。


「チユって呼ばないで。僕にはクリスチユって名前があるんだから」


「だって長いわ」


「あとにいさまと呼ぶのも駄目だよ。ラゼリードは王位継承権第2位で、僕は3位なんだから。僕は所詮いとこ」


「じゅんばんなんてどうでもいいわ」


 ハルモニアはラゼリードの従兄、クリスチユの父が第一王位継承者なのだと当たりをつけた。今のラゼリードはあまりにも幼い。


 ラゼリードは紫色のドレスをたくし上げてソファー──クリスチユの隣に上ろうとする。侍女が慌てて駆けつけるもクリスチユと呼ばれた少年が助け舟を出した。

 ちゃんと座らせてやり、ドレスの裾もきちんと直してやる。

 仕上げにラゼリードの頭を撫でてやるという事までやってのけるとラゼリードが、うふふ、と満面に笑みを浮かべた。

 幼い少年にしては百点満点の淑女の扱いにハルモニアは感心した。見習わなければ。


「チユにいさま」


「チユじゃないって」


「じゃあなんて呼べばいいの?」


 幼いラゼリードが首を傾げると、くるんと巻いた髪がふるりと揺れた。


「クリスチユ」


「長いわ」


「長くなんてないよ。ラゼリードと同じ長さだよ」


「そうかしら」


「そうだよ」


 ラゼリードが微笑んだ。


「チユにいさまはなんでめがねを片方だけ掛けているの?」


「人の話聞いてる? これはモノクルって言うんだよ。僕の視力を助けてくれるすごいやつさ」


 クリスチユは一瞬呆れて目を閉じたものの、すぐに片眼鏡に手を掛けた。


「視力って何?」


「物を見る力さ。これが無いときみの顔すらぼんやりとしか見えないんだ」


「ものくるってすごいのね」


 ラゼリードとクリスチユの会話を聞いていたハルモニアがたまりかねて吹き出した。

 小さなラゼリードのなんと愛らしい事!

 ハルモニアは心の中で過去に迷子になった事を感謝したが、すぐに”打ち消された。”

 あの、深く響く声に。


【楽しむのもいいが、あまり長居をすると戻れなくなるぞ、小さな末裔】

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