5.シャロアンス
「アーキア様」
フィローリの声は室内によく響いた。
彼はアーキアの手を取り、侍女と赤子のラゼリードを指差すのを止めさせた。
あくまでも落ち着いた声で彼は王妃に話しかける。
「桃色なんてとんでもない色の瞳を持つ猫など、この世には、居ません」
「あ……」
アーキアの紫色の目がぱちくりとしたままフィローリを見る。
「わたくしが見たのは、何、かしら」
「幻です。アーキア様はお産でお疲れなのです。薬草茶をお淹れしましょう。きっと疲れが取れてよく眠れますよ」
言うなり、フィローリはアーキアからそっと手を離し、寝台の側に設えてあったテーブルの上で置いてある硝子の瓶から暗い色をした液体をグラスに入れて水で薄め始めた。
「そうね、そんな非常識な色の…猫などいる訳ないわね。わたくしったら」
アーキアの顔色が元に、否、恥じらうように紅潮した事で室内の侍女達が、ほっとしたように息を吐いた。
何故かハルモニアも同じく緊張の糸を解いた。周りからは姿も見えず、彼自身も訳が分からないなりに緊張感を共にしていたのだ。
「王妃様、姫様のむつきを替えて参ります」
そう言って侍女はラゼリードを連れて続き部屋に下がった。小さな扉がパタンと閉まる。
「この城に猫はもういません」
フィローリが茶を調合しながら言う。
アーキアの瞳がフィローリの横顔をとらえた。
「え…陛下が飼ってらしたあの白い…猫はどうしたの? ほら、あの短いふわふわの毛をした青い瞳の…猫よ。名前はリーチィとかいったかしら」
アーキアは『猫』という単語を口に乗せる度に一瞬の間を置く。
アーキアには猫に対して何らかの心的外傷があるのがハルモニアにも判った。
フィローリは調合しながらもアーキアを見て微笑む。
「アーキア様の為に、臣下の邸宅に預けられたそうです」
「まあ! わたくしの為に…!? ああ…陛下」
「アーキア様、ようございましたね。陛下はアーキア様を一番大事に思って下さったのですわ」
紅潮した頬に感涙を伝わせたアーキアに侍女が近寄り、頬をハンカチで拭った。
フィローリが跪き、曇りの無いグラスに入った紫色の茶を差し出す。
一見する限りは黒すぐりのジュースのようだ。
アーキアは先程までの狂乱ぶりなどまるで無かった事のようにグラスを受け取り、目を伏せ、ゆっくりと口に含んだ。
「あら、美味しい。もっと苦いかと思っていたわ」
パッと目を輝かせるアーキアに、フィローリが笑ってみせる。
「蜂蜜を混ぜてみました」
似ている。
顔も、口調も。ラゼリードに生き映しだ。
彼女がもし銀髪であればラゼリードに見間違えたかも知れない。
心の中でアーキアにラゼリードの面影を重ねそうになる。
──ラゼリード。真珠のような乙女。
ハルモニアは一瞬疼いた恋心を宥めんと、自らの胸を撫で下ろす。
自分が恋する相手は……今は扉の向こうの赤子。
続き部屋の扉へ振り向くと、案の定、目が回った。
また移動か。慣れとは恐ろしいものだ。
──と思ったら。
ハルモニアは自分の置かれた場所に驚愕した。
尖塔を戴いた白い城は朝日を照り返し、茂る緑は煌々と眩しい。
……そして城に劣らぬ立派な城門。
城門の外には兵が二名立っている。
『外じゃないか!』
何故こんな所に飛ばされたのだろう?
今居る場所はいつの時代のカテュリアなのか。
いや、そもそも場所はカテュリアなのか?
ハルモニアは城を外から見るのは初めてなだけに、確信を持てずにいた。
そこへ現れた人物は──
「おはようございます。貴国の守護フィローリの定期健康診断に参りましたシャロアンス・シアリーです」
『シャロアンス!?』
振り向けば、城門の外で身分証明書を兵に提示してみせるシャロアンス。
程なくして開けられる城門。
『……という事はここはカテュリアで間違いないんだ!』
腰まである長い茶色の髪をゆったりと風に流しながら歩くシャロアンスは、白い薄物に黒い細袴。
右手に黒の大きなトランクを持っている。
左手はポケットの中に。
そんな彼がハルモニアの前まで来て……通り過ぎた。
『シャロアンス! シャロアンス!』
ハルモニアは大混乱に陥りながらシャロアンスを追う。
ハルモニアにとってシャロアンスはルクラァン王宮の筆頭御典医だ。
性格や振る舞い(主に女性関係)に多少難あれど、ハルモニアの事は王太子である事を抜きにして可愛がってくれている。
そんな彼がハルモニアを目の前にして無視するなど有り得ない。
『シャロアンス! シャロアンス、聞こえないのか!?』
ハルモニアが焦れてシャロアンスの左腕を掴んだ。
途端に恐ろしく冷たい氷水に手を突っ込んだような感覚がして、ハルモニアの指はシャロアンスの腕を通り抜けてしまった。
『ああ…』
ハルモニアの口から絶望の声が漏れる。
この世界のラゼリードのように、現実でのハルモニアの知り合いならば触れられると思っていた。
しかし実際にはそうではないらしい。
「……?」
シャロアンスが立ち止まった。
ハルモニアも一縷の望みを託してシャロアンスを見上げる。
シャロアンスはポケットから左手を抜き、しげしげとハルモニアが通り抜けた腕を見つめる。
「気の所為か? 今、何かに当たった気がしたんだが…」
『気の所為なんかじゃない!』
ハルモニアが喚くが、シャロアンスに聞こえる筈も無かった。ここは過去なのだ。
やがてシャロアンスは首を傾げたまま城へと向かう。
ハルモニアもシャロアンスの後を追って城へ入った。
◆◆◆
過去の世界に来て解った事がいくつかある。
まず、ハルモニアの姿は誰にも見えない。
鏡にすら映らない。
人々に触れると通り抜けてしまう。
触れられるのはラゼリードのみ…らしい。
これも確定ではない。ラゼリードに触れたのは一度だけ。
何かのまぐれだったのかも知れないからだ。
なのに扉は開けられないし、すり抜けられない。入退出する相手に便乗しないと移動も出来ない。
そしてハルモニアは腹も空いたりしなければ飲み水の一滴も必要無かった。
更にハルモニアは真冬用の出で立ちだが、暑さ寒さを一切感じない。
故に彼はシャロアンスやフィローリ、侍女達の服装で季節を判断するしかなかった。
今、ハルモニアが背を追っているシャロアンスは夏でも長袖を着るような人物だからあてにならない。
しかし通りかかった侍女の衣は半袖。
晩春…いや夏か?
シャロアンスは王宮の端に向かっているらしい。
というのも、窓から見える整えられた庭園の花々がまばらになってきているからだ。
実際、アーキアの部屋の前はこれでもかという程、華美な花畑になっているのをハルモニアはさっき見ている。
シャロアンスは医務室と小さな札の掛かった部屋へと入る。
ハルモニアも締め出されまいと、シャロアンスにくっつきそうになりながら扉をくぐった。
開いた窓際に椅子を置き、片膝を立てて座っているのはフィローリ。その視線は中庭へ。
金色の朝の光を浴びて、彼の長い長い金髪は物語に出てくる妖精が魔法の粉をまぶしたかのよう。
一瞬シャロアンスがたじろいだ気配がした。ハルモニアはひょこっとシャロアンスの背後から彼の顔を覗き見る。
「よ、よう、フィローリ。居るなら言えよ」
シャロアンスはあからさまに慌てている。
フィローリが振り向いた。にこりと天使が笑う。
「やあ、久しぶり、シャロ。長旅おつかれさま」
「おい、長旅って言うな。そりゃお前ほど魔力は無いからさ……いくつか駅を中継したけど」
シャロアンスがトランクを医務室の机に置きながら、悪態をつく。
フィローリが椅子から立ち上がった。
「そういう意味で言ったんじゃないよ。シャロも忙しいのに僕の為に時間を割いてくれてありがたいなって、……もう、みなまで言わせないでよ」
「フィ、フィローリ」
「いつも通り『フィー』って呼んでくれないと、脱がないよ?」
フィローリがシャツのボタンに手を掛けた。膨れたように厚い唇を尖らせている。
なにを動揺しているんだ、シャロアンス?
というかフィローリは何故こんなに決めポーズに芝居掛かった台詞を放っているんだ。正直気持ち悪い。
ハルモニアには彼らの絆が解らない。
くくくっと笑い声が漏れた。ハルモニアが見上げる。
笑ったのはシャロアンスだ。
「フィー……それ、女の子の仕草みたい」
「あ、やっぱり? ちょっと色気を出してみようかと思ったけど、失敗だったかあ」
「失敗どころじゃねーよ。大惨事」
くすくすとフィローリも笑う。その笑顔は侍女や王妃に向ける仮面的なものではなく、心を許した笑み。
『えっと…シャロアンスはフィローリと友達だった…んだよな? 確か』
返ってくる言葉も無いが、ハルモニアは口に出して現状を整理する。
王宮で聞いた事がある。
シャロアンスはルクラァン王宮の御典医ではあるが、たまの休みを返上してフィローリ、そしてラゼリードも診察していると。
精霊が少ないカテュリアでは精霊を診る医者も不足しがちである。
シャロアンスが派遣されるのも無理のない話だ。
「それで? 今日は何を調べたいの?」
フィローリが口を開いた。
「身長体重、血液検査、魔力測定」
「じゃ、脱がなくてもいいね」
シャロアンスがトランクを開けようとしたその時だった。
「誰かーー!!」
「フィローリ様をお呼びしてー!」
中庭を挟んだ3階の塔から悲鳴が上がった。
つい先程まで笑っていたフィローリが笑みを消す。
「何かあったみたいだ、行ってくる」
「おうよ」
シャロアンスは心得たもので、窓から入ってくる風に身を任せて姿を消すフィローリを見送る。
彼はそのまま机に寄りかかった。
「アーキア王妃の猫嫌い…か。俺が診れたらいいんだけど、グランデル家付きの医者の面子もあるしなぁ。……ん? ちょっと待てよ? あの塔、確か3歳になる王女の部屋じゃなかったか?」
シャロアンスの独り言にハルモニアが仰天する。
つい先程まで赤子だったラゼリードがもう3歳!
どうして3年近くも年代が飛んだのだろう。思考しても彼には時編む姫に言葉を届ける術が無かった。
そこへ、『声』が飛んできた。
──シャロ、シャロ! 3階の王女の部屋まですぐに来て! あ、診察道具も持ってきて!─
シャロアンスが眉を顰める。
「フィローリの念話だとぉ? なんなんだ朝っぱらから」
シャロアンスは開けかけのトランクを閉めると、やや乱暴に取っ手を掴んで部屋を出た。
ハルモニアもシャロアンスに付いて走る。
ハルモニアには何が起きたか予想が大体ついていた。
この時期にラゼリードが城中を揺るがせた事態は確か時編む姫から聞いた筈。
うん、俺の記憶に間違いはない。
シャロアンスが息を切らして階段を登る。
「やだねえ、俺とした事が…こんな階段ごときに…」
そこから先は言葉が続かなかった。
『だらしないぞ、シャロアンス』
ハルモニアは出来る事ならシャロアンスの手を引いてやりたく思った。
そんな事をしたら、シャロアンスは嫌がるだろうがな。
3階に辿り着いた時にはシャロアンスは無残なぐらい消耗していた。
呼吸を整え、扉を叩く。
侍女が扉を開くと、シャロアンスは失礼を詫びながら入室した。
勿論、見えないハルモニアも一緒に入る。
途端、シャロアンスが立ち尽くした。
ハルモニアが顔からシャロアンスにぶつかり、またしても切れるような氷の冷たさを味わった。
ハルモニアは慌ててシャロアンスの横に立つ。
その部屋には侍女が沢山たむろしていた。
ひそひそと侍女達が囁く。
──取り替え子──
──誘拐──
──いつの間に──
「……フィローリ?」
「シャロ、こっち」
フィローリが奥の部屋から顔を出した。
シャロアンスが侍女達の間を抜けて奥の部屋に入った。
子供用のバスタブの側、黒髪の子供と跪くフィローリ。
「フィローリ、さむい」
幼い声が部屋に小さく落ちた。
「殿下……少しだけ我慢なさって下さい。シャロアンス、見て」
フィローリが幼いラゼリードの体からタオルを剥がす。
右の背中に小さな蝶の紋様。
タオルを剥ぎ取られた勢いで、くるりと回った王女は──
──紛れもなく男の子だった。
左脇腹から胸へと伸びた黒い片翼の紋様。
『エイオン……』
ハルモニアが三年前にエカミナの家で見た、あの羽がそこにあった。




