#84 愛の挨拶
ピアノは、父親の――趣味と呼べるほどではない遊びの一つだった。理由は、なんとなく知っている。学生時代、母さんと出会った頃、母さんが父さんに課した無理難題のうちの一つだったんだろう。かぐや姫よろしく、母さんは面白がってたくさんのことを要求したらしい。それはそれは、努力が必要なことばかり。
家にはグランドピアノがあった。母さんは俺にピアノをやらせたくて、父さんにねだったもので一番高価なものだったらしい。
「すごく久しぶりだな」
だから大目に見てほしい、なんて口には出せない。自分からプロを目指す人に喧嘩を売ったのだ。音楽の良し悪しを事細かに評論するほどの知識がけいさんになかったとしても、そんな志の人と同じだけの熱意を見せるのは容易いことじゃない。
得意だったから、自信があるのか。自分はピアノが好きだったろうか。わからない。けれど、なんだか興奮していた。こうしてけいさんに告白する権利を得た時に弾くために、ピアノをやっていたのかもしれないとすら思う。
父さんが、母さんにせがまれて必死で練習した曲。きっとぼろぼろだったのだろうけれど、よく弾けたものだと思う。あの不器用な父が、習ったこともないのに。
「これ、知ってる」
口角が上がる。気持ちが良い。自分もすごく好きな曲だ。日本にいた時の母さんがリクエストしたものなのだから、きっと日本でも有名なのだとわかっていた。
ずっと昔、ピアノを習い始める前、母さんをピアノの下に寝かせて弾いたことがあるらしい。グランドピアノの下は、音の聴こえ方が違う。母さんがたどたどしく少しだけ弾いてくれたその音を聴いて、俺は母さんにもそうさせた。
好きって、愛って、そういうものかもしれない。自分が感じ取ったのだ。やりたいと思ったのだ。初めて会ったけいさんに、ドキドキしたこと。指輪を外して、向き合わせようとしてくれたこと。俺も、同じようにしたくなった。そして、吉澤さんがけいさんを惚れさせたように。
「ありがとう」
呟いた。鍵から指を離す。額に滲んでいた汗を拭って、けいさんを見た。
自然と、手が伸びた。




