#65 heart tone
自分の思考回路は、なるべく他人には覗かれたくない。それはいつからか胸の中で蔦を張るようになった信念だった。だから、初めて彼女に声をかけられた時は、不快を通り越して危機まで覚えた。けれどその後自分の目に入る彼女は、普通よりもずっと人に踏み込もうとしない人間だった。ライブの後意気投合した男性が彼女の父親と知ったとき、宿命から逃げようと思っていた気持ちが、あまりにも昂ぶった。
けいの家に初めて挨拶に行ったとき、彼女は間違いなく困惑していたし、嫌だったはずだった。なのに、彼女は嫌だ、と言わなかった。そんなことは間違っている、と言わなかった。それどころか、どうしてとも聞かなかった。そのとき悟った。彼女は、すばやく目の前の困難から目を逸らし、考えないようにする人だった。それは、本人も無意識のうちに。
けいのその性質は、俺の目的にとってかなり好都合だった。普通の家庭に育った彼女には、心配はできても口や手が出せないような事情がたくさんあった。それを上手くコントロールするのは自分のやるべきことだったし、それ自体はそれほど難しくなかった。普通なら抱き得るはずの人並みの不安を、けいは抱えていたとしても口や態度には出さないし、長年付き合ってみて、気にもしていないから溜まっていくことがないと知った。
涼子は、許嫁の約束を断った後も傍にいてくれた。元々親同士が決めたことで、幼馴染だった自分たちに何か変化が起こったわけではない。彼女はけいとは対照的で、全ての事々に思い悩んでくれていた。
「私には、晴ちゃんを支えることはできないから」
二つ年上の、少し危なっかしくて心優しい幼馴染。小さい頃から、ずっと口癖だった。その言葉は自虐ではなく、形通りの夫婦のように夫を支える妻になるというような生き方は、自分たち二人には似つかわしくないという意味の反抗心だった。
涼子にピアノを聴かせたくなかった。
小さい頃は一緒にピアノを弾いて遊んだ。ピアノを習っていた涼子を羨ましがって始めた習い事だった。一緒に音楽をしてくれる大人と出会ってみたら、涼子から派生したはずのピアノが涼子から離れる理由になった。
だからきっとあんな顔をしていた。忘れなければいけないけれど、友人としていつか回収しなければいけない罪を背負ってしまったのだ。




