#64 乱麻
「ご、めんなさい……。晴貴、くん」
胸が締め付けられるのは、悲しいからでも、彼の気持ちを考えて傷付いているからでもない。おそらくこんな状況になっても、異様としか思えないシチュエーションにならざるを得ないことの違和感に緊迫しているからだ。
「なんで謝るの?」
晴貴くんの抱擁は、迷いがない。しっかりと私を抱きとめ、指の先まで離そうとしない。だからこそ、抜け出そうとするよりもむしろそこに収まっている方が安心する。彼は、そういう人だったのだ。今更になって気付く。南くんが言っていたように、きちんと責任を持ってくれている。自分を主張しようとしない私の居場所を、ここだと囁いてくれる。
けれど私は、南くんのために、自分のために選ぶんだ。否、それは私なりに晴貴くんのことを考えた結果でもある。これが、彼の幸せではないと思っているから。
そっと、しっかりとその胸を押し返す。それなりの力をこめなければ動こうとしなかったのが、彼の意志の強さを感じさせる。私は、彼を傷付けたいのではない。ワガママのように捉えられるかもしれない。けれど、それなりの時間をこんな風に付き合ってきた彼が本当の幸せに気付かないままでいることは、ずっと前から許せなかった。
「話さなきゃいけないことがあるから」
目を見ることができなかった。彼の元婚約者が、彼を想って話すときの笑顔を思い出した。彼女も、本当は怒っているかもしれない。晴貴くんが夢を叶えることを応援しているのだ。こんな形でなくても、それはきっと叶えられるのに。
晴貴くんは何も答えなかった。どんな顔をしているかわからない。私から離れていく腕に、これまでで一番安心した。その時初めて、彼のことを面倒事だと思っていたことに、しっとりとした罪悪感を抱いた。
「私は晴貴くんとは結婚できません」
言ってから顔を上げた。彼の瞳は、少しも揺れていない。いつものように目をしっかり開いて、たくさんの光を湛えている。その唇は、迷うことなく弧を描く。
「どうしてそう思うのか、話して」
笑っていた。彼の笑顔は、嘘ではないと思う。そこまでコントロールされた感情で人と付き合えることが、恐ろしいようで、尊敬もできる。私に対して、怒っても意味がないと知っている。いずれこういう日が来ることも、きっと予期していた。
少しだけ落ち着いた気持ちで全てを話した。晴貴くんとのことで抱いていた思い、涼子さんの気持ち、そして、南くんのこと。晴貴くんは、涼子さんの手を握って、自分の夢を追うべきだということ。自分の幸せを選べなかった私は、南くんと一緒にいるということを選びたいと思っていること。




