#61 浮身
「南 梗介って誰?」
カマは、かけておいた方がいいと思った。けいは隠し事をしない。隠す事なんて何もないから。なのに、今回は最初からすべてが怪しかった。
急なことだったとはいえ、後で家にいないと言うなんて、普通はおかしい。来てほしくないのなら、最初から家にいないと言えばよかったのだ。ただ、最初から断れないのは彼女の性格からしたら驚くことではない。俺に会いたくなくて、あの後策を講じたのかもしれない。
「え……? 大学の、友達だけど……」
聞かなくたって、知ってるけど。けいの大学のジャズ研に行ってみたら、けいは学科ではすっかり有名人みたいだった。有名人の、編入生と付き合ってるって。
内心、焦ってるんだろうか。申し訳ないと思うくらいの気持ちは、彼女にはあるのだろうか。
しかしそんなことは、自分には関係がない。もし、けいが誑かされているのだとしたら、取り戻すだけだ。それがそんなに難しいことだとは思わない。
面倒なのは、そうだな。きっとけいは、幸せというものが椅子取りゲームだという現実には向き合えない。手を繋いでいる人しか座れないその椅子に座りたい俺と彼が、けいを真ん中にして椅子を取り合うことを、理解できないかもしれない。
ターン、と叩いた。けいの部屋のこたつテーブルは良い音を鳴らしてくれる。タララ、タララ、ターン。俺には音楽がある。音楽しかない。そしてけいには俺しかいなかった。そのはずだった。取り戻してみせる。
「南くんって、ピアノやってたんじゃなかった?」
「噂ではね。でも、吉澤くんより上手いってことはないだろ」
拳を握り締めるほど、悔しいと思うなんて思わなかった。普通の女子にはたいていあるはずの普通の愛嬌もなく、ただ素朴で、悪い言い方をしたら素麺みたいな女の子だった。熱意を持って接しても、ほんの少しだけ照れて、ほんの少しだけ気まずそうにして、それだけだった。
いつの間にか、自分を受け入れてくれる人として、大切にしてしまっていたのかもしれない。一人になりたかった。将来のことは考えなくていい、と言われて水槽に沈められるなんて御免だったから。




