#50 夢と愛と幸福
「彼には、既に許嫁がいた。彼女も医者の家系で、親同士の付き合いだった。彼女の父親は晴貴くんの病院ではかなり重要な立場で、親同士は二人が、二人の家族が将来の病院をやっていく未来を想像していたらしいの。けれど、晴貴くんは音楽に目覚めてしまった。才能にも機会にも恵まれて、もう立派に花開きかけていた。だから、自分の両親と、許嫁の両親に、自分の夢を認めてもらおうとした」
「そこでどうして、けいさんがそんなことになる必要があったの?」
「許嫁とは、病院を継ぐ前提での関係だったから、病院を継ぐつもりがないのに結婚するっていうのは、最初から親達にも、晴貴くんにもありえないことだったみたい。けれど、それだけでは、許嫁をいきなり解消した甲斐性なしになってしまうから、私が必要だった。本当に結婚したい人ができたから。その嘘のために、私が必要だったの」
「……けど、それは彼の問題だ」
「それを押し通したのは私の父。晴貴くんを病院の跡継ぎから切り離すために、少しでも家から離れさせるために、私を使えばいいと、晴貴くんに提案したの」
溜め息も出てこない。更に待っているのは、私が父を信じられないと思うようになった大きな事実だったから。
「もっと酷いのはね。許嫁の人は――涼子さんは、許嫁というだけじゃなく、晴貴くんのことが好きなの。私も、会って何回か話したから、これは本当のこと。けれど、なんで、どうして、とか、そんなことは言わなかった。あの人の幸せなら。そう言って、いつも笑ってた。彼女のことを考えるなら、私は晴貴くんのことなんて、突き放すべきだった」
経緯を口にすると、その通りだと自分でも思う。けれど、できなかった。論理ではないのだ。彼がどんな思いで夢に向かって、自分や他人が傷つく嘘をつくのか。その感情のプレッシャーを前に、私は逃げ続けることしかできなかった。
父は違う。涼子さんがそうだとしても、晴貴くんはピアニストになる道を遮られるべきではないと思っていた。
南くんは言うのだろうか。それが、彼の選択なら、と。確かに晴貴くんは中途半端ではない。もはや、私と結婚したいというのは嘘ではないのだ。そこに気持ちがないとしても。自分の親と、幼馴染であり許嫁である人の親と、全ての人に、誠実に責任ある態度をとろうとするほどに、中途半端ではないのだ。
返事を考える南くんの横顔の後ろに、真っ青な空と海が映る。キャラメル色は、お日様に透かされてあまりにも眩しい。眩しいけれど、今の南くんには、『南くん』という仮面も、嘘で隠した建前も、何もない。ただ、私の隣にいてくれる人だ。私のことを、考えてくれる人だ。




