#49 嘘のセディティブ
吉澤 晴貴は、大病院を抱える医者の家系の一人息子だった。当たり前のように医者になって病院を継ぐことを期待され、当たり前のように勉強ができて有名進学校に進学し、今は有名医大に通っているらしい。
最初の頃は、少しだけ受け入れようとしていたのか、興味がなかったのか、反発する気持ちはあまりなかった。結婚なんてものを現実的に考えられるほどの年齢ではなかったし、かつて告白したように、嫌いな相手ではないのだ。かなり変わり者だと知っていたけれど、父親同様、嫌う理由などなかったから。
けれど、ずっと話してくれなかった。何故私と結婚しようとしているのか。何故その話を、父親が自ら持ってきたのか。マイペースな吉澤は――晴貴くんは、事情を聞く隙を与えてくれなかった。そもそも、頻繁に会うというほどでもない。たまに家に来るのがメインで、個人的にやりとりをしたことはなかった。
私が彼に強く当たることはできないと悟ったのと、けれどこの関係を必ずどこかでやめなければいけないと思ったのは、ほぼ同時だった。
まだその頃は嫌いじゃなかった父親に連れられて、高校生だけで立ち入るのは許されないだろうというような、雰囲気のあるバーに行った。母親と、父親と、三人で。晴貴くんは、そこでピアノを弾いていた。暗がりの奥でスポットライトに照らされて、誰にも見られていないようでありながら、その空間をただ一人で作り上げていた。俯いた彼の横顔が、彼に見えなかった。けれど、晴貴くんだった。譜面台に置かれた紙切れをつまみながら流された視線が、私とばっちり合った。その時の、何かを切望し、ひたすらに何かを追いかける、サバンナの獣のような彼の瞳を、忘れられない。
『晴貴くんは、ピアニストになるべきだ』
父の声は、ドキュメンタリー番組のナレーションのようだった。軽い食事を楽しみながら、同い年の男の子ではなく、一人の立派な音楽家である彼の姿を眺めた。父親の一言だけで、なんとなく事情がわかった。けれど、自分にとってそれがどういう意味を成すのか、考えはぐるぐる回って決着しなかった。
演奏が終わり、暗がりに紛れたピアノから、晴貴くんは立ち上がってどこかへ向かう。それは店の裏側でも、私たちのところではなかった。ワイシャツにスラックス姿の彼は、表情のない顔で彼らに深々と頭を下げた。




