#42 南くん
「……なんで、さん付けなの」
そのまま寝たふりをしてもよかったのに、口をついて出たのはそんな言葉だった。
「母さんのこと、恵さんって呼んでるの聞いてたら、いいなって思って」
「…………」
そんなことを聞きたくて聞いたわけじゃない。どうだっていい。南くんに名前を呼ばれてもいいと思えたし、強い違和感を覚えたわけでもない。ただ、動揺を隠したかっただけだった。
「……梗介くんには私しかいないと思ってたから、一緒にいるんだと思ってた。でも、たくさんの人に囲まれてても、私は梗介くんと一緒に話したいと思ったし、ご飯も食べたかった」
核心に迫れないことに、我ながら腹が立つ。きっと、南くんも苦手だ。それで、結局どうなのか、と聞きたいはずだとよくわかる。
「……けいさんって、わかんない」
その声色は、でも、それほど不快そうではなくて。むしろ、面白そうに、興味を含んだ明るい声で南くんは漏らした。
「嘘つくのはやめようって言われたとき、ショックだった。そういう意味じゃなかったのに、俺が色んなことを盾に孤立しようとしてることを言い当てられたみたいで、怖かった。しかも、けいさんは特別だって言いたかったのに全然わかってもらえてなかったから」
今だってあのときの南くんの、「南くん」の言動は私にもわからない。彼は不器用すぎる。もし、南くんがずっと前から私のことを好きだったとしても、不可解な行動がたくさんあった。
「俺、一目惚れだったんだ」
ぽつり、と喉の奥から漏れでる。そんな錯覚を覚える。
「日本に来て、どう振る舞ったらいいかわからなくなってて、他人に勘違いされるままにしてた流れで、確かにたくさん嘘をついた。ありもしないことを言ったし、だからけいさんをたくさん振り回した」
私に声をかけた理由。単に、コーヒーを誰かに押し付けたかったわけじゃなかったし、ドキドキしなかったなんてきっと本当に嘘だったんだ。
「騙してたかもしれない。一緒にいてくれるのが誰でもよかったわけじゃないから。けいさんだから、見捨てられたくなかったから」
違う、そうじゃない。南くんには私しかいない、と言ったのは、私が私自身を特別扱いして調子に乗らないための言い訳だった。ただの友達としてだって、南くんのそばにいられることは嬉しかった。友達がいなかった南くんには、それだけで特別だったことも嬉しかった。だから、他の人に囲まれるようになって、自分を特別扱いしたくなってしまっていた自分に気づいた。
「わ、たし……」
「けいさんも俺だから一緒にいたかったんだったら、好きだったって思っていい?」
わからない。だって、自分で認めないようにしていたんだもの。南くんが友達以上恋人未満であることに安心している自分が確かにいた。では、恋人になりたいと思わないようにしていたのは何故か?
「……ねえ、本当に私なんかでいいの」
南くんはいつだって押しが強い。子供みたいに、正直に、性急に答えを求める。でも、私はそういうのは、少し苦手だ。
「……ホンット」
南くんの溜め息が、長く大きいことに、少し驚いて、怖くもなる。
「ねえ、けいさん」
びっくりした。肩が大きく動いた。耳元で、くすぐったさまで感じられるくらい近くで、南くんの声がする。振り向いたら、きっとすぐそこに顔があるだろう。恥ずかしくてそんなことできない。
「大学で初めて見たとき、かわいいなって思った。カフェで会ったとき、運命かよって思った。声かけたら、何故かケーキくれて、すげえ嬉しくて。献血で会ったおかげで何回も会える口実ができて、いつの間にか一緒にご飯食べられるようになって。けいさんが飲もうって誘ってくれて、指輪の話も、父さんの話も聞いてくれて、俺が知らないうちに嘘で固めてたのを全部取っ払っても一緒にいるよって言ってくれた。……これだけ言っても、わかってくれない?」
もう、いいよ。そう言おうとしたとき、振り向こうとした身体の動きを温かいものが阻んだ。良いにおいがした。それは、入ったばかりのお風呂の、シャンプーのにおいだろうか。
「けいさんが好き」
南くんは瞼を落としていた。自分の布団から遠く出張してきて、私をその腕に包んで、暗がりの中でにっこりと笑っていた。その姿は、孤独を隠すためにたくさんの嘘をついた、傷ついた青年だなんて今は思えない。
それが、私のお陰だったと彼は言うんだろう。乗りかかった船なのはわかっていた。それに、私だって。
「み、なみくんのこと、好きだよ」
間違えてしまった私を、目を細めて見つめる彼は、とても幸せそうだった。心の中ではまだ南くんであることが、反対に嬉しそうな気もした。何故だろう、そう思う前に、その腕に力が込められる。
「やっぱり、そう呼ばれる方が好き」
恥ずかしそうな息の多い声で囁かれると、こっちの方があまりにも恥ずかしくなってしまう。それでも、小さな声で、繰り返す。
「……南くん」




