#35 蝉時雨
「梗介、肉足りないから」
「はい、ごめんなさい」
鍋奉行は恵さんなのに、箸を動かし続けているのは南くんだ。鍋摂政とでも言うべき光景を、私とあきさんは微笑ましく見ていた。
「大体、謝るのが礼儀正しいと思ってるかもしれないけどね、ぺこぺこしてカッコ悪いと思わないの?」
「……母さん、言い返すと面倒だし」
「聞こえてますから。あのね、母親は反抗期も嬉しいものですよ? 」
恵さんは南くんに対しては、言うなればツンツンしているけれど、それは究極の愛情表現だと気付いた。完全に二人だけの世界なのだ。恵さんも南くんも、知ってか知らずかお互いに会話が途切れないような受け答えばかりしている。
それにしても、なんでこんなに暑いのにしゃぶしゃぶなんだろう。恵さんに引きずられるようにしてスーパーに車で買いに出て、牛肉を高い方から片っ端にかごにぶちこみ、いつの間にか今に至る。
確かにそろそろお腹は空いてきた頃だったけれど、まだ昼間だ。外では太陽がアスファルトをいそいそと焼いているというのに、屋内で冷房をつけてしゃぶしゃぶをしている。なんて背徳なのだろう。
「そうだ、梗介。けいちゃんとはどうして知り合ったの? どこまでいった?」
南くんが箸でつかんでいた豆腐が思いっきり崩れた。見れば、真っ赤な顔で箸を震えさせていた。
「お、同じ学科だったから、顔と名前は知ってて、カフェで俺が声かけた」
「え、ナンパってこと!?」
思わず私も口の中のものを噴き出しそうになる。急いで飲み込んでいる間に、南くんが否定する。
「そんなんじゃないって」
「じゃあ、なんで声かけたの?」
「…………」
突然黙らないで欲しい。私だって全然知らないし、考えたってわからないし、正直聞きたくもないから適当にごまかしてほしいのに。黙ってしまったら、言いづらい何かがあると察してしまうだろう。
「いや、まあ、その」
南くんは案の定言いづらそうに、けれど誤魔化すこともできず目を泳がせている。恵さんの目の色が変わった。とんすいに箸を置き、顎に指をやって首を傾ける。なんとも少女らしい仕草で、南くんを睨み付けた。
「……多分、コーヒー飲んでくれる人探してたんです」
そうだとは思いたくないけれど、なんとなく思い付いたことを口にしてみる。南くんは甘党のくせにかっこつけてコーヒー頼んで、あろうことか私のシフォンケーキと交換して得をした。その恨みも込めたつもりだったのだけど、思った以上に南くんがほっとした顔をしていて、あれ、と思う。
「は?」
「いや、間違って頼んじゃって」
そこからまた二人のやり取りが始まる。なんだか誤魔化せた気がする。それにしても、南くんの態度が少し変だった。
私たちの不思議な出会いも、今の不思議な関係も、説明はつかない。いつの間にか一緒にいた、というのが正しいだろう。けれど、色々あって、私はいまだに南くんの大事な指輪を預かっているし、南くんは私の逃げたいものから逃げる手伝いをしてくれた。ただの友達とはもう呼べないかもしれない。
それに──。私が保留にして、南くんが答えを急かすと言ったあの事。ボタンを押すのは私にしかできない。その手をまだ強く握り締めたままで、私は不安げに南くんを見ていることしかできない。覚悟なんて、決まるはずない。
「で、どこまでいったの?」
「…………」
もしかして、だけど。南くんが恵さんに約束したことって──。
考えたくないことだった。けれど、南くんが必要以上にあたふたする理由は、そのことで説明がつく。私がちょうど今、考えていたあのこと。
「ちょっと恵。二人ともすごく居づらそうだから。せっかくのお客さんなんだから、あんまりいじめるのはやめてちょうだい」
あきさんが女神様に思えた。いや、この状況は私が悪いわけじゃない気がするけれど、どうしてか私まで安心してしまう。南くんは、大きく溜め息をついた。
「俺、アイス買ってくる」
目配せされる。このヤバイ状況についてちゃんと話してくれそうな目だった。とにかく、この場から抜け出す口実を、と、必死が伝わってくる。
「わ、私も行く」
止められる前に席を立つ。カーディガンを羽織って外へ出ると、あまりの温度差にむせかえるようだった。
「早川さん、ごめん」
「……うん」
少し先を歩いて、南くんはくるりと振り返る。あーもう、と言いながら頭を思いっきりぐしゃぐしゃにかいて、顔をごしごし擦った。
「色々と事情があるんだ。きっとわかってくれると思ってる。だから、ここで答えてほしい」
擦られて赤くなった目元は、それでも強く私を見据えている。遠くで鳴いているセミの声が、あまりにもうるさくて脳みそを現実から解離させていく。
「俺と、結婚してください」
あの日の、感情に浮かされた南くんじゃなくて、理性でちゃんとそこに立っている南 梗介の再びのプロポーズ。沖縄の、彼の母親の実家の、ただの路上で、南くんは深く頭を下げた。
こういう時、どうするのが普通らしいのか、私には当然わからなかった。




