20話
史岐を連れて外に出た蕉は、路地を少し戻り、竹垣の角で膝を折った。低い位置にじっと目を凝らしたあと、片手を伸ばし、何かを掴んで手前へ引く。その周囲が七十センチメートル四方ほど、扉のように開閉する仕組みになっているようだった。
「ここから中に入っていける」囁き声でそう言ったあと、蕉は扉を閉め、人さし指を横にふって竹垣から離れるように史岐に指示する。ちょうどその時、鉦が鳴った。利玖達は、これで三之間まで進んだことになる。
反対側の山の斜面に上がり、酬笄館を見下ろす大木の根元に並んで立つ頃には本格的に雨が降り出していた。
「雪を連想させる名前なんて、おまえ達はたくさん持っているんじゃないのか?」
蕉が呟く。空を見上げていたから、そこから降ってくるもののことを考えていて思いついたのかもしれない。
「そうだね。雨よりはいくらか種類が多いかもしれない」史岐は頷く。「星明かりとは……、どうだろう、良い勝負かな」
「そういう名前であることと、籤に当たることに関係があるのか?」
「ないと思う」史岐は首をふる。「僕が助けたい子は、利玖という名だし」
「ああ、さっき話していたな」蕉は真面目な顔で、りく、りく、とくり返す。「うん、覚えた。もう一人は?」
「たぶん、御簾納松実」
「長いな……」
「覚えなくて良いよ」
「それだと、どこにも雪という字が使われていないんじゃないか?」
「英語で雪を意味するスノウという響きが入っている」史岐は横目で蕉を見る。「英語はわかる?」
「わからない」
「だよね……」史岐は思考を放散させるように空を見上げた。「あとは、そうだな、ちょっと強引だけど、簾を納めるという字面から、夏の強い日差しを遮る家具を吊るしておく必要がもうなくなったこと、つまり、秋が本格的に深まって、初雪もそう遠くない、そういう連想をすることも出来る」
蕉は、ふうん、と言って首をひねった。
「漱人は名前を言わなかったのに、おまえはずいぶんと詳しいな。知り合いなのか?」
「答えたくない」史岐は顎を僅かに上げる。「知らないままでいた方が、君達にも迷惑がかからないと思うよ」
「太白と手を組む可能性は?」蕉は質問を変えた。
「そう……、半々かな」史岐は酬笄館の方を見て目を細める。「〈四方草掻〉に関係する勢力が一枚岩ではない、自分が何かを差し出すことで、彼らから利益を享受出来る、と気づいたら、実行に移すことは十分あり得る」
蕉は、へえ、と呆気にとられたような声を発した。「あいつに取り引きを持ちかけるだなんて、並大抵の精神じゃ出来ないと思うが」
「そういう人だから、酬笄館に入れられたんじゃないかな」
蕉は何かを考えていたが、しばらくしてこくんと頷くと、
「史岐」
と呼んだ。手招きをしている。
こちらも内緒話か、と思って近づいて行くと、彼女は両手を伸ばして史岐の頬に触れた。
湖面に満ちる月の光のように冷たい肌だった。
「これが、僕を連れてきた用事?」史岐は穏やかな声で訊く。
「そうだ」蕉は頷いた。「わたしは、おまえに命を預けている」
史岐は片方の眉を上げ、僅かに首をかしげて続きを待つ。
「どんな場面でも冷徹な刃でいられるよう、ずっと鍛練を積んできた。だけど、さっき酬笄館に近づいた時にわかった。──天敵が相手では、どうしようもない。ギキ・ホはわたし達を襲い、嬲り、弄び、最後には肉を千切って食う。生きものとして、そういう風に出来ている。史岐達には、わからないかもしれない。そういう存在を前にした時に感じる恐怖や虚しさが、どれほどのものであるか……」
蕉の手が離れる。
その直前に、息を整えたようだが、一瞬の震えが肌を介して伝わってきた。
「最後の鉦が鳴ったら、わたしは酬笄館に突入する」蕉は目を逸らして言う。「初めは、重箱の回収を済ませたらすぐに離脱するつもりだったが、そうも言っていられなくなった。ギキ・ホの増援を呼ばれたら、今、叢庭にいるチ・カヤをかき集めても到底敵わない。だから──わたしは太白が外に助けを求める前に、確実に奴を殺さなければならない」
蕉は史岐の方に向き直り、「頼む」と頭を下げた。
「一緒に来てくれないか。史岐がいれば、それだけでわたしはだいぶん正気を保っていられる。わたしやギキ・ホのような、野でしか生きられない妖にとって、人間というのは、それくらい無尽蔵な力を感じさせる存在なんだ」
「わかった」史岐は頷く。「一緒に行くよ。でも、僕は利玖の安全を何よりも大事に考える。内情を明かしてくれた漱人さんの誠意には応えたいし、君にも死なないでほしいと思っているけれど、そのことと利玖の安全が背反する時には、絶対に後者を選ぶ。それは了承してほしい」
「もちろん、そのつもりで頼んでいる」蕉は目を閉じ、細く息を吐き出した。「ありがとう」
そう言うと、蕉は躰の向きを変えて幹にもたれかかり、かくんと項垂れた。腕を組み、深呼吸をしているようだ。四肢を繋ぎ止めていた糸の一本がどこかで切れてしまったような脱力感が伝わってきた。
「こういうのは向いていないな」やがて、蕉は片手で自分の頬に触れながら呟いた。「叢庭にいる同胞なら、もっと上手く誘えるのだろうが……。わたしはこんな話し方しか出来ないし、表情もほとんど変えられない。人間に化けるのは本当に難しい」蕉は上目遣いで史岐を見る。「特に、顔がな。いくら美しい顔でも、何人もの娘が同じものを持っていたら、おまえ達は不気味に感じるのだろう?」
「まあ……、だいぶ怖いね、それは」史岐も彼女の隣で幹にもたれかかる。「そうか、それでお面を着けるんだね?」
蕉は頷いた。
「ああいうものを思いつく柔軟さも、人間の良いところだ。つがったあとに食べられる心配もないし」
「それはどうも」史岐は苦笑する。「異種間交配か……。上手くいくものなのかな?」
「生まれてくるのは、三割から四割くらい」蕉は淡々と答える。「それでも、不完全なかたちをしていたり、生殖能力がなかったりする。化け方の精度とか、他にも色んな条件が揃っていないんだろうな」
蕉は、ほつれ髪を指で直して天を仰いだ。
「長老の一派は、チ・カヤはかつて九度の脱皮を経て初めて成熟に至ったと説いている。今では、どんなに丈夫な個体でも六度が限界だ。わたし達が自力で繁殖出来なくなったのも、そのことが原因だと彼らは主張している。血が濃くなり、虚弱な個体が増え、寿命が縮められた結果、どうしてもあと三度足りないのだ、と……」
「だから、〈四方草掻〉で三度の脱皮を再現しているんだね」
「うん」蕉は無表情で顎を引く。「わたしは、まじないのことはよくわからないが、酬笄館に入った個体の多くが──ギキ・ホに掠め取られるまでもなく──脱皮不全のような症状を起こして死んでしまうのは事実だ。チ・カヤの中でも特に優れた血統からつがいを選んでいるのに、完全な成熟に至った例はない」
蕉は口もとを引き締め、宙を睨む。
「わたし達はもう、人間から離れて生きていかなければならない。彼らの知恵や技術に助けてもらわずに、自分達の力で命を繋ぐ方法を見つけ出さなければ」
蕉は幹から離れて、半歩ほど前に出る。地面を踏み、泥濘みの度合いを見ているようだ。俯いている。
「幸い、ひと頃に比べれば個体数もずいぶん持ち直した。ギキ・ホに脅かされない、新しい土地を見つけて生きていく試みも、今なら実行に移せる」
「そこに、漱人さんも加わるんだね」
蕉は動きを止めた。
顔を下に向けたまま、機敏に瞳だけを動かして史岐を見る。
「餽生寳ノ蠍の力を借りて殺人を請け負ってきたことが事実なら、その秘密を知る漱人さんが、この先、人間の社会で平穏に生きていくことは難しい。〈四方草掻〉が終わったあと、君達と一緒に逃げる段取りになっているのだと考えれば、キヨドコロまで突入を待つのも納得がいく。重箱を回収して、利玖を助け出すだけなら、今、ここで突入したって条件は変わらないんだからね。窓がないといったって、緊急のこともあるんだから、どこからかは外に出られるようになっているだろう。それをしないのは、君達と漱人さんが確実に合流し、逃げるための準備が、非常に細かい時間単位で整えられているからだ。漱人さんは東杢比野家の当主、つまり今夜の主役だ。長い間、不自然に姿を消していると怪しまれる。今夜の招待客の中にも、かつて餽生寳ノ蠍に政敵や、憎い相手を抹殺してもらった人間がいるかもしれない。いや──たぶん、いる。彼らだけを招待客から外せば、それこそ怪しまれる。だから、さっき鐘楼で話す時間を作ってくれたのも、ぎりぎりの決断だったはずだ。いつ、どこで、どのように移動するか、どんな小さな綻びも生じない緻密な計画表が存在するからこそ、突入は予定どおりキヨドコロから動かせない」史岐は蕉を見て微笑んだ。「どこか違っている?」
蕉は史岐を見つめたまま、ゆっくりと首をふる。それから、
「おまえを敵に回すようなことはしないよう、漱人に言っておく」と呟いた。
「僕なんか、取るに足らないよ」史岐は苦笑する。「利玖が無事ならそれで良い。今夜のことも、年が明ける頃にはきっと忘れている」
頷きかけた蕉が、ぴくっと史岐の背後に目をやり、山刀の柄に手をかけた。




