19話
「ですから、対になるものを、互いに交換して持っておくとよろしいのよ」御簾納松実は顔を真横に向けた体勢で、どこか弾んだ声で言った。「聞いていらっしゃる? 利玖さん」
「ええ……、でも……」佐倉川利玖は厳しい表情で松実の首筋を見つめ、首を横にふる。「やっぱり、母屋に連絡しましょう。こんなに危ない目に遭うとは聞いていません」
「本当に、大したことはありませんのよ」松実は自信満々といった様子だった。「もうすっかり瘡蓋になっているでしょう?」
「ええ、ごく浅いようですが、でも、頸動脈のすぐ近くですよ。危険過ぎます」利玖は、その傷口に斜めにかかっている黒髪の切断面を見る。「髪もこんな風に、乱暴に切られて……」
「初めからわたしが切ってやれば良かったんだわ」松実はその部分を指で梳きながら言った。「練習もなしに髪を切るだなんて、人間同士であってもひどく緊張しますもの」
「本当に、他にお怪我はされていないのですか?」
「黒い鯛ってなかなか良いわね」松実は正面を向いて、急に話題を変えた。「どうしてかしら、鱗の色が渋いのが、何か荘厳な印象を与えるのかもしれませんけれど、神への供物ではなくて眷属のような、これから自身も龍になろうとしているような、そんな風格を感じました。作りものですけれど、ずいぶんと大きかったから、そのせいかしら。でも、考えてみたら、招き猫にだって黒いものと白いものとが両方いるのだから、黒い鯛だって、吉祥のモチーフとして、もっと広まっても良いと思いません?」
利玖は観念して小さく息をつき、座布団の上に腰を下ろした。
「わたしのところにいたのはピンクの鯛でした」
「まあ……」松実は目を丸くする。「やっとお返事をしてくださいましたね。嬉しい」彼女は顔の前で両手を合わせてにっこりと笑った。「まだ、鯛のお話をなさる?」
「いえ……」利玖は弱々しく返事をする。「もし、次の部屋でも太白に遭遇したら、すぐにわたしの方へ向かわせてください。次は、わたしが対価を払います」
「違うのよ。太白が持っていくわけではないの」松実はゆっくりと首をふる。
傷口が引っ張られて痛むのではないか、と思ったが、彼女はそんなことはまるで気にしていない様子だった。
二つめの控の間で再会した時、松実は顔の左側の髪を一房なくしていた。無遠慮に大きな鋏で切ったように、そこだけばっさりと短くなっていたのである。
驚いて、利玖が近づくと、髪を切る時に刃先を近づけ過ぎたのか、松実の首筋には刺繍糸を一本置いたような、細く浅く、赤い切創があった。
「三之間で起こることは、太白にも制御出来ないのよ」松実は、右手で髪を撫でつけながら言う。「はっきりと口にしたわけではないけれど……、でも、そうね、わたしの髪を捧げても、対処法しか教えてくれなかったことが、彼が干渉を許されていないことの証左といえるかもしれないわ」
「では、三之間でわたし達を待っているのは、太白よりもはるかに高位の妖か、あるいは……」
「神格に等しい存在かもしれない」利玖の発言を引き取った松実は、悲しげに目を伏せた。「残酷ね。なにも、漱人さんが初めて主宰された年に来ることはないでしょうに」
利玖は下唇を噛んで頷く。
この部屋にも電話が用意されている。受話器を取って、危害を加えられたと伝えれば、〈四方草掻〉はすぐに中断され、自分と松実の身の安全は確保される。しかし、それは同時に、漱人が初めて主宰を務めた〈四方草掻〉を不完全な形で終わらせる決断でもあるのだ。先代の逝去が影響しているとはいえ、これまでよりも一年多く準備期間があったことが、よりマイナスのイメージを強めるかもしれない。
──せめて史岐と話す方法があれば。
大学に入ってから妖と関わり出した自分などよりも、よほど経験を積んでいる。間違いなく彼の助言が必要な場面だった。
だが、ないものねだりをしていても仕方がない。
「対を為すものであれば、何でも良いのですか?」利玖は思考を切り替えて、それを確認した。
「ええ」松実は頷く。「二つで一揃い、という見方がされるものであれば、何でも」
「なるほど……」利玖は頬杖をつく。ちょっと行儀が悪い、という思いが頭をよぎったが、それどころではなかった。
三之間では人身御供を求められる。命か、手足か、臓器の一部か、あるいは自分も松実も女性であることと結びつけられる一方的な要求なのか──そういったものを捧げるように命じられる、というのだ。それは、一之間の粘土人形や二之間のピンクの鯛のように、放っておいても先に進める存在ではない。どうにかして満足させてやらなければ、キヨドコロへ繋がる道は開かれないという。
その時、『対を為すものの片方』を差し出すことが出来れば、自身の一部を捧げたとみなされ、通行を許される。一つだけでも効力はあるが、三之間に入る前にもう一人の参加者と話す機会があるのなら、そこで互いに一つずつ交換しておけば、二人分の身代わりを用意した状態で臨めるため、より心丈夫だというのが、松実が聞き出した対処法だった。
「それで、考えてみたら、ここまで通ってきた〈試し〉にはどれも、神饌──神々に献上する供物の要素が含まれていることに気づいたの。一之間では、野菜や肉が多過ぎるほど豊富に用意されていたし、二之間では逆に、酒だけが並んでいたわ」
利玖は頷きかけて、途中で首をかしげる。
「でも、それにしては一之間にも二之間にも、微妙にそぐわない点がありましたよね。一之間には四つ足の獣の肉や、匂いの強い野菜を使った料理がありましたし、二之間では……、少なくともわたしの方では、梅酒が『正解』でした。穀物を醸した酒ではありません」
「わたし達が祀っているような神様じゃないのね」松実はあっさりと言った。「その筋道で考えれば、三之間では『主食』を求められる。なくてはならない、一番大切な食べものよ。きっと……」
松実はそこで言葉を切って壁掛け時計を見上げ、ああ、と呟く。
「もう時間がないわ」
肩にかけられていた右側の髪が蛇のようにゆっくりと後ろへ滑り落ち、そこに至るだけの長さを奪い取られた左側の髪の切り口が露わになった時、利玖の心は決まった。
利玖は立ち上がり、松実の方を向いて右耳のイヤリングに触れる。
「わたしも三之間へ進みます」
外したイヤリングを、利玖は松実の手に乗せた。




