18話
「我々は、生物としての特徴を基に彼らを分類し、τ種、ζ種と呼び分けております。乳萱ノ蠍はτ種──言い伝えに登場し、〈四方草掻〉の夜に人間の娘に化けて叢庭を訪れる種です。それに対して、ζ種──“餽生寳ノ蠍”は、彼女達を食べる」
史岐は息をのんだ。
「では、漱人さんが気にかけておられるのは……、今、酬笄館の中にいるのは、餽生寳ノ蠍なのですか」
「はい」漱人は頷く。
「人間を食べることもあるのですか?」
漱人は何か言いかけて、ちらっと蕉の方を見る。
「主食ではない」蕉は呟くように言った。「味が好みではないんだろうな。己の腹を満たすために人間を襲ったという話は聞いたことがない。ただ、あいつらはわたし達よりも強い毒を持っているし、腕力もある。肉食だから、生まれついての残忍な性格をしている者が多い。人間を一人捕らえるくらいは造作もないだろう。食べる以外にも、人間には色々と使い道がある。どこかの土地神に捧げて一族の地位を引き上げてもらうとか……」
そこまで話したところで、史岐の方を振り返り、蕉はぎょっとしたように言葉を切る。
「熊野様」漱人が力の籠もった声で言った。「このようなお話を信じて頂きたいと申し上げるのは、大変不遜なことと承知しております。ですが、たとえζ種にそのような心積もりがあったとしても、彼らはキヨドコロまで手出しが出来ません。〈四方草掻〉の最中に怪我を負わせたりどこかに連れ去ったりすることは固く禁じられている。そういう取り決めなのです」
「そんな約束を、律儀に守る相手でしょうか」
「守ります」漱人は怯まずに史岐の視線を受け止める。「なぜなら、〈四方草掻〉の正式な手順に則ってキヨドコロへと運び込まれた重箱こそが、彼らが真に求めるものだからです」
意外な返答に、史岐は目を瞬かせた。
「重箱ですか。あれはてっきり、言い伝えになぞらえた形式的なものかと思っていたのですが……。中に何か入っているのですか?」
「つがいのτ種です。二つの重箱に一体ずつ」漱人は卓袱台の上で手を組み、身を乗り出す。「酬笄館は、τ種の脱皮を促すための装置なのです。実際に殻を脱ぎ捨てているかどうかはわかりませんが、少なくとも体内では劇的な変化が起こる」
「ホルモンのようなものを分泌させるわけですね」史岐は呟く。
「そのとおりです」漱人は少し驚いたように目を見開いた。「言い伝えに登場する三つの試練──これが即ち脱皮の回数を示しています。〈四方草掻〉によってキヨドコロに到達したτ種は、自然界ではありえない早さで三度の成熟を経験する。これをζ種は……、至上のものとして、好むのだそうです」
その方が好みの味になる、あるいは栄養価が増すといった表現を、漱人は意図的に避けたようだ。同席している蕉に配慮したのだろう。
それを裏付けるつもりでもないだろうが、彼は、
「初めに東杢比野家と関係があったのはτ種でした」と続けた。「酬笄館を使って脱皮を促進する試みをくり返していることを知ったζ種が、自分達にも一枚噛ませろと割り込んできたのだと伝わっています。最初のうちは、ζ種から依頼があった年にだけ〈四方草掻〉の難度を上げて──もちろん、言い伝えと乖離しないように、ほんの僅かにだけですが──失敗に終われば重箱を引き渡す。それだけの約束でした。しかしζ種は、より確実に、より成熟した状態のτ種を手に入れたいと考え、己の毒の強さと残虐性を東杢比野家に売り込んだ」
「正攻法だ」史岐は目を細める。「重箱と引き換えに、望む人間を一人消して差し上げましょう、とでも言われましたか」
漱人はぐっと唇を噛みしめ、遅れて頷いた。
「当時の書き付けによれば、『言いつけに背いた人間は恐ろしい化け物に食べられてしまいました』というのは、貴方がたの常套句だろう、と……」
「ずいぶん知恵が回る相手のようですね」史岐は苦笑する。「籤引きには細工がしてあって、狙った人間に『当たり』を引かせることが出来る。酬笄館に入ったあとは、決められた時間ごとに次の部屋へ進み、〈四方草掻〉が完了するまでは外には出られない。客全員がそれを知っていますから、長時間姿が見えなくても怪しまれません。もの音や叫び声も、厳重な造りの酬笄館の中では、母屋まで届かないでしょうし──そもそもζ種が使う毒が躰の自由を奪うものなら、そんな心配は無用となる」
史岐は片手を畳につき、躰を斜めにして息をついた。
「よく、今までばれずに続けてこられましたね」
「一族の恥でございます。申し開きもございません」漱人は平伏して言った。「毎年のことではなかったのです。熊野様もご存じのことと思いますが、今回のようにひと目でそれとわかる二人組を当家が用意し、〈四方草掻〉を担わせるのが通例でございました」
「待ってください」史岐は眉をひそめる。「それなら、利玖が選ばれたのは、誰かが彼女を……」
「いえ──いえ、そうではございません」漱人は必死な形相で首をふる。「一切、そのような話は持ち上がっておりません。考えてもみてください。家督を継いで間もない、私のような青二才に、どうして殺人の手引きなど持ちかけられましょうか。あったのは、逆のご依頼です。ある人物を何としてでも酬笄館に入れてほしい。それが、あの覆面のお客様だったのです」
「では、利玖は無作為に選ばれたと?」
漱人は苦しそうに顔を歪めて、もう一度首を横にふった。
「佐倉川様を指定したのは、ζ種──太白という名の妖です。人に化けている時は邪気のない若者のように見えますが、私が物心ついた頃から我が物顔に東杢比野家へ出入りをしておりました。〈四方草掻〉にも幾度となく介入しております」
「経緯を聞かせて頂けますか?」
史岐が問うと、漱人は顔を上げて大きく頷いた。
「私は、今年限りで〈四方草掻〉を取り止めるつもりでした。乳萱ノ蠍と交わりを持つだけであればまだしも、餽生寳ノ蠍と共謀し、あんな……、殺し屋じみたことをしてまで家を守りたいとは、どうしても思えなかったのです。乳萱ノ蠍には、あらかじめ蕉を通して協力を取り付け、〈四方草掻〉がなくなれば不要になる土地や家財道具も少しずつ手放しました」漱人は顔の前で手を合わせ、目をつぶる。「〈四方草掻〉をやめるつもりでいるのがばれないよう、人の動きにも金品の動きにも、神経質過ぎるほど気を使っていたのですが……」
「あの蠍の像ですね」史岐は彼の言葉を引き取った。「東杢比野家の〈四方草掻〉が行われる日にあの像が客の目に触れるところにないというのは、確かに少し妙でした」
「美術品としての価値が抜きん出ていたため、あれだけは早くに手放さざるを得ませんでした。太白にも、それがきっかけで気づかれたのです」漱人は続ける。「先に述べたとおり、東杢比野家とは親密な付き合いをしておりましたから、ひょっとすると使用人の誰かと懇ろになっていて、それで情報を得たのかもしれません。夕食前に突然、私のところへやって来て、〈四方草掻〉を終わらせるつもりでいることを黙っている代わりに、今回の〈四方草掻〉に自分を介入させろ、と言ってきました。断れば、今すぐにどこか適当な部屋に入って、中の客を殺してやろう、とも……」
漱人は唾を飲み込み、その喉もとを手で押さえた。
「それくらいのことはしなければ示しがつかないのだと──〈四方草掻〉によって成熟が進んだ乳萱ノ蠍は喉から手が出るほど欲しい代物だから、それを今後、永久に諦めなければいけないというのなら、せめて抗ったという格好ぐらいはつけさせてくれというのが、太白の言い分でした。佐倉川様を参加させるように要求を受けたのも、この時です。母屋に入ったあと、どこかで佐倉川様を見かけていたようです。九割方は手ぶらで帰るつもりでいるが、折角なら好きな人間を選ばせてくれ、と……」
それまで黙っていた蕉が鼻を鳴らした。
「太白か。──本当に癪に障る。それをおまえに持ちかけた時の表情まで、目に浮かぶようだ。どうせ、チ・カヤはこれまで何百何千もの男から子種を貰ってきて、それに対してギキ・ホは雌一匹で手を打ってやろうというのだから大層良心的じゃないか、とでもいうような態度だったのだろう」
蕉が、二つの蠍の名前を口にする時のアクセントが、漱人のものと微妙に違うことに史岐は気がついた。もしかすると、元々彼女達の間で用いられていた固有の言語に東杢比野家が響きの合う漢字を割り当てたのかもしれない。史岐には北海道出身の友人がいるため、そういった発想は割合自然に思いつくのである。
漱人は、諫めるように鋭い眼差しを蕉に向けたが、
「構いませんよ」と史岐が穏やかな声を作って言うと、びくっとこちらに目を戻した。
「しかし、襲うのであれば佐倉川様を、と唆したも同然です」
「それは、まあ、部外者は館内に入れないのですから、そうでしょうね」史岐は意識してゆっくりと喋る。「覆面の女性には手を出さないように、という要求は聞き入れてもらえたのですか?」
漱人は頷いた。
「誰ですか?」史岐は間髪入れずに訊ねる。もちろん、覆面の女性のことである。
「申し訳ありません」漱人は低頭する。これもごく当たり前の反応だった。
「では、それを誰から依頼されたのか、ということも……、貴方の口から聞くのは無理そうですね」
「県警の関係者の方でございます」漱人は獲物を定めた猛禽類のように、一瞬の冷酷さを瞳の中に見せた。「今宵お招きしたお客様、及びこれまで東杢比野家に仕え、誠実な仕事をしてくれた使用人を安全に逃がすためにご尽力頂くことを約束しております」
「わかりました」史岐はホールド・アップをして頷く。「十分です、漱人さん。ありがとうございます。これ以上、貴方の時間を僕のために割かないでください」
え、と漱人が呟くのと同時に蕉が立ち上がる。彼女は史岐に躰を近づけ、腕を引いた。
「わたしも同意見だ」蕉が言う。「用があるから、史岐にはしばらく一緒にいてもらう。わたしが代わりに説明出来ることもあるだろう」
「あ──あの」漱人は慌てたように中腰になった。「本当によろしいのですか? もう、お聞きになりたいことは……」
「では、一つだけ」史岐は右手の人さし指を立てる。「覆面の女性の名前に、雪を連想させるような言葉が使われていませんか?」




