17話
蕉と名乗った少女に続いて、史岐は対岸に渡った。遣り水に沿ってうら寂しい坂道が伸びていた。下流の方は曲がりくねって森に吸い込まれるように消えているが、上流の方へ歩いていくと酬笄館の正門の前に出るようだ。
しかし蕉は早々にその坂道を離れ、草地を横切って一直線に酬笄館に近づいていく。どこから入れてもらうつもりなのだろう、と思いながら史岐はそれについて行った。
酬笄館は岩陰でじっと縮こまって寒さに耐える甲虫のように、長い平側を山肌に寄せている。その見た目のために、てっきり竹垣も山肌と接していない三方にだけ巡らされているのだろうと思っていたのだが、蕉に続いて酬笄館と山肌の間へ近づいていくと、両者の間には僅かな隙間があり、竹垣も奥へ続いているのが見えた。大人がやっと一人通れるくらいの幅しかないが、草刈りが行き届き、足を躓かせるような小石や枝も見当たらない。明らかに路地として使うことを想定して手を入れた場所だった。
路地の半ばにはひっそりとした雰囲気の鐘楼があり、そこで行き止まりになっている。蕉は、暗い路地を滑るような足取りで進んでいったが、鐘楼まであと四メートルほどのところまで来ると突然、首に天蚕糸でも巻かけられたみたいにびくんっと仰け反って立ち止まった。
「蕉?」史岐は彼女の前に出る。
猫のように色の薄い双眸がきりきりと音を立てそうなほど見開かれていた。しかし、蕉はすぐに目を閉じ、深く息を吸って、その恐怖の表情を遮断する。そして史岐に向かって片手を伸ばした。
「おまえの羽織、貸してくれないか」
「ああ……、良いけど」史岐は羽織紐をほどいて袖を抜き、彼女に渡す。「寒い?」
蕉は羽織に腕を通しながら首をふった。それから史岐を横目で見ると、人さし指を唇に当て、それを前に傾ける。あとで説明するから今は先を急ぐ、というジェスチャだった。
鐘楼の下まで来ると、蕉は少し竹垣の方へ寄ってしゃがみ込み、調子をつけて外壁を叩いた。ただの板張りにしか見えなかったが、少しすると、蕉が叩いた辺りに縦に一メートルほどの光の筋がすっと現れた。徐々にそれが横に広がり、二十センチメートルほど開いたところでこちらを見上げる娘の顔が覗く。
予想はついていたが、当たり籤を引くはずだと聞かされていたあの二人姉妹のうちの片方だった。ただ、大広間とは光の質が違うためか、あるいは彼女自身にそれを纏う余裕がないのか、人形みたいに接触を拒絶する冷たさは、今はほとんど感じない。申し訳なさそうに眉をひそめた表情で頭を下げ、二人を鐘楼の中へ入れた。
驚いたことに、ごく狭い面積ではあるが、きちんと畳が敷かれ、卓袱台が置かれていた。手編みのカバーをかけた座布団がささやかな彩りを添えている。右手に梯子があって、それが天井を貫いてさらに上へ伸びていた。鉦をつく係の人間の休憩所として使われているらしい。
「熊野様」卓袱台の向こうで小柄な人物が立ち上がるのが見えた。
東杢比野漱人である。
「この度は、何とお詫びを申し上げたら良いか……」
「お詫び?」座布団に腰を下ろしながら、史岐は驚いて彼の言葉をくり返す。
下唇を噛む彼の仕草を見て、すぐに、自分のことを言っているのではない、とわかった。
「利玖に何かあったのですか?」
「いえ、今の時点では、まだ」漱人は首を横にふる。
「いずれ起こるというのでは困ります」
「落ち着け」低い声で割って入ったのは蕉だった。きちんと正座をして酬笄館の方を見つめている。「血の臭いは漂ってこない。おまえの連れ合いも、漱人の言うとおり、無事なはずだ」
「君の仲間だろう? 手出ししないように言えないのか」史岐は彼女の方に顔を向けて言った。「利玖は、理由もなしに君らを傷つけるような人間じゃない」
「仲間、ばかりでは、ない」喉が痙攣しているような妙な調子で答えたあと、蕉は黙った。
「私がご説明します」漱人が宥めるように片手を伸ばして言った。「申し訳ない、人目を避けてお話しするにはここが一番だと思ったのですが、蕉は本来、そこに座っていることすら辛いはずなのです」
史岐が仔細を訊ねる前に、蕉が大きく息を吸って「大丈夫だ」と言った。
「もう落ち着いた。情けないところを見せて、悪かった」
蕉は漱人を見つめ、史岐の方へ軽く顎をふってみせる。こいつへの説明を先にしろ、と言いたいようだった。
「〈四方草掻〉に関わる蠍は、乳萱ノ蠍のみではございません」漱人はそう話し始めた。




