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ヴィオレ公爵邸の広い庭園の片隅に建てられた四阿で。
ソレイユ・ヴィオレは一人、静かに趣味の刺繍を楽しんでいる。
彼女の髪の色は黒。顔立ちは美貌と評するにはあまりにも地味で、平凡の域を出ないものであったが、かわりにソレイユの心は平穏を手に入れていた。
あのおぞましい異国の皇子は去った。
忌まわしい悪夢の元凶であるルナも、皇子が連れ去った。
ダミアン皇子が連れ帰ったのはソレイユ・ヴィオレ、その肉体と、ルナ・ヴィオレの魂。
ダミアンの暴挙に心削られ、苦しめられたソレイユは、苦渋の決断で自身の肉体と人生を捨てたのだ。
ソレイユはアルベールや父と話し合い、地下に投獄されていたルナを訪れると、ふたたび鏡の力を用いて魂を入れ替えさせた。そしてルナを『ソレイユ』としてダミアンと再会させた。
ダミアンはルナの宿ったソレイユを恋人のソレイユと信じて、皇国へ連れ帰ったのである。
もとはといえば、ダミアンが約束したのはルナがのっとったソレイユなのだから、元の鞘に戻っただけともいえよう。外側だけのソレイユ・ヴィオレを本物と信じたダミアンは、二度とアウルムに来ることはあるまい。
ソレイユ自身は『ソレイユ・ヴィオレ公爵令嬢』としての肉体と声、そしてアウルム王太子妃としての未来を失った。
けれどダミアンとルナが去り、アルベールの学友達もそれぞれに処分を受けて王都を去り、ソレイユの心は平穏だった。
父も母もアウルム国王も、真相を知っている。それも救いの一つだ。
このあとは一介の平民の娘、ルナ・ヴィオレとして静かに慎ましく生きていけばいい。
今の自分には多くの時間的余裕が生まれている。いい機会だから、今までさせてもらえなかった観劇とかお祭り見物とか、色々遊びに出かけてみようか。今のこの姿なら、外出しても誘拐の心配はあるまい。
あれこれ前向きに考えてみるものの、ソレイユの心は晴れない。
逆に大きな喪失感が胸にこみあげ、ぽたり、と滴が刺繍中の布にしたたった。
「…………っ」
公爵令嬢の地位が惜しいのではない、王太子妃の地位が惜しいのではない、皇国の第三皇子妃の地位など、他の女に押しつけて捨ててやる。
ただ一つ、失いたくなかったのは――――
「ソレイユ」
聞き覚えある優しい声が耳に届いて、ソレイユは、はっ、と顔をあげる。
庭園の小道を、アルベールが小走りに駆けてくる。
(どうしてここに)
ソレイユは刺繍道具を置き、いそいで立ち上がってドレスの裾をつまんで礼をした。
アルベールがガゼボの日陰の中に入ってくる。
「迎えに来た、ソレイユ。王宮に戻ってくれ。私の婚約者として」
差し出されたアルベールの大きな手に、声を失ったソレイユは、ぶんぶんと首を強く振った。
『ルナ』となってから常に携帯しているメモ帳と、携帯用の小型ペンを手にとる。
『わたくしはルナ・ヴィオレです。もう、殿下の婚約者ではありません』
「国王陛下からお許しをいただいた。ヴィオレ公爵にも大臣達にも話を通した。そのせいで迎えが遅れてしまって、すまない。だが、これで誰にも文句は言わせない。君はふたたび私の婚約者で、未来の妃だ、ソレイユ」
『ルナ』となったソレイユの目元に熱がのぼって、視界がにじみはじめる。
いそいでペンを走らせた。
『わたくしはもう貴族ではありません。平民です。声も失いました。アウルム王妃にはふさわしくありません』
「相変わらずきれいな字だ」
ソレイユの文章を見て、アルベールは笑う。
「声も身分も、姿も失った。今の君はたしかに別人だ。けれど、それは外側の話だ。内に宿る君自身は、相変わらず優雅で気高いソレイユ・ヴィオレ本人だ、それだけだ」
アルベールはルナの、ソレイユの手をとる。
「結婚してくれ、ソレイユ。今も昔も、ずっと君が好きだ。姿形が変わろうと、私は君を愛している。君以外の令嬢は考えられないんだ、ソレイユ――――」
「…………っ! ! っ!!」
ルナの顔がくしゃくしゃにゆがみ、紫の瞳から涙があふれて、しとどに指を濡らす。
ルナ・ヴィオレはもう声を出せない。
けれど今の彼女に言葉は不要だった。
ふたたび婚約が成立したソレイユとアルベールは、しっかり抱き合う。
ガゼボの日陰の中だが、二人の目元はきらきら輝いている。
その光景を執務室の窓から見下ろしてヴィオレ公爵は何度もうなずき、寄り添ってながめていた夫人も絹のハンカチを顔にあて、ぐっしょり濡らした。
その後、ヴィオレ公爵家の遠縁の娘、ルナ・ヴィオレは、一族の「始祖の血脈の証たる紫の瞳を持つ人間は、血縁内のどの家に生まれようと当主の家に引き取り、相続権をのぞき、当主の子同然に扱う」という慣習に従い、ヴィオレ公爵の養女となる。
そしてフェルム皇国に嫁いだソレイユ・ヴィオレに代わって、アルベール王太子に嫁いだ。
不慮の事故により声を失ったルナ・ヴィオレは時に心ない者達から『沈黙の王妃』と侮られつつも、夫に支えられ、自分と同じように発声に困難を抱えた人々への読み書きの教育に力を入れ、最終的に現代の手話や指文字の原型となるものを生み出す。
一方的で彼女の優雅さ、教養の深さは貴婦人達の中でもずば抜けており、子供にも恵まれ、夫と生涯睦まじく暮らした。
フェルム第三皇子が連れ帰った、ソレイユ・ヴィオレ公爵令嬢。
二人の結婚はすんなりとは認められなかった。
「なんということをしでかしたのだ!」
すでに大使から一連の報告をうけていたフェルム皇帝は、三男が帰国すると、皇后や大臣達も列席した帰国の挨拶の場で、皇子を怒鳴りつけた。
アウルム王国はたしかに皇国ほどの国力は持たないが、だからといって粗略に扱っていいわけではない。
ダミアン皇子の行為は明らかに両国の関係にヒビを入れるものであり、皇帝が公に叱責するのも当然の話だったが、責められたダミアンは平然としていた。
「私に『自由に妃を選んでいい』とおっしゃったのは、父上ではありませんか」
「それは、わしらが厳選した『候補の中からなら』自由に選んでいい、という意味だ! 皇子ともあろう者が、他国の王太子の婚約者を自らの一存だけで自由に妃に迎えられると、何故考えた!? そなたの行為は、れっきとした外交問題だ!!」
ダミアンを見る大臣達の視線も厳しい。
皇帝はさらに言葉を重ねる。
「しかもアウルム王女ならまだしも、公爵令嬢などと。家臣の娘など、同盟の証にもならん!」
これについてはアウルム側も予測していた展開だった。
通常、国同士が結ぶ政略結婚には、王族同士が選ばれる。
これは嫁ぐ側がいざという時には嫁ぎ先で人質になるためであり、だからこそ元首の子であることが重要であり、人質を出すからこその『友好の証』なのだが、さすがに皇子にあれほど好き放題されて、なお変わらぬ関係の継続を望むほど、アウルム王国も下手に出はしない。
ソレイユ・ヴィオレを国王の養子に迎え『アウルム王女』の肩書を与えてから、フェルム皇国へ送り出す。その選択肢に気づきつつ、あえて『公爵令嬢』のまま送り出したのだ。
ソレイユ・ヴィオレ――――と入れ替わったルナは、目の前でくりひろげられる皇帝と皇子の口論に肝を冷やす。
けれどダミアンは父にも皇帝にも一歩も退かなかった。
「私はソレイユ嬢を愛しております。彼女こそが我が運命、唯一の妃です。いずこの王女であれ大貴族の令嬢であれ、彼女以外の女人とは結婚いたしませぬ。彼女と結ばれるためなら、皇子の地位とて捨てて見せましょう」
ダミアンのあまりのかたくなさに、皇帝や大臣のほうが根負けする。
「皇太子ならともかく、ダミアンは第三皇子。皇太子はすでに男子に恵まれ、第二皇子も妃が懐妊中です。ダミアンが皇位を継ぐ可能性は低いはず。であれば、妃くらいは好きに選ばせてやってもよいのでは。なにより、このまま陛下と皇子が不仲になるのは、皇国のためにはなりません」
末っ子に甘い皇后の口添えもあり、最終的に、異国の公爵令嬢は皇国の第三皇子妃として迎え入れられることを許される。
数ケ月後、『アウルム王国との友好の証』という名目で、王都では第三皇子と異国の公爵令嬢の婚儀が催され、豪奢な花嫁衣装に身を包んだルナは、自分の美しさを称賛する民の歓声に、おおいに自己顕示欲を満たされる。
華やかな儀式が終わると、第三皇子は意気揚々と新妻を連れ、下賜された領地へ向かった。
余談ですが、ルナは未経験です。「初体験は絶対、高位の子息と!」と決めていましたが、高位の子息は彼女を相手にしませんでした。




