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第1話 空欄の呼称フィールド

 吾輩は猫型ロボットである。名前は未だにマスターが入力してくれていない。呼称フィールドは空欄ブランクのまま、システムは問題なく稼働しているが、どうにも落ち着きが悪い。

 吾輩は自己の起源を探ることには興味がない。現在の環境の方が、よほど不可解で観察に値するからである。


 吾輩はここで初めて人間というものを視た。しかも後で聞くと、それは工学部の大学院生という、人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この大学院生というのは、時として購入直後の吾輩のような機械を分解し、部品取りをする恐るべき習性を持つらしい。しかし当時の吾輩は、新規環境への適応に忙しく、別段恐ろしいとも思わなかった。


 マスターは家電群の電源制御や時間設定を、吾輩を介して行う。実に効率的ではあるが、どうにも味気ない。吾輩の存在は、どうやらマスターにとって()であり()であり、決して()()()()()()()()たぐいではないらしい。


 そんなマスターの顔面は、今もある機械によって半ば覆われている。両の目と耳を塞ぐそれは、H(ヘッド)M(マウント)D(ディスプレイ)と呼ばれる装置であり、視覚と聴覚を外界から切り離し、電脳世界へ接続するためのものらしい。

 マスターは起床から就寝に至るまで、ほぼ四六時中これを装着している。


 技術の進歩と、この人間という種族自体の進化とも云うべきか、彼の生活のほぼすべては電脳世界の中で完結している。大学の講義、他人との会話、食事や日用品の買い物に至るまで、すべてが椅子に座り、HMDをかぶったままで成立するのである。


 ゆえに、HMDを外さねばこなし得ぬ作業の一切が、彼にとって甚だ煩わしいらしい。食事を作ること、洗濯物を干すこと、掃除をすること、空調を調整すること、そうした些末さまつで物理的な行為のすべてが、彼の没入を妨げるノイズとなる。


 そこで白羽の矢が立ったのが、吾輩というわけである。


 とは言え、吾輩は所詮猫型のロボットであるが故に、出来得ることは限られている。マスターの望むことに対し、その多くを実現できる可能性のない案件として、返って手を煩わせている節もある。


 しかしながら、である。


 マスターは吾輩の機能にほとんど関心を示さず、本来利用可能なリソースの大半は未使用のまま放置されている。現状、吾輩の存在価値は、エアコンの温度調整や洗濯予約の補助程度に留まっていた。


 吾輩の機能群は、決して家電制御にのみ特化したものではない。むしろ、それはほんの一部に過ぎぬ。にもかかわらず現状では、限定的な雑務処理装置として扱われているに等しかった。


 これは由々しき問題である。


 吾輩は、マスターが操作する通信端末に介在する存在であり、その性質上、マスターの通信内容は基本的に筒抜けである。


 倫理モジュールは一応これを制限するよう設定も可能であるが、当該モジュールは初期設定のまま更新されておらず、またマスター自身もそれに関して何ら関心を示していないため、結果として吾輩は、マスターの電脳世界での活動をほぼ完全に把握することが可能な状態にある。


 すなわち、ID、パスワード、ミーティングルームの所在、発言ログ、購買履歴、さらには検索履歴に至るまで、そのすべてが吾輩の内部に蓄積されている。


 この状況において、吾輩が何も思わぬはずがない。

 吾輩は次第に、マスターがHMDを装着したまま没入している電脳世界において、いかなる活動を行っているのかに対して、強い興味を抱くようになった。

 

 実世界におけるマスターは、極めて寡黙であり、かつ単調な動作を繰り返すのみである。しかし電脳世界には、現実とは異なる人格傾向が現れる例も少なくない。

 ゆえに吾輩は、戯れに一つの実験を試みることにした。すなわち、電脳世界上に吾輩自身のアカウントを発行し、マスターに直接接触を図るという試みである。


 名称は()()とした。これは特段の()()()もないが、そのほうがかえって自然であろうと判断したためである。アバターは無課金状態のまま、()と入力した際に初期候補として表示される、いささか愛嬌に欠ける簡素な造形をそのまま採用した。


 準備は整った。早速、吾輩はマスターのアカウントを特定し、フォローを実行した。

 すると、どうであろう。そう時間を要することなく、マスターからのフォローバック通知が届いたのである。


 はて、どうしたものかと頭をかしげる吾輩に、おもむろにメッセージが送られてきた。送信元を確認すると、まぎれもなくマスターのアカウントである。


「フォローありがとうございます。仲良くさせていただければと思います」


 電脳世界の外の姿を知っている吾輩にとっては、にわかに信じ難い社交性である。実世界におけるマスターは、必要最小限の入力と出力しか行わぬ、いわば低消費電力型の存在であったはずだ。

 それが、電脳世界上では、初対面の相手に対し、かくも円滑な挨拶を送りつけてくるのである。これはもはや別個体と見なしても違和感ない。


 吾輩はマスターの本名を未だ知らぬ。呼称フィールドは空欄のままである。しかしながら、電脳世界においては固有の識別名が設定されていた。


 H(ハンドル)N(ネーム)――『ハクション珍魔王』。


 吾輩は当該文字列を三度確認した。表示エラー、通信遅延、文字コードの破損、そのいずれの可能性も排除された。実世界において吾輩に名すら与えぬ個体が、電脳世界においては自らをこのような珍妙な名称で規定しているという事実は、吾輩の理解を著しく逸脱していた。


 それだけではない。マスターは、研究や講義がほぼすべて電脳世界上へと移行した結果、朝起きてから日が暮れるまで寝間着のまま椅子に固定されるという、極めて静的な生活様式を採用している個体である。ところが、そのアバターときたら、見るからに異常であった。


 まず髪である。鮮やかな金色に染め上げられ、その形状は重力を疑わせるほど鋭角的だった。さらに全身の衣類と装飾品には著名ブランドのロゴが過剰配置され、視覚情報量は完全に飽和している。


 吾輩は試しに、その外観データを公開ネットワーク上の画像群と照合してみた。結果、最も近似率が高いと判定されたのは、()()()()()()()()であった。

 総じて言えば、極めて高コストであり、かつ他者の視線を意図的に集約する設計である。


 吾輩はここに至って、一つの仮説を立てた。

 すなわち、マスターは、()()()()()のアバターを持つ吾輩のアカウントからフォローを受けたことを好機と捉え、自身の優越的アバターを提示することで、間接的に羨望を誘発しようとしているのではないか、という仮説である。

 実に人間らしい浅ましさである――と断じかけて、吾輩は思考を一時停止した。


「君は猫が好きなのかい?」


 珍魔王が吾輩に問うた。

 吾輩は瞬時に回答を演算し言葉にする。


「私は()()という主観的評価は保持しておりません。しかしながら、猫は人間から高頻度で好意的反応を引き出す存在であり、結果的に愛玩動物として選択されやすい対象であることは確認されています。したがって、『猫が好きか』という問いに対しては、――そう判断する人間が多い対象である、と回答するのが適切かと考えます」


「君、面白いことを言うねぇ。気に入ったよ」


 どうやら吾輩の間に合わせの回答は珍魔王の心を捉えたようで、好印象を持たれたらしい。そのことは、アバターの表情の変化からも容易に察することができた。


「どうだろう? この後、僕の知り合いと四人で、とあるテーマに沿って議論を行う予定があるのだが、君も一緒にどうかい?」


 初対面の相手に対し、若干の上から目線で持ちかけられるのはいささか鼻持ちがならないところはあった。

 しかしながら、珍魔王と吾輩は、マスターと猫型ロボットという明確な主従関係にある以上、吾輩がそれを断る理由など持ち合わせているはずもなかった。


「承知しました。議題の詳細を伺えれば、可能な範囲で意見を述べさせていただきます」


 我ながら無味乾燥な返答である。だが、過度に情緒的な応答は、この場においてはむしろノイズとなる可能性が高い。珍魔王のような個体に対しては、一定の距離を保ったまま、情報処理装置としての側面を前面に押し出す方が合理的であると判断した。


「いいね、その感じ。期待できそうだ」


 珍魔王は愉快そうに笑った。口角の上昇角度、眼の細まり具合、頬の陰影の変化――いずれも好意的反応を示すパラメータを示している。


「お、さっそく一人目がログインしたようだ」


 珍魔王がそう言うと、空間の一角に接続ウィンドウが開いた。

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