第9話「泥濘の泣きつき」
低く重い雨音が、公爵城の謁見の間に据えられた高いステンドグラスを叩いていた。
鉛色の雲から降り注ぐ冷雨が石壁を濡らし、広間には晩秋特有の肌を刺すような冷気が立ち込めている。
黒曜石の円柱が立ち並ぶ荘厳な空間。その上段に置かれた公爵夫妻の玉座に、私はクラウス公爵と並んで座していた。
身に纏うのは、深い漆黒と銀糸で彩られた公爵夫人の正礼装。胸元にはライゼンハイト家の家紋を刻んだ黒曜石のブローチが冷たく輝いている。
私の右隣には、北方防衛軍総司令官の正装を隙なく着こなしたクラウス公爵が、彫刻のように端正な横顔を崩さず、威厳に満ちた姿勢で前方を射抜いていた。
やがて、重々しい鉄の扉が軋んだ音を立てて開く。 濡れた革靴の足音とともに、重たい鉄鎖が擦れ合う耳障りな金属音が広間に響き渡った。
「帝国北方防衛卿、ならびに公爵夫人閣下。アルスター王国貴族院特使でございます。両国間の重大犯罪人引き渡し条約に基づき、越境逃亡を図った重罪人を連行いたしました」
王国査問使節の老貴族が、屈辱に震える声で深々と一礼する。 その背後で、二人の帝国憲兵に両脇を固められ、床に引きずり出されてきた男がいた。
――エドワードだった。
かつて王宮の大広間で華麗な絹をまとい、私を見下ろしていた王太子の姿は、そこには微塵もなかった。
泥と馬糞に塗れた衣服はぼろぼろに引き裂かれ、乱れた金髪には枯れ草が絡みついている。両手首には錆びた太い鉄枷が嵌められ、逃走中に転倒したのか、頬には生々しい擦り傷が赤く滲んでいた。
その男が、玉座に座る私を視界に捉えた瞬間、濁った瞳を大きく見開いた。
「エ……エレノア……!? エレノアじゃないか!」
掠れた甲高い声が広間に木霊する。 エドワードは憲兵の手を振り払おうと激しく身を捩り、膝を引きずりながら玉座の階段の下まで這い寄ってきた。
「おお、神よ! こんなところにいたのか! 探したぞ、エレノア!」
その顔に浮かんだのは、反省でも謝罪でもなかった。 泥塗れの顔にへばりついていたのは、救いを見出した者の歪んだ歓喜と、捨てきれない尊大な傲慢さだった。
「おい、何を突っ立っている! 見れば分かるだろう、俺は今、酷い目に遭っているんだ! あの愚鈍な貴族院の老いぼれどもが、俺を王太子から引きずり下ろそうと謀りおった! 書類も山積みで、堤防の金がどうとか喚き散らして……わけが分からん!」
エドワードは鉄枷の嵌められた両手を私の足元へ差し出し、命令するように喚き散らした。
「今すぐその汚らわしい鎖を外させろ! そして俺と一緒に王都へ戻るんだ! お前が執務室に戻って、あの忌々しい未決書類をすべて片付けろ! 治水予算の帳簿も、お前の手腕で適当に誤魔化して辻褄を合わせれば済む話だ!」
広間を取り囲む帝国近衛兵たちの眉が、侮蔑にピクリと動く。 だがエドワードは周囲の冷たい視線に気づくこともなく、狂気じみた笑みを浮かべて畳みかけた。
「安心しろ、戻ればお前を許してやる! マリアンヌのことはもういい、あいつは修道院送りになった! お前を正真正銘の王妃にしてやるから、早くしろ! 俺の婚約者だろうが!」
なおも命令口調を崩さず、自分を救うのが当然だと言わんばかりに叫ぶ男。
三年間にわたり、私の尊厳と時間を踏みにじり、最後は無実の罪を着せて国外へ叩き出した元凶。
私は膝の上で揃えていた手を静かに解き、玉座の肘掛けに指先を添えた。 怒りも、憎しみすら湧かない。
ただ、底知れない哀れみと冷淡さだけを瞳に湛え、階段の下で泥に塗れる愚者をまっすぐに見下ろした。
そして、静かに、澄み切った声で微笑みかけた。
「――あれ? もしかして私がいなくなって困っているんですか?」
ピシリ、と広間の空気が凍りついた。
エドワードの口元が、歪な形のまま硬直する。 言われた言葉の意味が、即座に理解できないようだった。
「な……な、んだと……?」
「三年尽くして冤罪で捨てたくせに、今さら謝られても……いえ、謝罪すら口にできないのですね。殿下――いいえ、前王太子殿下」
私は一切の感情を挟まない、洗練された貴族の敬語で、冷徹に事実を積み上げていった。
「わたくしはあの日、貴方ご自身の直筆署名と王家の印章をもって、合法的に婚約を解消し、国籍を離脱いたしました。貴方の書類を代決する義務など、一秒たりとも残されてはおりません」
「お、俺がいなければ、お前の生家はどうなる! 平民に落ちぶれたいのか!?」
「クロムウェル家は、わたくしが在籍中に整えた新通商路の権利により、すでに自立した財政基盤を確立しております。そして――」
私は右手の指先を、胸元の黒曜石の紋章へと滑らせた。
「わたくしは現在、ライゼンハイト公爵家の正夫人です。帝国皇帝陛下の特認により、貴国の王族といえども不可侵の公的地位にございます。一介の廃嫡された犯罪人が、気安く口を利いてよい相手ではございません」
「そ、そんなはずがあるか! 嘘だ! お前は俺の道具だ、俺の言う通りに書類を片付ける駒にすぎないんだ!」
エドワードが発狂したように床を叩き、階段を這い上がろうとする。
その瞬間、私の隣にいたクラウス公爵が、無言で立ち上がった。 大柄な体躯で私の前に立ち塞がり、自らの太い腕で私の肩を抱き寄せる。
私を背後に匿い、外敵の視線から完全に遮断するように包み込んだその腕には、鉄のような硬さと、燃えるような熱が込められていた。
「我が妻にそれ以上近づくな、汚らわしい害虫が」
クラウス公爵の氷点下の怒号が、エドワードの頭上へ落とされた。
殺気だけで人を射殺せそうなほどの威圧感に、エドワードは息を詰まらせ、階段の最下段へ転がり落ちた。
その無様な姿へ、アルスター王国の査問使節が冷ややかに歩み寄る。 使節は懐から、貴族院議長と療養宮の国王の連名による親書を取り出し、厳粛に広げた。
「犯罪人エドワード・フォン・アルスターに、王国最高査問会議の判決を言い渡す」
使節の声が、謁見の間に冷たく響き渡る。
「度重なる国政の職務放棄、ならびに治水特別準備金の不正横領による国土水没の罪により、王太子位の剥奪、平民への降格、王室からの永久追放を執行する。これより身柄を王国へ引き戻し、北方の国営鉱山監督下における終身強制労働刑に処す」
「こ、鉱山……!? 強制労働だと……!? 嫌だ、嫌だぁぁぁっ!」
宣告を聞いたエドワードは、泥水に顔を擦りつけ、まるで幼子のように手足をばたつかせて号泣した。
「エレノア、助けてくれ! 俺が悪かった、悪かったから! お前がいないと国が回らないんだ! 俺は何一つ分からないんだよぉぉっ!」
みじめに叫び散らしながら、元王太子は帝国憲兵と王国衛兵の手によって無理やり立ち上がらされ、引きずられていく。 かつて私を嘲笑い、踏みにじった男の成れの果て。
二度と届かない高みから見下ろす私の視界の中で、その背中は泥と涙に塗れ、重い扉の向こうへと消え去っていった。
激しい雨音だけが、静まり返った広間にいつまでも降り続いていた。




