第8話「防波堤の不在」
過去三年間、アルスター王国の破綻寸前だった国家財政は、エレノア・クロムウェルという一個人の緻密な帳簿管理と、昼夜を分かたぬ資金の融通によって辛うじて水面上に保たれていた。
王太子エドワードが浪費した夜会や狩猟の請求書を、無駄な部署の統廃合や不要な官職の削減で捻出した余剰金で補填する。
豪雨の季節が近づけば、貴族院の目を盗んで遊興費へと回されそうになる治水予算を、自らの名義で封印した特別準備金勘定へと隔離する。
王国の官僚たちが「何もしなくても国が回っている」と錯覚していたのは、彼女が独りで泥を被り、あらゆる破綻の芽を事前に摘み取っていたからに他ならなかった。
その防波堤が消失した結果が、現在の惨状だった。 王宮からエレノアが去ってわずか一月。 長雨による堤防の決壊、下流農村の壊滅、そして横領の露見。
アルスター王国貴族院の緊急査問会において、過去三年分の帳簿の原本が開示された瞬間、議場を埋める老貴族たちは総立ちとなって戦慄したという。
『――我々が神童と持て囃していた王太子殿下の実績はすべて、クロムウェル伯爵令嬢の代決によるものであった。彼女を追放した瞬間から、この国の行政は完全に息の根を止められていたのだ』
査問録に刻まれたその一文は、王国の愚行を歴史に刻む決定打となった。
◇
一方、ライゼンハイト公爵城の執務室には、秋の柔らかな陽光が差し込んでいた。
「奥様、こちらが南部の開拓村における『領民救済基金』の予算配分案でございます」
公爵家の財務官が、畏敬の念を込めて羊皮紙の束を差し出してくる。 私はペン先を止め、視線を帳簿へと走らせた。
「ええ、確認いたしました。越冬用の薪の補助金を一割増額し、その分、輸送用の馬車の手配を前倒しにしてください。雪が降る前に各家庭へ炭を行き渡らせる必要があります」
「かしこまりました。直ちに手配いたします」
財務官が深々と頭を下げて退室していく。 私はいま、公爵領独自の救済基金の設立に全神経を注いでいた。
アルスター王国がどう崩壊しようと、それは「他国の内政問題」にすぎない。
私が守るべきは、私を正当に迎え入れ、尊厳を認めてくれたこの土地と、ここに生きる人々だけだった。
「……エレノア」
執務机の向かい側から、クラウス公爵が声をかけてきた。 手元の軍事地図から顔を上げた彼の表情は、軍司令官としての厳しさを帯びている。
「アルスター南部が決壊したことで、職と家を失った難民が国境の関所へ押し寄せ始めている。さらに、王宮の治安崩壊に伴い、武装した脱走兵や略奪者が紛れ込む恐れが出てきた」
「流入の阻止と、領境の警備強化が必要ですね」
「すでに手を打った」
クラウス公爵は短く頷き、地図の国境線上に黒い駒を並べた。
「黒曜連隊の二個大隊を国境関所へ即日展開させた。魔導身元照会を通過できない身元不明者、および武装勢力は一人たりとも領内へ入れん。王国の混乱を、我が領土へ波及させるわけにはいかない」
「ありがとうございます、閣下。これで領民の生活は守られます」
私が安堵の息を吐くと、クラウス公爵は机の上の書類を片付け、傍らに置かれていた小皿を引き寄せた。
皿の上には、領内の果樹園で採れたばかりの、瑞々しい林檎が乗っている。
「……ずっと執務漬けだったな。少し休め」
クラウス公爵は腰の小型ナイフを抜くと、不器用な手つきで林檎の皮を剥き始めた。
大剣を振るえば一騎当千の剛腕が、林檎の薄い皮を前にして、ひどく慎重に動いている。
削ぎ落とされた皮の厚さは不揃いで、果肉の形も決して綺麗とは言えなかったが、彼は真剣な面持ちで一口大に切り分けると、銀のフォークを添えて私の手元へと差し出した。
「甘いものが脳の疲労を癒やすと、以前従軍医師から聞いた。……口に合うかは分からんが」
「閣下自ら……?」
「君は、私の妻だ。これくらいの手間を惜しむ理由はない」
差し出されたフォークを受け取ろうとした私の指先が、皿を押さえる彼の指と触れ合った。 林檎の甘い香りと、執務室に満ちる乾いたインクの匂い。
ふと視線が交錯する。
氷のようだったクラウス公爵の灰青色の瞳には、今や熱を帯びた慈しみが色濃く宿っていた。 その真っ直ぐな眼差しに射抜かれ、私の頬が一気に熱くなる。
クラウス公爵もまた、己のしたことに気後れしたのか、首筋から耳朶にかけてカッと赤く染め上げ、気まずそうに視線を逸らした。
静まり返った執務室に、コチコチと刻まれる置き時計の音だけが響く。 言葉はなくとも、互いの距離が確実に、甘く縮まっていることを、肌で感じていた。
◇
その頃、アルスター王国の王宮は、地獄の様相を呈していた。
「嫌よ! 離しなさいよ、無礼者! わたくしは王太子妃になる身ですのよ!」
貴族院の議場から、豪奢なドレスを無惨に汚したマリアンヌが、近衛兵たちに両腕を掴まれて引きずり出されていた。
狂乱し、泥靴で床を蹴りながら、彼女は壇上にへたり込むエドワードへ向けて甲高い悲鳴を浴びせかけた。
「エドワード様! 助けて、エドワード様! あの書類にサインしろって言ったのはあなたじゃない! 治水予算からドレスの金を抜いたのは、あなたがわたくしに良い格好を見せたかったからでしょう!? 全部、全部エドワード様がやれと言ったのよ!」
「黙れ、売女が! 貴様が俺を唆したのではないか!」
エドワードは顔を蒼白にし、唾を撒き散らして怒鳴り返した。 だが、その醜い罵り合いを、貴族院議長は冷淡に見下ろすだけだった。
「双方とも見苦しいぞ。レヴィ男爵家は本日をもって改易、爵位剥奪。マリアンヌ・レヴィには公金横領および公文書偽造の重罪により、終身修道院幽閉刑を言い渡す!」
「嫌ああああっ! そんなの嘘よ、助けてエドワード様ぁっ!」
引き裂くような絶叫とともに、マリアンヌは石造りの冷たい廊下の奥へと引きずり去られていった。
かつてエレノアを階段から突き落としたと偽証し、贅沢を貪り尽くした男爵令嬢の、あまりに哀れで凄惨な失脚だった。
そして、議長の冷徹な視線が、床に膝をつくエドワードへと向けられた。
「続いて、エドワード殿下。貴族院全会一致の議決を申し渡す。度重なる国政放棄、ならびに治水特別準備金の不正流用による南部水没の全責任を問い――本日をもって、貴殿の王太子位を廃嫡とする!」
「は……廃嫡……!? お、俺が……王太子を、クビだと……!?」
エドワードは信じられないものを見るように目を見開き、その場に崩れ落ちた。 取り巻きの文官たちもすでに全員が拘束され、財産没収と地方追放の処分が下されていた。
彼を庇う者は、この王国のどこにも一人として残っていなかった。
その夜。 王宮からすべての権力を剥奪され、自暴自棄となったエドワードは、深夜の混乱に乗じて厩舎から馬を盗み出し、王都を脱走した。 目指すは帝国国境。
エレノアのもとへ行き、泣きつき、あるいは脅しつけてでも書類を書かせれば、再び王太子の地位へ返り咲ける――そんな狂気の妄想に憑りつかれての凶行だった。
だが、彼が泥塗れになって辿り着いた帝国国境の関所には、冷酷な現実が待ち受けていた。
「止まれ! 身元を明かせ!」
抜き放たれた無数の長槍が、落馬したエドワードの喉元へ突きつけられた。
黒曜連隊の冷徹な兵士たちに組み伏せられ、泥の中に顔を押し付けられた元王太子は、なす術もなく手枷を嵌められた。
犯罪人引き渡し条約に基づき、身柄は即座に確保された。
アルスター王国から派遣された貴族院査問使節団が、手枷を嵌められたエドワードを引き取り、身柄引き渡しの正式な外交協議を行うため、ライゼンハイト公爵城へと向かう隊列を整えていた。




