↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三年尽くして冤罪で捨てたくせに、今さら謝られても。 あれ? もしかして私がいなくなってお困りですか?  作者: 月雅


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/10

第7話「遅すぎた手紙」



「――これを読め、エレノア。エドワード王太子殿下直々の恩赦の親書であるぞ!」


 公爵執務室の重厚な空気を切り裂き、アルスター王国からの使者が傲岸不遜な声を張り上げた。


 豪奢な絹の上着をまとった使者は、長旅の埃を払うことすら忘れ、勝ち誇った笑みを浮かべて書状を突き出してきた。

 北方方面軍の哨兵によって公爵城まで連行されてきたというのに、彼はいまだに自分が「大国の公爵館」にいることすら理解できていないらしい。アルスターの宮廷文官特有の、井の中の蛙めいた全能感が全身から滲み出ていた。


 机の向こうに座るクラウス公爵が、無言のまま冷ややかな視線を投げる。  その隣に立つ私は、感情を一切交えない会釈を返し、使者の手から親書を受け取った。


 上等な蜜蝋で封じられた書簡を開くと、懐かしくも胸の悪くなるような、乱暴で歪な筆跡が目に飛び込んできた。エドワード王太子の直筆である。


『エレノア・クロムウェルへ。  マリアンヌを突き落とした貴様の卑劣な罪は万死に値するが、寛大なる俺は、反省の色次第で恩赦を与えてやることにした。

 現在、王都の内務書類が多少滞っており、愚鈍な文官どもでは埒が明かん。貴様が直ちに王宮へ戻り、以前のように不眠不休で執務を代行し、滞留したすべての案件を処理するならば、国外追放を解き、再び婚約者の立場に戻してやらんこともない。

 有難く拝領し、この使者とともに今すぐ帰還せよ』


 ――あまりの尊大さに、呆れを通り越して乾いた笑いすら起きなかった。


 自分たちが私を冤罪で叩き出したことへの反省もなければ、窮地に陥ったことへの恥じらいもない。

 書類が山積みになって国政が回らなくなったから、「許してやるから戻ってきてまたタダ働きをしろ」と命じているのだ。

 三年間にわたり彼らの無能の防波堤となり、過労死寸前まで搾取され続けた日々が、脳裏をかすめる。


 私は眉ひとつ動かさず、手紙を丁寧に二つ折りにした。  そして、執務室の壁際にある大理石の暖炉へと、静かに歩み寄った。


「おい、何を愚図愚図している! 身支度を整えんか! 殿下の御慈悲に涙して平伏――」


 使者が唾を飛ばして喚き散らす中、私は手に持った親書を、赤々と爆ぜる暖炉の業火の只中へと、躊躇なく落とした。


 パチリと火の粉が舞い上がる。  上質な紙は瞬く間に黒く縮み、エドワードの歪な筆跡を灰へと変えていった。


「な……っ!? き、貴様、何を血迷ったのだ!?」


 使者の顔が、驚愕と怒りで真っ赤に染まった。  指先を震わせ、今にも掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出してくる。


「殿下直筆の親書を燃やすなど、反逆だぞ! 身の程を弁えぬ元追放令嬢が! 王太子の命に背けば、アルスター王国と帝国との間で重大な国際問題になるのだぞ! 貴様一人の首では済ま――」


 ――ドォンッ!!


 雷鳴のような轟音が執務室に響き渡り、使者の怒声が喉の奥で押し潰された。


 クラウス公爵が、無言のまま立ち上がり、鉄鋲の打たれた重厚な軍靴を一歩、石畳に踏み鳴らしたのだ。

 その一撃だけで床が微かに震え、部屋の空気が絶対零度まで凍りついた。


「……私の前で、誰に向かって吠えている」


 クラウス公爵が机を回り込み、使者の目の前へと歩み寄る。  百戦錬磨の北方方面軍総司令官が放つ、剥き出しの殺気。

 大男であるクラウス公爵に見下ろされた使者は、まるで巨大な猛獣の前に引きずり出された小動物のように、ガチガチと歯の根を鳴らしてへたり込んだ。


「ひ、あ……ぐ……」


「先日の式典において、皇帝陛下の特認のもと、エレノアは我がライゼンハイト公爵家の正夫人として全土に布告された。帝国の筆頭公爵夫人に対し、他国の使節が恫喝と侮辱を重ねるなど――」


 クラウス公爵は腰の佩刀の柄に、無骨な手を掛けた。  カチリと、鯉口の切られる冷徹な金属音が静寂を裂く。


「我が帝国に対する、即座の宣戦布告と見なすが……貴国はその覚悟があってここへ乗り込んできたのか?」


「め、滅相もございません! わ、私どもはただ……!」


 使者は白目を剥き、床に額を擦りつけて悲鳴を上げた。  アルスター王国のような弱小国が、帝国筆頭公爵領の軍勢に睨まれて生き残れるはずがない。

 己がどれほど致命的な越権行為を働いたか、この期に及んでようやく理解したのだ。


「衛兵」


 クラウス公爵の短く鋭い声に、執務室の扉が開き、黒曜連隊の武装兵が踏み込んできた。


「この無礼者を直ちに城外へ叩き出せ。国境の関所まで護送し、国外へ追放しろ。二度と我が領土の土を踏ませるな」


「はっ!」


 引きずられていく使者の見苦しい命乞いの声が、廊下の彼方へと消えていく。  暖炉の中では、親書の灰が微風に吹かれて跡形もなく散っていた。


 三年間の重苦しい軛が、完全に焼き切られたような清々しい風が、私の胸を通り抜けていく。  もう、あの愚かしい者たちの声が私に届くことは二度とないのだ。


 その時だった。


「待って!」


 廊下から、小さな足音が駆け込んできた。  現れたのは、息を切らしたテオドールだった。

 少年は執務室の状況を一瞥するなり、脱兎の勢いで私の元へと駆け寄ると、両手を広げて私の前に立ちはだかった。

 背伸びをして、私の腰を庇うようにして小さな身体を張る。


「母上を連れていくな! 母上は僕たちの家族だ! 絶対に渡さない!」


 灰青色の瞳を燃え上がらせ、少年はまだ見ぬ王国の影に向かって、張り裂けんばかりの声で叫んだ。

 かつて心を閉ざし、世界を拒絶していた少年が、今や自らの意志で私を守ろうと盾になっている。

 その必死な温もりに、私の視界がふわりと潤んだ。


「テオドール……ありがとう。でも、大丈夫ですよ。わたくしはどこへも行きません」


 私が少年の細い肩に手を置き、優しく囁くと、テオドールは振り返って私の腰にぎゅっと抱きついた。

 その小さな温もりを抱きしめながら、私はクラウス公爵へと向き直った。


「閣下、ご迷惑をおかけいたしました」


 クラウス公爵は佩刀から手を離し、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。  そして、抱き合う私たちの前に立つと、おもむろに私の右手を取り上げた。


「……閣下?」


 驚いて顔を上げる私を、クラウス公爵は真っ直ぐに見つめていた。  彫刻のように端正な顔立ちが、微かに強張っている。

 彼は私の手を両手で包み込むと、低く、熱を帯びた声で告げた。


「君を、誰にも渡す気はない」


 一点の曇りもない、剥き出しの言葉だった。  公爵としての責任でも、教育係への報酬でもない。  一人の男としての、あまりに愚直で切実な独占欲。

 言い終えた瞬間、クラウス公爵の白い頬から耳朶にかけて、カッと鮮やかな赤みが差した。

 自らの口から出た言葉の熱さに耐えかねたように、彼は不器用に視線を泳がせながら、それでも私の手を決して放そうとはしなかった。


 テオドールが私の腰に顔を埋めたままクスクスと笑い、私の胸の奥では、甘く熱い動悸がいつまでも静かに鳴り響いていた。


◇


 その頃、アルスター王国の王宮大広間には、怒号と悲鳴が渦巻いていた。  国王の療養宮を無視して緊急招集された貴族院査問会。

 円卓を囲む重鎮貴族たちの前に、一枚の決済書類が叩きつけられた。


「エドワード殿下! この『治水特別会計』から引き出された金貨三万枚の用途は何だ! 堤防修繕の予算を横領し、このレヴィ男爵令嬢のドレスや夜会費用に注ぎ込んだというのは事実か!?」


 主計卿の怒号に、豪奢なドレスを着たマリアンヌが「ひ、ひぃっ……!」と悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。

 書類の末尾には、偽造された公印とともに、マリアンヌの稚拙な署名がはっきりと残されている。


「だ、騙されたのだ! 俺は知らん! すべてマリアンヌが勝手にやったことだ!」


 エドワードは青ざめて愛妾を指差し、見苦しく叫び散らした。

 だが、冷徹な貴族院議長の手元には、すでに王太子の直筆サインが押された横領承認書の原本が握られていた。


「言い逃れは見苦しいぞ、エドワード殿下! 貴様の愚行のせいで、南部の農村は泥水に呑まれ、今や民衆の暴動は王都の門前まで迫っているのだぞ!」


 大広間に轟く弾劾の嵐の中、エドワードはただ頭を抱え、獣のように絶叫することしかできなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。