第6話「黒曜石の誓い」
私は姿見の前に立つテオドールの前に膝をつき、濃紺の礼服の襟元を指先で整えた。
銀糸で刺繍されたライゼンハイト家の家紋――双頭の黒鷲の徽章を指先で微かに撫で、歪みがないかを確かめる。
かつて荒れ果てた部屋でペーパーナイフを振り回していた面影は、今の彼には微塵もなかった。切り揃えられた黒髪に、背筋を真っ直ぐに伸ばした立ち姿。灰青色の瞳には、次代の公爵世子としての誇りと理知が静かに宿っている。
「緊張していますか、テオドール」
「ううん。母上が選んでくれた服だから、平気だ」
少年は恥ずかしそうに頬を緩め、私の手元をじっと見つめた。 あの日、熱病の夜を越えて以来、彼は私を躊躇なく「母上」と呼ぶようになっていた。
今日は、帝国北部全土から貴族や領民の代表が集まる、年に一度の「領民感謝式典」である。これまで頑なに社交の場を拒絶し続けてきたテオドールにとって、これが名実ともに社交界への初お披露目となる日だった。
「テオドール様、奥様。開場の時刻でございます」
老執事の静かな呼びかけに、テオドールはコクリと頷いた。
大広間の重厚な扉が開かれると、パイプオルガンの荘厳な調べとともに、何百本もの蜜蝋の蝋燭の光が視界いっぱいに広がった。
会場を埋め尽くす貴族や高官たちの視線が一斉に注がれる中、テオドールは堂々たる足取りで赤絨毯の上を歩み出した。 歩幅は一定、視線は水平。
会釈を向けてくる重鎮たちに対し、少年は立ち止まることなく、完璧な角度の会釈と優雅な手礼を返していく。
詰め込み教育で精神をすり減らしていた頃の頑なさは消え、領民の暮らしを深く理解した彼から滲み出るのは、真に上に立つ者としての品格だった。
「……あれが、あの悪名高かった世子殿下か?」 「なんと凛々しい……。立ち居振る舞いに一点の隙もない」
広間のあちこちから、驚嘆と感服の混じった囁きがさざ波のように広がる。
私は公爵家の契約上の教育係として、その栄光を邪魔せぬよう、彼から三歩下がった壁際の目立たぬ位置へと身を引こうとした。
(私の仕事は、ここまで。テオドールが認められれば十分だわ)
そう思って足を止めた瞬間、少年の足もまたピタリと止まった。
テオドールは壇上へ向かう赤絨毯の途中で足を止め、驚く周囲の視線を物ともせず、振り返って私の元へと歩み寄ってきたのだ。
「テオドール……?」
私が戸惑って声を落とす間もなく、少年は私の白手袋に包まれた右手を、両手でしっかりと握りしめた。
「母上、一緒に行こう。僕をここまで引き上げてくれたのは、母上なんだから」
有無を言わさぬ真摯な眼差しで、彼は私の手を引き、壇上へと歩き始めた。 ざわり、と会場の空気が冷たく張り詰めた。
他領から招かれた帝国保守派の貴族たちが、扇子の陰からあからさまな侮蔑の眼差しを私へと突き刺してくる。
「……あの方が、クラウス閣下が王国から連れ帰ったという……」 「アルスターの王太子に捨てられ、国外追放された元令嬢であろう」
「なぜあのような素性の知れぬ他国者が、我が帝国の至宝である世子殿下の手を取って壇上に立つのか」
棘を含んだ囁きが、冷えた刃のように耳朶を打つ。
身分秩序を何よりも重んじる帝国貴族にとって、小国の「追放された元婚約者」など、眉をひそめるべき異物にすぎないのだ。
テオドールがそれに気づき、悔しげに眉根を寄せ、私の手をさらに強く握り直した。
私が少年の手を優しく撫で、その緊張を解こうとした――その刹那だった。
大広間の空気を両断するように、重厚な軍靴の足音が石畳を打った。
黒曜石のボタンが煌めく漆黒の正装に身を包んだクラウス公爵が、壇上から大股で歩み下りてきたのだ。
軍司令官としての圧倒的な威圧感に、冷笑を浮かべていた貴族たちが一瞬で息を呑み、広間は墓場のような静寂に包まれた。
「閣下……」
私が言葉を紡ぐより早く、クラウス公爵の逞しい腕が伸びた。 手加減のない確固たる力で、私の腰が引き寄せられる。
「あっ……」
声を上げる暇もなく、私は彼の堅固な胸板のすぐ傍へと抱き寄せられていた。 触れ合う腰布を通して、彼の掌から熱い体温が直に伝わってくる。
クラウス公爵は私をその腕の中にしっかりと囲い込んだまま、冷徹な灰青色の瞳で広間の貴族たちを睥睨した。
「諸卿に紹介しよう」
低く、深く響き渡る声が、大聖堂のような広間の天井を震わせた。
「我が妻であり、ライゼンハイト公爵家の誇りである、エレノア・フォン・ライゼンハイトだ」
広間を埋める数百名の息が、同時に止まった。 形だけの再婚などという曖昧な表現ではない。
帝国最強の武人が、公衆の面前で、自らの家門の名にかけて私を「唯一無二の妻」であると公式に宣言したのだ。
「息子の恩人であり、領政の暗雲を払った我が妻を侮辱することは、この私、そして北方方面軍全軍への敵対と見なす。心せよ」
氷点下の宣告に、陰口を叩いていた貴族たちが青ざめ、揃って頭を深く垂れた。 もはや誰一人として、私を蔑む視線を向ける者はいなかった。
守られている。 理不尽に晒され、すべてを一人で背負わされ続けてきたあの三年間の記憶が、この男の頑丈な腕の中で音を立てて融解していくようだった。
だが、私の動揺はそれだけでは収まらなかった。
クラウス公爵はおもむろに私の右手を取ると、自らの胸元へと引き上げた。 黒手袋を外した彼の無骨な指先が、私の指を掬い上げる。 そして――。
公衆の面前、壇上の光を浴びながら、彼は私の手の甲へと、深く、熱い口づけを落とした。
「……っ!」
唇の熱さが、皮膚を通して電撃のように全身を駆け巡る。 形式的な騎士の礼ではない。
伏せられた彼の長い睫毛が震え、手の甲に触れる唇は、微かに情熱を押し殺すように強く押し当てられていた。
顔を上げたクラウス公爵の瞳には、冷徹な執政官の色など欠片もなかった。 剥き出しの独占欲と、底知れない情愛を孕んだ熱い光が、まっすぐに私を射抜いている。
(な、に……これ……)
私の心臓が、早鐘のように激しく跳ね上がった。 ドクドクと耳元で脈打つ音が響き、頬が一気に熱く染まっていくのを止められない。
契約結婚のはずだった。ビジネスライクな関係だったはずなのに――この男の瞳に宿る熱は、あまりにも本物すぎた。
テオドールが誇らしげに私のドレスの裾を握り、会場中から割れんばかりの拍手と祝意の歓声が巻き起こる。
甘い動悸と混乱に視界が揺れる中、熱狂の頂点に達した大広間の大扉が、不意に激しい音を立てて押し開かれた。
「ぐ、軍司令卿! 緊急公電にございます!」
駆け込んできたのは、泥と汗に塗れた帝国の国境通信兵だった。 肩で激しく息を切らし、青ざめた顔で筒状の封筒を掲げている。
「アルスター王国からの至急親書を携えた使者が、関所に到着いたしました! 緊急事態にございます!」
祝祭の空気が一瞬にして凍りついた。 クラウス公爵は私を背後に庇うように一歩前へ出ると、冷徹な眼差しを取り戻して封書を受け取り、蝋封を叩き割った。
広げられた親書に目を通したクラウス公爵の眉が、険しく引き結ばれる。 その文面に記されていたのは、あまりに破滅的な王国からの凶報だった。
『――アルスター王国南部の大堤防が決壊。下流の穀倉地帯および農村が壊滅的浸水。流用された治水予算の責任を巡り、王都にてエドワード王太子に対する大規模な貴族院の反乱および民衆暴動が発生寸前――』
防波堤を自ら叩き出した愚者たちの国が、ついに濁流に呑まれ、瓦解を始めていた。




